第9話 愛善光明会

 次の日の夕方、沙耶子は澄花の家を訪れた。

「これお土産」

 沙耶子が渡した荷物は、包みが一つとワインが一本。

「お酒?」

「飲まないの?」

「未成年だよ?」

「フランスでは普通に未成年でも飲んでたけど」

「ここは日本。日本でも飲む人はいるかもしれないけど、私は飲みません」

「あら。じゃあ誰かに贈り物にでもしたら?」

 澄花の頭に浮かんだのは、叔母であった。


 そしてもう一つの包みは、肉であった。

「……まさか人肉じゃないでしょうね」

「高級和牛。澄花へのプレゼントよ」

「こんなこと今までしなかったのに」

「まああぶく銭が入ったのよ」

 殺した男のつけていた時計が高く売れたのだ。


「そういえば前から聞きたかったんだけど、沙耶子ってどうやって生活してるの?」

 澄花はふと思った。

 食費はタダだし、衣料品も変身を使えるだろうが、その変身もある程度は力を使うようだし。

 住所は聞いているが、その家賃なども謎だ。

 他にもちゃんと住民登録などはしているのかなど、聞きたいことは色々とある。

「ああ、主に不動産収入よ」

 堅実なのか堅実でないのか、澄花にはよく分からない。

「長く生きてるとそれだけで、戦争の匂いとかが分かってくるのよね。あとは相場がどう動くかとか」

「デイトレーダーってやつ?」

「いや、株も持ってるけど私は基本的に長期だから……。いざとなれば不法行為でもどうにでもなるけど、基本的には合法的に生きてるわよ」

 確かに沙耶子の影を見る限り、そういったささいな犯罪は犯していないようには見える。


 そこでふと、といった感じで沙耶子は言った。

「ねえ澄花、貴方や貴方に利益のある人が、外国に行くことはある?」

「え? 私はないけれど……叔母さんたちはどうかな……」

「もうすぐ戦争が起こるから、日本から出ない方がいいわよ」

「え!? それって予知能力みたいなもの?」

 沙耶子はぷらぷらと手を振る。

「勘よ。でも500年以上を生きてきた吸血鬼の勘は、けっこう当たるのよ?」

 なんでもチューリップバブルの経験から、第二次大戦前の大恐慌や、日本の土地バブルなども見切ったらしい。


 だがそれと戦争はどう関係しているのか。

「景気が悪くなると戦争が起こるのよ。政府の財政出動があるし、兵隊として雇用が出来るし」

 だが確かに今は景気は悪いが、戦争が起こるほどだろうか。

「正確に言うと、もう起こってるんだけどね」

 各地の紛争などではなく。

「まあそれはともかく、料理したら?」

 超高級和牛には勝てなかったよ。




 澄花は自炊が出来る程度には料理をするが、別に得意というわけではない。

 それでもステーキは美味かった。素材が違いすぎる。

「何このお肉! 唇で噛み切れるんですけどー!」

 普段とノリの違う澄花を、沙耶子は生暖かい目で見守っていた。

 部屋を見て、キッチン周りも見る。

 ちゃんとした、生活を送っている人間の気配。


 食事の件を別にしても、澄花は年の割りに、そういった生活習慣がきっちりとしている。

 本人に聞くと、時折やってくる叔母が、その辺は厳しいらしい。

 ちゃんとした生活を送れないのなら、うちで引き取りますからね、と叔母なりの気遣いらしい。

 善意で言ってることが分かるだけに、澄花も無碍に断りにくい。

「ふうん」

 沙耶子はどうでもよさげに呟いたが、頭の中ではしっかりと思考を働かせていた。


 沙耶子にとって澄花の存在は、非常に便利なものだ。

 人間関係が希薄で、自分を信用している。

 何よりその特殊能力こそ、自分が求めていたものだ。

「ねえ、澄花は将来設計をどう考えてるの?」

 突然の話題に、澄花は口の中の肉を飲み込んでから答える。

「突然どうして?」

「貴方、まともに人の集まるところには勤められないでしょう?」

 う、と澄花は現実に引き戻される。


 澄花にとって人間の集まる場所は苦痛だ。

 接客業は無理だろうし、だが特定の人間とばかり接する職場でも、問題のある人間がいればそこは辛い職場になる。

「出来るだけ人と接することが少なくて、その接する人も罪人が少ない職業ってなんだろう……」

「作家とか?」

「無理だあ」

 澄花は己のことを、平凡な人間だと思っている。

 能力的には平凡で、そして対人関係を築くのは、かなり苦手だとは認めている。


 この目を使うなら、色々と出来ることはあると思う。

 しかしそのためには、準備がいるだろう。

 大学を出るぐらいまでは問題なく暮らせるぐらいのお金は残してもらったが、一生何もしないでいるわけにはいかない。

「高校を卒業したら、私の仕事を手伝わない?」

 急な勧誘に、澄花は肉を飲み込む。食道の中でほどけていく柔らかさだ。

「仕事って、不動産屋?」

「それもあるけど、そこから関係する色々なことね」

「……考えてみる。でも大学には行くつもり」

「そうね。大学も専門的な知識は……日本の大学って、役立たずが多かったような……」

 首を傾げる沙耶子だが、とりあえず放っておいていいだろう。

 澄花に必要なのは、対人関係をあまり意識しない、専門的な技能である。




 夏休みの潜入作戦について、沙耶子はさらに詳しく愛善光明会について調べてきていた。

 その実態は単に宗教と言うよりは、宗教団体を母体とした企業とも言える。

 宗教団体らしく保育園を営んでおり、こちらは責任者こそ団体の人間であるが、勤務している者にまでは無理に信者を使わず、それなりに黒字経営をしている。

 あの集落の建物を建築したのは、大規模な物を除いては自前の会社で、別に教団と宗教施設だけを限って請け負っているわけではない。

 他にも飲食店やスーパーなどを、細かくやっている。


 はっきり言ってしまえば、優良企業である。

 宗教という糸で結ばれてはいるものの、なんらかの理由で社会を一度ドロップアウトした人間も、表の社会に再度出している。

 もっとも信者なので寄付などはあるだろうから、完全に善意というわけでもない。

 澄花のようなコミュニケーションの難しい人間に向けて、弁当の製造工場などもやっている。

「……これって過去はともかく、今は善良な宗教団体なの?」

 思わず澄花もそう言ってしまった。


 沙耶子としても、そういった反応は予想できていた。

 そして彼女は断言する。

「この世に善良な宗教団体なんてないわ」

 冷たい目をして、冷たい声を出していた。

「罪なく生まれた人間が、やがては罪を犯すように、どんな善良な目的から生まれた集団も、五年もすればカルト的な要素を持たざるをえない」

「それはさすがに言いすぎじゃ……」

 確かに赤子であっても、五年もすれば人を騙すことを覚えるし、人を傷つけることもするようになるのだが。


 沙耶子の目から見て、澄花は善良な部類の人間に思える。

 だが善と悪などという基準は、実に曖昧であるのだ。

「人が己の思考以外に判断を委ねることが、即ち悪なのよ」

「ごめん、沙耶子の言ってること難しくて分からない」

「難しいんじゃなくて、単に人生経験の差なんだけれど」

 沙耶子のこの思考は、哲学である。

 死後の保証などをしてくれる宗教というのは、権力者にとっては都合の良いものだ。

 なぜなら人間が、生きている間だけその存在を保てるものならば、現世を救うためにもっと必死で生きようとするだろうから。

 権力者の権力は、民衆の怠惰の上に成り立っている。

 民衆でも怠惰でない者は、その能力で権力者になれるのが、現代のいいところだろ沙耶子は思う。


 だが澄花の言いたいことは分かる。

 たとえ当初の目的がどうであろうと、現在においてそれが益を与えているのであれば、それは崩すべきでないというのが、沙耶子の基本的な考えだ。

 それに経営している店なども、最高責任者こそ教団の幹部を兼ねているが、雇用されている者は一般人が多い。


 愛善光明会の巧妙で悪質なところは、教義がないことだとは説明した。

 日本人はそもそも、よほど厳格な宗教の家庭にでも生まれない限り、神仏混淆で無宗教と自分を錯覚するところがある。

 だが神社に行ってごく自然と祈ることが出来るのは、それが既に宗教的なのである。

 食事の時に「いただきます」というのも仏教からきているという。

 大木や山や岩を拝むのが、原始的な自然崇拝だ。

 愛善光明会は、教祖の能力こそ確かに奇跡であるが、それを理論付けることは不可能であるため、自然崇拝と教祖信仰が存在する。

 母体となった宗教団体はあるが、教祖はともかくその母体には敬意なども払っていない。


 信者数が20万というのは、企業としてみれば巨大なものである。

 そしてその傘下となる従業員まで含めれば、とてつもないものになる。

 だがそれでも、真っ当なやり方だけでは、この規模の組織を維持するのは難しいだろう。

「顧問弁護士もいるし、政治家への献金もしてるし、地元の共同体とはむしろ良好な関係を築いてるのよね」

 沙耶子の調べてきたことは、ネットだけでは探せない情報だ。

 彼女の数百年を生きる吸血鬼。その人生の過程では、様々なところに伝手があるというものだ。




 その彼女の伝手によると、愛善光明会もまた、政府のマークする団体ではある。

 だが様々な利権、微妙な政治力のバランス、そしてより悪質で分かりづらい悪意を優先して、国家権力が動くことはない。

「悪い影響を与えているのよね?」

 澄花にとってはそこが疑問なのだ。

「マフィアを下手に駆逐すると、外からもっと悪質なのが侵入したりするからよ。そのあたりは政府の考え次第だと思うわ」

 沙耶子にとっては当たり前の現実であるのだが、澄花はまだ本格的な人の悪意に直面したことがない。


 単に殺そうとしてきたりする相手などは、こちらも武装して追い返せばいい。

 宗教の布教のように、一見すると安全に見えて、利益をもたらしてくれるものの方が恐ろしい。

 そのあたりもいずれは説明してやるべきだろう。澄花とはそこそこ長い付き合いになりそうなのだし。


 今の問題は澄花に人殺しを確認してもらった上で、どこまでを殺すかということ。

 沙耶子にとってはジレンマなのだが、あまり人殺しを殺しすぎると、世間にお灸が利きすぎて、犯罪が少なくなってしまう。

 だから沙耶子は殺すのではなく、行方不明にするようにしている。誠のように。

 どのみち無理ではあるのだが、沙耶子はこの世界から人殺しを一掃する気もなければ、人殺しが起きにくい世界にする気もない。

 食事の安定供給がされるのが一番なのだ。

 それに本当なら人殺しを探すなら、もっと治安の悪い国に行った方が探しやすい。

 殺し屋のように、人殺しを専門に殺してもいいのだから。そういう需要はあるのだ。


 だが、今は澄花だ。彼女との仲を深め、彼女の能力を正しく把握しないといけない。

「どうしようかしらね」

 16人を殺した人殺し。それが組織的になされたことであるなら、複数人を殺した人間はもっともっと多いだろう。

 それを半分食べるだけでも、半年分ぐらいは食いだめが出来そうだ。

 沙耶子は笑みが浮かぶのを抑えるので必死であった。

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