第7話 神を騙る

 愛善光明会の勉強会というのは、埼玉の本部にまで行くこともなく、東京でも郊外の家を使ってなされている。

 広い和室を二つ、襖を開いて使い、拝礼などの作法を教わり、教祖の言行を集めた教典を読み、それを元に現在の社会問題などを論じる。

 正直言って澄花は、思ったよりも胡散臭くないので驚いた。

 それに集まっている人は、影の中に大きな罪を背負っている人は少ない。

 だいたいどんな宗教でもよほどのカルト以外は、末端の構成員は善良であることが多いものだ。


 沙耶子と一緒に参加した澄花であるが、彼女は宗教による救いなど全く求めていない。

 神道でお払いをしても、仏教で供養しても、罪の記録は消えないのだ。

 それはキリスト教による告解でもそうであり、宗教は罪を赦すことはない。少なくとも澄花はそれで赦されるとは思えない。


 罪が消えるのは、人が死んだ時だけである。

 死体の影には、もう罪の記録は見えない。

 つまり影を通して罪を見つめていると澄花の視界は認識しているが、実際に見ているものはそれとは別なのだ。

 澄花が見ているのは罪であり、それは人間の命でもある。

 人間が赦されるのは、死んだ時だけである。




 薄々気付いていたことではあるが、沙耶子は相当に頭がいい。

 勉強が出来るとか、知識が多いとかではなく、価値観がフラットなのだ。

 自身を一応のキリスト教徒と言ってしまうあたり、宗教の毒にもかぶれていない。

 そしてそんな沙耶子と愛善光明会の相性は、かなり良かった。


 神道系の宗教の良いところは、観念的な教義が薄いことである。

 もちろんそれでもいくらでも悪いところはあるのだが、その悪さというのは価値観の違いから発生するものであって、異なる価値観をどれだけ許容出来るかが、日本における新興宗教の広まり方に関係する。

 愛善光明会では、難しいことは言わない。

 罪とか業という言葉を使わず、人間の生きていく上で重なるそれを、歪みと呼ぶ。

 たとえばマッサージ店を経営するのは、簡単に骨格などの歪みが出ると、健康に悪いからである。

 無農薬野菜を食べるのは、残留農薬により体の消化器に歪みが出るからである。

 こうやって勉強会をすることで思考の歪みをなくし、より人生を良いものとして過ごそうとする。


 教祖はそれを体現した存在で、あくまでも象徴。

 前会長がその言葉などをまとめ、それに従って生きていこうというのが、一応は教典となっている。


 あとは特徴的なものは、火と水の清浄なものを信じるということ。

 火は言うまでもなく疫病を祓う浄化の象徴であるし、清い水は体調を良くする。

 本部には湧き水があり、それを聖水ならぬご神水として持って帰って飲むのだとか。

 また複雑なものではないが、火と水を使った儀式も行うらしい。


 おそらく沙耶子がそのつもりになれば、教義の矛盾などを突くことも出来たのだろう。しかしそれは彼女の目的ではない。

 彼女の目的は捕食である。なので教義について質問はしても、その矛盾を突く必要はない。

 そもそもこういった宗教は、当然の質問や疑問には答えられるようになっている。

 沙耶子のような、本質的に人間の価値観など持っていない生物以外には。


 そして澄花も、言葉では何も信じない。

 彼女が信じるのは、その人間の過去の罪だけである。

 だから春菜のような、一見すると遊んでいるような、けれど実際には心根の優しい少女は好ましい。

 誠のようにたいがいの人間に対しては健全そうに見えるが、ごく一部に対しては徹底的に利己的な人間は恐ろしいのだ。

 自分がいつ、そのごく一部になるか分からないので。


 そんな澄花は軽い罪しか犯していない信者に対して、少し警戒感を薄くしていたようだった。

 両親がいない一人暮らしということを話してしまったのだから。

 表層的には親切そうな信者たちは、その境遇に同情する。

 だが善意から、愛善光明会の共同体への参加を促す。

 人間は全くの善意から、他人を不幸に陥れることが出来る存在だ。

 そして場合によってはその不幸な境遇の人間だけでなく、その共同体の全ての人間が、それを不幸だとは思わなかったりもする。


 どうにかして沙耶子が潜り込もうとしていた本部。

 それに誘われたのは、澄花の方であった。

「沙耶子が一緒なら……」

 そう言った澄花に微笑みかけた沙耶子は、ご馳走を前にした子供のような笑みを浮かべていた。




 愛善光明会の宗教的な収入の一つに、寄付というものがある。

 おおよそは一般信者の常識的な額であるのだが、それ以外には身内のいない信者の死亡時に財産が寄付されたり、割と有名な芸術家などが信者になっていたりする。

 そこにはちゃんと理由があって、澄花は悪い意味で感心したものだ。


 愛善光明会の本部は秩父山中にあり、信者以外はごく一部の許可を得た者以外は出入りを禁止している。

 その中に信者だけが入れる、美術品などを集めた美術館が存在するのだ。

 これはなんでもバブル期に集めた物で、真善美のうちの美にふれるためという触れ込みであるが、実際のところは税金対策などなのだろう。

 美術館は誰にでも無料で解放されているが、そもそも本部自体が信者以外には基本的に入れないことになっている。

 その中の美術館に入ろうと思えば、手っ取り早いのが信者になることである。

 愛善光明会ははっきり言って、信者の囲い込みなどは緩い。だからこそその危険性に気づかないということもあるのだろうが。

 また本部内の建築物は有名な建築家に依頼したものなどもあり、それを見るためにとりあえず信者になっておくかという芸術家もいる。


「巧妙ね」

 このシステムを聞いた時、沙耶子はそう言ったものだ。

 澄花の家で話し合うのは、もう日常となっている。

 逆に澄花はまだ沙耶子の家に行ったことはない。住所は教えてもらっているのだが、沙耶子が移動した方が早いので。

「巧妙?」

「無害なフリをしていれば獲物は寄って来るし、害を成されようとした時、防御壁になってくれる人間を増やしている」

 芸術家だのなんだのは、変にカルトにかぶれていても許される風潮があるし、まったく政治的、道徳的見識がなくても、なんだかすごそうに見える人種だ。

「昔の芸術家は学問エリートだったんだけど、今ではむしろ無学な者が芸術家になったりしてるのよね」

 沙耶子の昔がどれだけ昔なのかは、詮索しない澄花である。


 一応今回の訪問は一日だけとなっている。

 学生向けには長期休暇中に、色々な体験をしてもらうコースというのがあるのだが、ここまでが信者でない人間の限界である。

 本部と言っても建物一つとかではなく、小さな町が丸々入るぐらいの敷地はあり、2000人ほどがそこに常駐というか、住人と化している。

 外部との連絡は、住人の中でも義務教育期間の子供が朝夕に通うバスぐらい。

 基本的には外にある集会所に集まり、そこからバスで向かうのが基本だ。

 車で行くことも出来るのだが、許可がいる。


 パンフレットをもらったのだが、それによると本部の中では携帯電話も使えないらしい。

 電話線自体は来ているのだが、全て有線だ。ネットが使えるのは集会所と本部だけとなっている。

「外界と隔離されている?」

「スマホ自体は別に没収されるわけでもないから、写真の機能だけでも使えるわ」

 写真の機能だけのために、スマホを持っていくのか。

「でもネットもないし、テレビも映らないんじゃ、どう時間を使うの?」

 澄花はインドア派であるが、それだけにネットのない生活というのが想像出来ない。

「ネットなんてこの半世紀に普及したものだし、100年前にはテレビだってなかったでしょうに」

「……言われてみれば昔の人って、何して夜は過ごしてたの?」

 昔から生きている沙耶子に尋ねる澄花である。

「読書と勉強でしょ。あと電気自体はあるから、パソコン自体は使えるでしょうし」

「ネットのないパソコンになんの意味があるの?」

「……これだから今の若い者は!」

 珍しく呆れて怒る沙耶子であった。


 夜の世界の種族とは言え、既に昼に適応してから500年を生きる沙耶子である。

 つい最近まで存在しなかったテレビやネットを考えれば、何をすればいいのかは分かる。

「と言っても澄花には相手がいないのよね……」

「ゲームでもするの?」

「いえ、庶民は夜が暇で灯りも使えないなら、子作りをしてたから」

「……」

 沈黙する澄花であるが、事実なのだから仕方がない。

「明かりが使えるなら勉強か読書をするべきでしょうし」

「沙耶子って案外というか、吸血鬼の割りには真面目よね。もっと享楽的な種族だと思ってたけど」

「吸血鬼のイメージってなんなの」

 またも呆れるが、今度は怒っていない沙耶子である。


 吸血鬼は夜目が利く。

 それも中途半端なものではなく、昼間と同じように見えるというぐらいだ。

「長い年月を生きていく上で必要なのは、永遠に続く享楽の宴ではなく、その時を意味ある物として過ごすための学問なのよ」

 どうやら吸血鬼は意識が高い種族であるらしい。

「もっとも若い間は、確かに毎日人間を殺しまくって、無軌道に生きる子供もいるんだけど」

 本当の沙耶子の年齢が知りたい気もする澄花である。


 しかし、学問か。あるいは読書。

 宿題やテスト前の勉強ぐらいは普通にする澄花であるが、沙耶子の言葉は意外すぎる。

「意外と思ってない?」

「ソンナコトハナイヨ?」

 澄花は誤魔化すが、他人の嘘を簡単に暴ける彼女は、自分が嘘をつくのも苦手である。

「吸血鬼が長生きする上で本当に敵になるのは、退屈なのよ。人間と違って子作りの欲求も高くないし。物語の吸血鬼がけっこう間抜けに負けるのは、生きるのに飽きてきて油断してるからでしょうね」

 沙耶子は夜に縛られない分自由になったが、代償として食料の調達が面倒になった。

 彼女にとって実は最大の娯楽とは、安全に食料を捕食するゲームである。


 とにかく沙耶子が言えるのは、この世にまともな宗教など一つもないということである。

 人間が生きていく上で、現状の改善を考えず死後のことを考えるというのは、支配者階級にとっては現状を維持する上で都合のいいことのはずだった。

 やはてその支配者階級さえもが宗教の毒に染まってしまうというのは、おそらく当初は考えられていなかったのだろう。

「まあ一時期欧米圏で無宗教なんて言うと、変な顔をされてたものだけど」

 仏教徒が多い日本人であるが、自分が無宗教だと勘違いしている者は多い。

 しかしその生活に即した習慣や価値観などを考えると、やはり仏教の要素を多く抱えて生きている。

 神道系の行事なども多いので、ある意味多くの宗教を同時に身に宿しているとも言える。

 日本人が外国で無宗教と言うと、不思議そうな顔で「じゃあ君は共産主義なのか?」と問われることもある。

 だから沙耶子は、一番世界に拡散しているキリスト教徒を名乗るのだ。


 合理主義者で現実主義者で、しかしだからこそ人間の妄想から発生した観念も肯定する。

 沙耶子は人間のように見えてはいるが、やはり人間ではないのだろ思い知る澄花であった。

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