第6話 快楽の誘い
最寄り駅から二つ地下鉄に乗れば、その店がある。
ビルの二階のテナントに入ったマッサージ店は、朝一番を予約してあった。
一人では怖いので沙耶子にも付いて来てもらったが、吸血鬼らしく低血圧であるらしい彼女は、不快感を隠さなかった。
「夜はゆっくりと食事が出来るのに」
「食べたばかりなのに?」
「いくら食いだめが出来ると言っても、出来れば毎日食べたいのよ」
非常食が増えれば、ある程度は減らしていく。
その計算がなかなか難しいらしい。
オフィス街であるが日曜日なので、やや人混みは少ないはずだ。
それでも人の多いのは、日曜日でも働いている人間が多いのか、それとも他に用事があるのか。
(人間が多すぎる)
咎人たちが多すぎる。
影の中に罪を見て、澄花は憂鬱になる。
テナントの中の店は、普通に清潔感がありながら、ある程度日光を遮断して薄暗い。
だが字が読めないほどでもなく、影が見えなくなって澄花は安心する。
もっともこれで、相手が悪人か善人かを、罪から判断することは出来なくなった。
「はい、雨宮さんですね。そちらは?」
「この後、遊びに行くだけですので。本でも読んで待っています」
「そうですか。手が空いてる者がいれば、お試しどうですかとお誘いするんですけどね」
どうやら繁盛しているらしく、沙耶子は大人しく待つことにする。
そもそも人間でない彼女には、通常の意味でのマッサージはあまり意味がない。
着替えた澄花はタオルの敷かれた寝台でうつ伏せになる。
マッサージ師は男性であるが、澄花は特に嫌悪感はない。彼女が怖いの男性ではなく人間全般なので。
「どこか特にこってるとことかありますか?」
「こってるというか……頭痛がよくあって」
「じゃあ首と背中を中心に見ていきますね」
そして手が背筋を揉んでいくのだが、思ったよりもずっと気持ちいい。
単純に力を入れて揉み解すのではなく、適度な力を適度に入れるというか。
指で首筋を揉んでもらうと、痛みもあるのだが脳を直接触られるような、そんな感じもする。
「目が疲れてるね~。普段は読書とかいっぱいしてるのかな?」
読書はそれほどではないが、確かに目が疲れているのは本当だ。
背中と首と言われたが、実際は腰や、足の裏に掌までも揉まれていく。
それが背中から首筋に伝わっていくのを感じる。
仰向けになると首と顔の輪郭自体をぐいぐいと押される。
終わった頃には確かに、頭痛がなくなっていた。
「すごく軽いです! 私、マッサージってちょっと気持ちいい程度のものだと思ってたんですけど、こんなに体が楽になるとは知りませんでした!」
完全に素で話してしまう澄花である。実際にマッサージの効果は素晴らしかった。
「まあマッサージでも揉むだけとか、ツボ押しの痛いのとか、色々ありますからね」
マッサージ師の店員も腕だけでなく、接客も確かだ。
「お客さん、目が本当に疲れてましたね。本とかパソコンの画面とか見るだけじゃなくて……何か見ることを専門にされてます?」
すごい。そこまで分かるのか。
「残念ながら根っこのところからは治せませんでしたけど、二週間ぐらいは楽になりますよ。何回かやったら、月に一度ぐらいでずっと楽になるはずです」
営業トークも微妙なところを突いてくる。
「凄く上手いですよね」
「でもね、社長のお師匠さんは本当に凄かったんですよ。癌が消えたとか、痴呆症が治ったとかの伝説もあるぐらいで」
むしろそれぐらいはあってもおかしくはないな、と自身がオカルトである澄花は思った。
全く情報収集などは出来なかったが、来てよかったと思う澄花である。
場所柄料金がお高いのは仕方がないが、月に一度ぐらいなら利用してもいいだろうという感じだ。
だが場所には全く宗教色がなく、本来の意図には全く役立たなかった。
待合室の沙耶子も、何かそれらしきパンフレットがあるかと思って色々と見ていたのだが、せいぜい無農薬野菜販売のパンフレットが存在するぐらいだ。
あとは自分で出来るお手軽マッサージなどか。ウォーターサーバーの宣伝もあるが、そうそうこれを買う者はいないだろう。
足ツボが内臓の疾患とどうつながるかとかも書いてあったりするが、どうでもいい。
そして澄花が処置室から出てきたのだが、同じくもう一つの部屋から出てきたのが一人。
「あれ?」
「え?」
飯田春菜がそこにいた。
まだ午前中ということもあるが、連れ立った三人が入ったのは喫茶店であった。
注文をした後に、真っ先に質問したのは春菜であった。
「てかさ、二人いつの間に仲良くなったのよ?」
学校では挨拶程度はするが、それほど仲の良いところは見せない二人である。
それがわざわざ、片方に付き合って二人がいるというのは、確かに不自然なのだ。
「私の用事に付き合ってもらったのよ」
沙耶子はあっさりと言うが、そこを突っ込まれたらどうするのか。
「あ、そだ。あたしがあっこに行ってたってこと、念のために秘密にしといてくれる?」
話をずらしてきたのは春菜が先だった。
「別にいいけど、何か理由があるの?」
沙耶子としては、春菜がマッサージを受けていることなどどうでもいい。隠すほどの秘密ではないと思うし、明かしてもおかしくない秘密とも思えたのだ。
だが、意外なことが語られる。
「あたしがあの系列にかかってるとまずいというか、親にばれたくないんだよね」
特に言いふらすつもりもなかった二人であるが、春菜の言葉はきっかけになる。
「あそこ神道系列のマッサージ屋さんで、うちも神社だから、ばれるとあんまり良くないんだ」
それは、そうなのだろうか?
春菜の実家が神社というのは驚きであったが。
元々春菜はその胸部の男を殺すための装甲が重厚であるため、肩がこりやすい体質ではあった。
それを友人の母が、信仰している宗教の系列店ということで、紹介してきたのだ。
信者の紹介だと一回目がタダというのは魅力的だった。
「まあそれにはまっちゃったんだけど」
それはともかく。
「飯田さんって、神社の娘なの?」
澄花にはそれが驚きであった。
「そうだよ。だから家の手伝いで巫女さんとかもしてたり。あ、二人だったら忙しい時期にバイトとかどう?」
なるほど、ギャル巫女であるのか。
「だから処女なのね」
あっさりと何も配慮なく、沙耶子は爆弾を投下した。
「え……分かるかな?」
「男の話はしていても、男の匂いがしないから」
赤面する春菜に対して、沙耶子は遠慮がない。
あっさりと言うが、どれだけの嗅覚なのか。
処女の血を好んで吸うとかいう吸血鬼はフィクションらしいが、とんでもないセクハラ種族であることは間違いない。
「まあ別に喋るようなことじゃないけど、一つお願いしていいかしら」
「え、まあ、あたしに出来ることなら」
沙耶子の頼みは、それほど難しいことではない。
「その宗教って、どういうものなの?」
そこから話を始めたい。
二人が詳しい話を始めたのは、春菜と別れてからである。
神道にはいくつもの儀式はあるが、教義というものは本来存在しない。
概念や価値観はあるが、教義は必要ないのだ。
なぜならその崇拝する対象は、世界中でも多い精霊信仰、あるいは自然崇拝と呼ぶもので、人格のある神というのは後付であるからだ。
日照りを起こす太陽は、正しく祀れば秋の豊饒を約束してくれる。
豪雨続きは水害をもたらすが、水がなければ作物は育たない。
物事には二面性があり、血や死を恐れるが、それを祓うという側面も持っている。
怨霊でさえ正しく祀れば、守護神となるのが神道の本質だ。
そういった説明をするのは沙耶子であり、澄花は聞き手に回っている。
「そういうものなんだ」
「日本人の貴方がどうして知らないの?」
「そう言われてもうちは仏教だったから……」
浄土真宗というところまでは知っている。
「日本人って……」
沙耶子がそんな呆れた顔をするのは初めて見たかもしれない。
宗教戦争はたやすく人殺しが生まれる。
少なくとも彼女の知る限りでは、神の名の下に殺人を犯しても、それは殺人としてカウントされる。
愛善光明会は、沙耶子の分類する限りでは神道だ。
真善美などと言ってはいるが、根本的なところが神道なのである。
教祖である田村を神格化し、神の中の一つとして、その力を借りて治療を行う。
自然農法の農作物販売は、自然崇拝の一つではあるのだが、より自然に近い生き方をしようとしているわけだ。
ただ完全に血や死の穢れを避けているわけでなく、豚や鶏の畜産なども行っている。
むしろ死が、身近にある。
たとえ豚であっても、それなりの大きさの生物が死に、そして解体されていく姿を見ることは、人間にとって生き物の本質を知るきっかけになる。
「動物を殺すのは罪ではないけど、愛玩動物を殺すのは罪になるのは不思議なの」
沙耶子はそう言うが、つまり生きるために殺すのはいいのだろう。
もっとも蚊や蝿、蜂などを殺すのも、罪とは見なされないらしいが。
沙耶子は結局、春菜の伝手からその愛善光明会の勉強会に参加することとなった。
ついでに澄花も巻き込まれた。
宗教的な興味というよりは、指圧治療と無農薬作物と、その生活実態に興味があるというスタンスである。
確かに澄花にとっては、マッサージはとても気持ちが良かった。目がすっきりしたのは本当だ。
だが宗教に対しては、一般的な日本人と同じく、盆やクリスマス、初詣などの習慣は自然と取り入れているが、その宗教活動自体にはうさんくさいものがあると感じてしまう。
むしろ他の人間よりも切実だろう。なにしろどれだけ神を信仰してようと、それで罪が消えるわけではないのだから。
「健全ね」
キリスト教徒を自称する沙耶子はそう言った。
彼女はオカルトは信じているが、神は信じていない。
人間よりはるかにすごい力を持つ者は知っているが、それは神とは全く別のものなのだ。
彼女がキリスト教徒を自称するのは、それがカトリックでもプロテスタントでも、カタリ派でもないからだ。
おそらく世界でただ一人、沙耶子のためのキリスト教。
これは普通、異端と呼ばれるものだ。
隔週で金曜日の夜に行われるという勉強会。
それは教祖の言動や行動から人間のあるべき姿を考え、より自然な生き方で生きていく、というものらしい。
澄花には全く理解出来ないし、沙耶子はおそらく理解しても同意しないだろう。
澄花にとってこの世の真理とは、その目に映る罪の記録だ。
それが罪として認識されている限り、他の価値観にとらわれるわけがない。
そして沙耶子にとってはどんな宗教だろうと、彼女の心を揺るがすことはない。
太陽という最大の障害を超越した彼女にとって必要なのは、純粋に人間の生命エネルギーのみ。
人殺しを探して食らう過程で、彼女は多くの価値観に触れてきた。
人間のあるべき姿など、自然との共生ではない。
人は古来から自然環境を破壊して、これだけの文明を発展させてきたのだ。
沙耶子にとって環境などというのは、人間が管理すべき対象でしかない。
それに神秘性を感じるのは、はっきり言って現実感がないのだ。
全てを分かった上で、二人はそこを訪れる。
世間は学生が夏休みに入る時期となっていた。
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