第3話 罪を食らう少女

 顔を良く知っているご近所さんの男の子が死んだ。いや、殺された。

 彼の死が、殺人の罪として、九条沙耶子の影に刻まれた。


 吸血鬼と彼女は言う。

 太陽の下でも動ける、それ以外は普通の吸血鬼。

 そんな化け物がいるのかとも思うが、超常現象にはもう慣れている。


 リビングの椅子に着席した沙耶子は、まだ床に座ったままの澄花に声をかける。

「それで、貴方は何を見ているの? それとも聞こえるの?」

 吸血鬼は真っ直ぐに澄花と視線を合わせる。

「私の予想だと、目だと思うんだけど」

 そして当ててくる。


 どこか薄い笑みを浮かべていた沙耶子だが、沈黙の澄花に痺れを切らしたのか。

「返事をしなさい。貴方も同じようにされたいの?」

 おそらく本来なら、恐怖を感じるであろう冷えた声。

 だが澄花にとっては逆であった。


 この吸血鬼は澄花を殺さない。

 彼女は今、嘘をついた。

 その小さな罪は、大量の殺人の中にすぐ埋もれていってしまったが、澄花には一瞬だがはっきりと分かった。

 彼女は澄花を殺すつもりはない。


「嘘」

 だから澄花も途端に冷静になった。

「貴方は私を殺すつもりはない」

「へえ……。ひょっとして、虚言を聞き分ける? それとも何か別の力?」

 澄花は答えない。

「確かに殺すつもりはないけど、いくらでも痛めつけることは出来るのよ?」

「それも嘘」

 沙耶子は澄花を痛めつけるつもりもない。しようとしないのか、それとも出来ないのかまでは分からないが。


 断言された沙耶子は、初めて驚いたような顔を見せた。

「やっぱり嘘が分かるの? それとも言葉になっていない心の声が聞こえるとか? だから人を殺したことも分かったの?」

 澄花は用心深く、沙耶子の表情を窺う。

「少しぐらいは話してくれてもいいんじゃない? 私はいわば、貴方がレイプされかけていたのを助けた恩人なのよ?」

「違う。彼はそんなつもりは本当になかった」

「……心の声が聞こえる……わけじゃないわね。だったらもう既に、私の弱点も分かってるはずだし」

 弱点。あるのかこの化物の少女に。

 吸血鬼と自称するからには、ニンニク、太陽、十字架、他に何があるだろう。

「あ、弱点と言ってもニンニクとか十字架は効果ないわよ。ニンニクが嫌いなのは一部の吸血鬼だけだったし、十字架を避けていたのは他の理由だし」

 あちらがこちらの思考を読んだのは、それも特殊な能力なのか、それとも人間観察の結果か。

 だが嘘は言っていない。ニンニクも十字架も彼女の弱点ではない。




 澄花は用心深く、言葉を慎重に選択しようと考える。

 だが沙耶子の方は、それを待つことはなかった。

「まあいいわ。どうせ学校で会えるんだし。証拠は消しておかないといけないけど……」

 沙耶子が気にしたのは、誠が持ってきた紙袋だった。

 中から出てきたのは、自転車用のヘルメット。お裾分けではない。

「この嘘を判別できなかったということは、テレビとか写真では判断出来ない。直接対面している必要がある」

 その推理は正しい。


「これと服と、あとは靴ね。私のほうで処分しておくわ」

 気軽そうに言った沙耶子だが、澄花には確認しておくべきことがある。

「このマンション、エレベーター内と入り口には監視カメラがあるんだけど」

「それがどうしたの?」

「竹見君が行方不明になったら、それも調べられる。もちろん貴方も」

「へえ、こういう事態でも、そういうことに気が回るのね」

 感心したようではあるが、これは澄花にとっては単なる保身だ。

 人の悪意を見ていくうちに、それを避ける術は身につけていた。

 今日のような事は、滅多にあるはずもない。


 少し考えていた沙耶子は、ふっと顔を振った。

 次の瞬間にはその髪は短くなり、顔は誠のものへと変化していた。

「精神ではなく映像の幻覚だから、これでこの男は外に出てから行方不明になったことになる、服も」

 体を揺らすと、誠の身につけていた服へと変わった。

 そこにはまさに、誠としか思えない姿があった。

「丁度服を持っていく紙袋もあるし」

 そこに服を入れてしまえば、誠のいた痕跡はもう残っていない。

 指紋だの髪の毛だのはあるかもしれないが、それは別に今日ここを訪れたものとは限らない。

「それでは明日、学校で」


 沙耶子は去っていった。

 澄花の、少なくともかなり親しくしていた人間を、彼女流で言うなら、血を吸い尽くして。

 吸血鬼。それが嘘だとしても、超常の存在であることには違いない。

 おそらく誠は、このまま行方不明になるのだろう。

 服と靴を処分してしまえば、彼を追跡することは難しい。

 両親も、特に母親は、そこまで必死には探さないような気がする。


 本気で言ったのかはどうかはともかく、誠は彼の母親を脅しつけていた。

 妹に対しては、最近はそうでもないが、確かに虐待の事実はあった。

 それに殺人。

 少なくとも澄花の目は、彼を殺人者だと判定していた。

 だがそれでも、果たして死ぬほどのものだったのだろうか。

 澄花の眠れない夜が始まる。




 ひどい顔色でも、学校に行かないわけにはいかない。

 あの吸血鬼は家をもう知っているのだ。それならせめて、他人の目がある学校の方がマシだ。

 天気は今日も曇り。幸いと言うべきなのだろうが、今日に限っては晴れていたほうが良かったかもしれない。


 教室に入るのは予鈴の間近。隣の席には既に沙耶子が着席している。

 昨日学校で感じたような、人間離れした雰囲気が霧散しているのは、正体が分かったからだろうか。

 それとも血を吸って、顔色に赤みが差したから?


 あれから一晩考え続けて、澄花は一つの結論を出した。

 九条沙耶子は吸血鬼であり、人間を殺すことも平気で行うが、徒に殺人を続けているわけではないということ。

 それに彼女の罪を見た時の違和感も、理由ははっきりした。

「おはよう」

 着席した澄花に声をかけてくる。

「おはよう」

 そう返したが、声が震えていたかもしれない。

「アマミー元気?」

 前の席から春菜がまた声をかけてくれる。

「うん、昨日よりは」

「そ」

 そこまで言ってから、春菜は少し顔を近づける。

「昨日はありがと」

 誠の件かとは思ったが、それは自然と、あのことを思い出させる。

 沈黙したままの澄花であったが、予鈴が鳴って教師が入ってきた。




 時間の経過が遅い。

 それでも待っていれば、その時はやってくる。


 休み時間には、九条沙耶子の周りに生徒が集まる。

 昨日は彼女もほとんど保健室にいていたので、あまり話をすることがなかったのだろう。

 なにしろ近寄りがたい雰囲気の美少女なのは確かなので、むしろ男子よりは女子の方が話しかけてくる。

「くじょーさんはどっから来たの?」

 その筆頭が春菜である。


 沙耶子は心に壁を作るタイプと言うよりは、そもそも種族が違う。

 だが人間の心理洞察にはそこそこ長けているようで、最低限の応答はしていた。

 そして隣の席の澄花も、自然と情報が耳に入ってくる。


 生まれたのは東欧であること。

 外国暮らしが長かったこと。

 両親はあまり一緒におらず、一人で過ごすことが多いこと。

 アレルギー体質で、市販の食べ物はほとんど食べられるものがないこと。

 それに加えて食が細く、貧血気味であること。


 なるほど吸血鬼だ。

 わざわざこういう言い方をするからには、普通の食べ物は栄養にならないどころか、むしろ毒になるのかもしれない。

「じゃあ今日はしっかり食べてきたんだ? 昨日より顔色いいよね」

 呑気に春菜は言っているが、その女は昨日、自分に想いを寄せていた少年を食らったのだ。

 救いがあるのは、無差別に殺すような化物ではないということ。それぐらいだ。


 昼休みには、沙耶子は席を外す。

 自然と澄花も後を追っていた。

 人目を引くはずの容姿の彼女に、誰も視線を向けない。

 これもまた何かの力なのかと思うが、彼女は階段を昇っていく。

 鍵のかけられているはずのドアが開けられる音がした。


 しばしの逡巡。

「早く来て」

 声をかけられて、諦めて澄花も屋上へ出る。

 空を見る。普段は安心させてくれる曇り空が、今日は不安でしかない。




 降水確率50%の空の下で、九条沙耶子は微笑んでいる。

「私も色々と考えたの」

 距離を縮めるつもりなのか、その表情は昼間に相応しく晴れやかなものだ。

 もっとも影の見えない今は、澄花にとっては恐怖の対象でしかない。

「まず改めて、私は吸血鬼。先祖代々続く、東欧を発祥とした種族」

「先祖代々? 吸血鬼は血を吸って増えていくんじゃないの?」

「それは眷属の吸血鬼ね。私は始祖吸血鬼。人間と同じように両親の間から生まれた。そして普通の吸血鬼のように、ずっと人間を食べて生きてきたのが、およそ500年ほど前まで」

 500年。

 つまり、500歳以上というわけか


 色々と信じられないことは多いし、嘘か本当かも今は分からない。

「だけど善良な吸血鬼にとって、普通の人間を殺すのはあまり好きじゃなかった。それに太陽の下で生きられないのは、物語の吸血鬼と同じ」

 けれど彼女は太陽の下で暮らしている。

 曇天ではなく、日光が射した昨日も、平気で生きていたのだ。

「それを哀れに思ったのか、ある日そいつが現れた」

 そいつ?

「太陽の下でも生きていけるようにしよう。人間を食うのが嫌ならば、そこに縛りを作ろうと」

 吸血鬼の基本的な生態を変えるだけのそれは、人間ではない気がする。

 神か、そうでなければ――。

「私は、人を殺したことがある人間の血しか吸えないようになった。太陽の下で生きられるようになった代わりに」

 ああ、と澄花は納得がいった。

 だが同時に疑問も湧いた。


 澄花にとって誠は人殺しだが、それは人殺しと判断されるべきものなのか。

 実際に誠を食ったのだから、あれでも殺人に分離されるのか。

「昔はそれで良かったし、今でも地球のどこかに行けば、いくらでも人殺しは見つかる。それでもいつも都合よく人殺しを確保出来るわけでもない」

 食事の頻度によるだろうが、日本ではすぐに飢え死にしそうである。

「貴方は人殺しとそれ以外を見分けられる。違う?」                           

 だいたい合っている。

「私を怖がっていたのは、私が数え切れないほどの人間を殺してきたからでしょう?」

 それもある。

 だが今はもう、それほど怖くはない。


 九条沙耶子は、雨宮澄花を必要としている。

 おそらくは、いや確実に、獲物を探すために。

 罪を見る少女と、罪を食らう少女。

 一見すると沙耶子の方ばかりが必要としているように思えるが、それは違う。

「人殺しを、殺してくれるの?」

 それが澄花の願い。

 罪を見ることを恐れる、澄花の心からの願い。


 この世から人殺しを、罪を見せる人殺しを、消してほしい。

 いくらでも生まれる人殺しの罪を、澄花の視界から消してほしい。

 人を殺せば殺されるという罪を、人殺しに与えてほしい。

 ずっと澄花はそう思っていた。


 沙耶子は笑う。

「人殺しから、貴方を守ってあげるわ」

 おそらくはこの世で最も危険な殺戮者。

 ただ彼女は、澄花を殺さない。

 歪な、邪悪な、互恵関係。

 それでも澄花は、晴れ晴れと笑った。

 罪が見えるようになってから初めての、心の底からの笑みだった。

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