第438話 謝罪は理由を理解してするもの
精神科の病棟は多くの人が足を運ぶ本棟に比べて、心做しか少し古びた雰囲気があった。
建物自体が建てられた年が古いことも原因だろうが、廊下を照らす明かりもあえて少し光の弱いものが使われている気がする。
「……青いパジャマを着てる人が多いね」
「多分、入院してる人たちだと思うよ」
看護師さんに支えられてようやく歩いている人、椅子に座ったままぐったりとしている人、言葉なのか分からない声を発している人。
すれ違う人の半分以上が青色の同じパジャマを着ているところを見るに、あれがこの病院で貸出しているものなのだろう。
短期間の入院や身寄りのある人なら、部屋着のようなものを定期的に持ってきてもらったりもできるだろうが、そうでない人にそれは難しい。
もっとも、看護師さんが着いていなくてはならないような症状の人であれば、脱ぎ着がしやすいように作られたものの方が向いているのだ。
「ハルちゃん、大丈夫?」
「え、な、何か変ですか?」
「顔色がすごく悪いけど」
「……あはは、照明が暗いので誤魔化せるかと思ったんですけどね」
彼の質問に苦笑いを返した晴香は、空いているイスを見つけて腰を下ろすと、胸の中に溜まった何かを吐き出すようにゆっくりと深呼吸をした。
これから
しかし、彼女が今感じているものはその程度のものではない。椅子の肘掛けに乗せられた手の震えが、それをはっきりと物語っている。
「手、握ろうか?」
「ありがとうございます。でも……」
「言い方を変えるね。握らせて、お願い」
「……ふふ、強引なゆーくんも素敵ですね」
少しでも不安を隠そうとしているのか、冗談めかしてそう言った晴香の手の上に自分の手を重ねると、彼女の体に入っていた力がスっと抜けていく。
それでも落ち着いたのは強張りだけのようで、青ざめた表情に変化はなかった。
「私、前から考えてたんです」
「何を?」
「どうして自分は、生き残ったんだろうって」
「……どういう意味」
「ゆーくんにははっきりと教えてませんでしたけど、目覚めてからずっと胸の中に変なモヤモヤがあるんです」
「モヤモヤ?」
「言葉にするなら、罪悪感みたいなものですかね」
それを聞いてハッとした。確かに彼女は以前、唯斗に対して『何か悪いことをしたような気がする』と言っていたのだ。
記憶こそ無いものの、体が事実を微かに覚えていたのだろう。しかし、言葉にしたのが初めてと言うだけで、その感覚は意識が戻った頃からずっと存在していたらしい。
「理由も分からないのに、誰かに謝らないといけない気がして……でも、何をしたのかも分からないのに謝れないじゃないですか」
「ハルちゃん……」
「相手がゆーくんだって分かって、もっと謝りたい気持ちが強くなって。それをする資格も記憶もない自分がすごく苦しいんです」
掠れた声で「だって、人を傷つけたことも忘れてるなんて最低じゃないですか」と呟いた晴香は、握られていない方の手で自分のスカートを強く掴んだ。
唯斗はただ口を噤んでどんどんと力が込められていく様子を見ていたが、その手の甲に落ちた涙が引き金となったかのように咄嗟に彼女を抱き寄せる。
「ハルちゃんは苦しまなくていいんだよ。辛いなら思い出さなくてもいい。僕はもう全部許してるから」
「……嘘です。謝ってもいないのに、許してもらえるはずありません……」
「嘘じゃない、全部嘘なんかじゃない」
晴香に裏切られたと知り、クラスで孤立した当初の唯斗は彼女のことを本当に恨んでいた。
けれど、不良彼氏に脅されていたことを知ってからは、それを知らなかった自分が情けなく思えてしまって―――――――――――。
『私、記憶が無いんです』
文化祭で再開したあの日、この言葉を聞いた瞬間に全てがひっくり返った。
悪いのは晴香ではない。本当に悪いのは晴香が犠牲になっていると知りながら、もう彼氏じゃないという言い訳をしながら現状を変えようとしなかった自分の方だと。
好きだったからこそ裏切りに大きく傷ついたというのに、好きな人のために行動を起こさなかった自分の臆病さがどうしようもなく憎い。
『許した』なんておこがましいにも程がある。そもそも、恨む理由も資格も自分にこそあるはずがなかった。
「言ったでしょ。僕はハルちゃんが本気で望むなら、全部本当のことを教えるって」
「それは、言ってました」
「正直に言うとね、僕はハルちゃんの記憶が戻るのが怖かった。もしそうなったら、恨まれるのは僕の方だと思ったから」
「ど、どうして私がゆーくんを恨むんですか?」
動揺したように見つめる瞳を震わせる彼女は、唯斗の「約束、破ってるってバレちゃうからさ」という呟きにキョトンとしたことは言うまでもない。
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