第361話 あの日の後悔を晴らせる日

 唯斗ゆいとが初めて晴香はるかの家を訪れたあの日。

 彼女が教室で囁いてきた「お母さん、遅くまで帰ってこないの」という言葉に期待を膨らませつつ、幼かった彼はノコノコと女の子の家に上がった。

 しかし、手こそ繋げど何かが起こるわけでもなく、いつも図書室でしていたように小さな声で会話を続けるだけ。

 外も暗くなってきてそろそろ帰らなければならないという時間が近付いてくると、晴香が何やら肩をトントンと当ててきた。

 その行動から彼女が自分と同じく何も起こらないことを焦っていると察した唯斗は、思い切って晴香に迫ってみたのである。


「ハルちゃん」

「ゆ、ゆーくん……」


 ベッドの縁に腰掛けたまま彼女の両肩に手を置いて、まだ誰にも触れたことの無い唇を近付けていく。

 ドキドキが激しくなって息が荒くなって、みっともないと分かっていても手足が震えた。

 あの時の唯斗はそれだけ晴香のことが好きだったのだ。好きだったからこそ、自分からその先へ踏み込むことは出来なかったのだけど。


「ゆーくん、緊張し過ぎ。私はいつでも準備出来てるんだから」


 そう耳元で囁かれた直後、晴香は彼の腕を引っ張りながらベッドへ仰向けに倒れる。

 それと同時に唯斗の体も覆い被さるように倒れてしまって、真っ赤な顔で言われた「男になって」という言葉に、彼まで赤くなってしまって―――――。


「晴香、ただいまー!」


 突然、下から聞こえてきた時雨しぐれさんの声。恋人同士の甘酸っぱい空気に浸っている間に、いつの間にかそれなりの時間が流れていたらしい。


「晴香? まだ帰ってないの〜?」


 階段を上り、そして廊下を歩く足音が近付いてくる。これにはさすがにイチャついてられるはずもなく、彼氏の存在を隠していた晴香からすれば一大事。

 今の状況を見られれば色々と勘ぐられてしまうだろうと慌てた彼女は、唯斗をクローゼットに押し込むと、痕跡がないことを確認して扉を開いた。


「あら、どうしたの。汗かいてるじゃない」

「ちょ、ちょっと運動してて……」

「ふーん。まあ、男の子連れ込む時は予め教えておくのよ。その日に夜勤入れるから」

「そんな予定は遠分無いから! とにかく、まだ途中だから早く出てって!」

「ふふ、そんなに怒らなくていいのに……ねえ?」


 そう言う時雨さんの意味深な視線は、しっかりとクローゼットの方へと向けられていて。

 結局、あっさり存在がバレてしまったけど、疑いの目を向けてくる母親に対して晴香は、必死に友達だからと説得していた。

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 回想から戻ってきた唯斗は、心の中で『思い切っておけばよかった』と呟きつつ、未だに服を掴んでいる晴香を見下ろした。

 しかし、その表情が先程までとは違っていることに気が付くと、慌てて震えているその体を抱き起こしてあげる。


「ねえ、大丈夫?」

「ゆ、ゆーくんの記憶と一緒に……別の記憶が出てこようとしてます……」

「別の記憶って……?」

「誰かに押し倒されて――――――――」


 そう言い終わるが早いか、頭を押えながらうずくまってしまう彼女。

 激しい頭痛に襲われているらしいが、この症状は記憶が蘇る時と同じもののはず。

 つまり、晴香は思い出しかけているのだ。唯斗との思い出とは別の『嫌な記憶トラウマ』を。


「だ、誰かに……押し倒されて……」

「ハルちゃん、しっかりして!」

「ゆーくん……」


 彼女は助けを求めるかのように手を伸ばすが、唯斗がそれを掴む前にだらんと下ろしてしまう。

 そのまま夢の中へ引き込まれるかのように、ゆっくりと目を閉じていく晴香。

 そんな彼女が最後に呟いた一言に、彼はしばらく目を見開いたまま固まったことは言うまでもない。


「……ごめんね」


 その言葉は今の晴香としてではなく、ほんの僅かな時間だけ現れた昔の彼女が発させた。

 そう思えてしまって仕方がなかったから。

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