第362話 これまでとこれから
足音を立てないように階段を下りると、同じく静かに開かれた扉から
「まだ起きてたんですね」
「そろそろ帰る頃じゃないかと思って起きたのよ」
「わざわざありがとうございます」
「気にしないで。聞きたいこともあったから」
そう言って微笑む時雨さんの顔は、やっぱり晴香の笑顔とよく似ている。
晴香が母親になるような歳になったら、きっともっと時雨さんに似るのだろう。
唯斗はそんなことを考えつつ、「ハルちゃん、寝ちゃいました」と報告をしておいた。
「そう。何か進展はあったかしら」
「進展という訳じゃないんですけど、眠る前に『誰かに押し倒された』って言ってましたね」
「その誰かは唯斗くんじゃないの?」
「僕にはその度胸がありませんでしたから」
「母親としては安心したわ。でも、そうなると唯斗くんが思ってるより回復し始めてるのかもしれないわね」
「そうなんですか?」
首を傾げる彼に時雨さんが言うには、お医者さんから聞いたことで晴香には伝えていない話がひとつあるらしい。
それは彼女がずっと忘れたいと思っていた記憶であり、記憶喪失になったあの事件の際、唯斗の記憶と共に開かずの箱に閉じ込められていたもの。
そこまで言われて、彼は何の話なのかを察してしまった。自分から晴香を奪った不良彼氏と対峙した際に、自慢げに聞かされていたから。
「……分かってるみたいね」
「……はい。知りたくなかったですけど」
お互い口にはしないものの、頭の中に出てきているワードは同じはずだ。
晴香が呟いた『押し倒される』という言葉からもわかる通り、彼女は中学二年生の時に不良彼氏に強引に体の関係を迫られている。
その記憶が唯斗がなし崩し的に晴香に覆い被さることになった時の記憶と同じ箱に入っていたせいで、同時に蘇ることになってしまったのだ。
「やっぱり、思い出させるとなると嫌なことも付いてくるのよね」
「僕たちから操作はできませんから」
「楽しい記憶だけを思い出して、昔と同じように生活出来たらと思っていたけど、それは難しいのかしら」
「思い出させるか思い出させないか、その二択になるでしょうね」
「……そうよね」
時雨さんは短いため息をこぼすと、「きっと傷つくわよね」と表情を暗くする。
しかし、僕が「思い出させないという道は考えないんですか」と聞くと、迷いなく首を縦に振った。
「あの子が思い出すことを望んでいるんだもの。親としてそれを否定することは出来ないわ」
「僕も同じことを思ってました」
「……でも、時々考えるの。記憶が戻ったあの子は、私のことを恨んでるんじゃないかって」
「どうして恨むんですか、いいお母さんなのに」
「だって、私はあの子が事件に巻き込まれるまで、唯斗くんと付き合っていたことも、二股していたことも知らなかったのよ」
晴香が運び込まれた病院は、偶然にも時雨さんが看護師として勤務している病院だったらしい。
警察からの連絡が来るよりも先に血まみれになった娘を見た母親の気持ちは、決して唯斗には測りしてなかった。
「忙しかったとは言え、子供に無関心過ぎたの」
「確かに晴香は一人で家に帰るのが寂しいと言っていたこともありましたけど……」
「私があの子とちゃんと会話をしていれば、事件に巻き込まれる前に引き止められたかもしれないもの」
「それは僕も同じです。むしろ、不良と付き合っていると知っていながら、別れてから他人のように過ごした僕の方が悪いんですよ」
「唯斗くんがそこまで背負う必要は無いわ」
時雨さんの「その代わり、今後の晴香についてはよろしくね」という言葉に、唯斗は深く頷いて見せる。
それからは特に会話もなく、「また来てちょうだい」「ぜひ」と短い言葉を交わした後、小さく会釈をしながら
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