第360話 日常の中に眠る記憶の種
「それで、お医者さんから提案された記憶喪失が改善するかもしれない方法って?」
部屋に入らせてもらった
それから隣をポンポンと叩いてから、「ここに座って下さい」と手招きをした。
彼が言われた通りに腰を下ろすと、彼女は髪に書かれた内容を見せてくれる。
そこに書かれていたのは、いわゆる日常生活の中で起こるかもしれない小さな出来事ばかりだった。
「消しゴムを拾おうとして手が触れる……?」
「私とゆーくんにこういうことがあったなら、それを再現すれば記憶の断片が戻るんじゃないか。そう言われたんです」
「なるほど、薬が効かないならこういうことに頼るしかないもんね」
「ですから、ひとつずつ試してもらいたいんです」
真っ直ぐな目で「ゆーくんだけが頼りなんです!」と見つめてくる彼女を前に、断る理由も必要もどこにもない。
唯斗は安心させるように力強く頷くと、紙を受け取って「じゃあ、順番にやっていこうか」と立ち上がった。
「ちなみになんだけど、これは全部ハルちゃんが考えたの?」
「そうですけど……何かおかしいですか?」
「いや、やけに少女漫画にありそうなシーンばっかりだと思って」
消しゴムを拾おうとして手が触れるのは、唯斗も一度や二度くらい経験がある(相手が男も含む)ので、日常の一部と言っても過言ではない。
ただ、『階段から落ちそうになったところを助けられる』『ストーカーに襲われそうなところを守ってくれる』『電車の中で壁ドンされる』というのは、少しばかり夢見がち過ぎではないだろうか。
「す、すみません……」
「謝る必要は無いけど、少なくとも僕はそんなことしたことないかな」
「そうですよね! その、記憶が無いのを補う情報源が物語だったもので……」
「ああ、そういうこと。それなら指摘しない方が良かったよね」
「いえいえ、むしろ正しいことを知れてよかったです!」
晴香はにっこりと笑って彼の持つ紙にバツを付けようとするが、直前でペンを泊めたかと思うと「ただ……」と呟いて控えめな上目遣いで見上げてきた。
それから指をツンツンと付き合わせ、何やらモジモジと恥ずかしがるような仕草をしながら、冗談を言うような口調で呟く。
「し、してみて欲しかったという気持ちもあったかもしれないなぁ……なんちゃって……」
それは昔の彼女が見せたことの無い表情で、こんなのは晴香じゃないと思いつつも、かつて溺愛していた女の子の恥じらう顔というのは、どう足掻いても心の深い部分に響く何かを持っていた。
「いいよ、してあげても」
「ほ、本当ですか?」
「もしかすると、僕なんかに壁ドンされたショックで記憶が戻るかもしれないし」
「少なくとも私は心の準備をしていましたし、それは無いと思いますけど……」
「そんなに言うならやめとく?」
「お願いしますっ!」
ぺこりと深いお辞儀をして見せてくれる彼女に「その代わり、他の項目が終わってからね」と伝え、初めのシチュエーションの配置に着く。
この部屋にはイスがひとつしかないので、晴香には座ってもらい、唯斗は空気椅子で何とかすることにした。
「あの……ゆーくん?」
「どうしたの」
「もう少し低くできませんか? それだとバーカウンターのイスくらい高いですよ」
「ごめん、足に筋肉が無さすぎてこれが限界かも」
「えっと、位置代わりましょうか?」
「そうして貰えると助かる」
シチュエーションと言うからには、雰囲気から大切にしなければならない。
少しお尻を突き出したような格好で『座ってます』と言われても、相手からすればもはや吹き出すのを堪える罰ゲームなのだ。
ただ、唯斗がイスに腰を下ろした直後、また新たな問題が発生した。イスと同じ高さまで腰を下ろそうとした晴香の体が、後ろにグラッと傾いたのである。
何とか反射神経が間に合ってくれたおかげで支えることは出来たものの、空気椅子も出来ない足で女の子一人を起き上がらせられるはずもなく……。
「っ……」
「……ごめん。すぐに退くから」
覆い被さるように倒れた彼が慌てて起き上がろうとすると、晴香は「待って」と服を掴んで引き止めてくる。
「何か思い出しそうなんです」
「何かって?」
「前にこんなことがあったような気が……」
彼女の言葉を聞いた唯斗には、まるで釣り糸で引っ張りだされたかのようにその時の光景が浮かんできた。
あれは……彼が初めて晴香の家に来た時のことだ。
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