第359話 過去への逃げと覚悟

「お邪魔します」

「どうぞ♪」


 晴香はるかに招かれ、唯斗ゆいとは彼女の家へと上がらせてもらう。

 晴香の部屋は2階に上がった廊下の突き当たりにあるということで、お茶を用意してくるとキッチンへ向かった彼女とは一旦別れた。


「……ん?」


 階段へ向かう途中、ふと開いたドアから見えたリビングの中に、見覚えのある顔が見える。

 彼は少し引き返してからもう一度覗き込むと、こちらに気が付いた女性は小さく会釈をした。


「お久しぶりです、時雨しぐれさん」

「久しぶりね、唯斗くん」


 清水しみず 時雨しぐれさん、晴香の母親だ。

 まだ晴香と付き合っていた頃にも何度か顔を合わせていたが、交際していたことを知ったのは、同時に二股が発覚した時だろう。

 あの時の時雨さんは何も悪くなかったと言うのに、まだ心が子供だった唯斗は彼女にまで冷たく当たってしまった。

 あれから一度も会っていなかったため、いつか機会があれば謝りたいと思っていたのだ。

 ついこの前まで、そんな機会が訪れるなんて、夢にも思っていなかったけれど。


「同じ学校に通わせたからいつかは会うと思っていたけど、まさか今日だとは思っていなかったわ」

「確かに、パジャマですもんね」

「今日は夜勤を終えて帰ってきたの。眠くて仕方ないから、いつでも寝れるように準備してるのよ」

「看護師さんでしたっけ」

「覚えていてくれたのね、おばさん嬉しい」

「今思い出したんです」


 時雨さんは隣の椅子を引いて、ポンポンと叩きながら「少しこっちに来てもらえる?」と聞いてきた。

 晴香はまだ飲み物の準備をしているようなので、「少しだけなら」と答えて隣に腰を下ろす。


「2年ぶりくらいになるのかしら」

「そうなりますね。あの時は八つ当たりみたいなことしてすみませんでした」

「いいのよ。娘が迷惑をかけたんだもの、母親にも責任があるわ」

「いえ、結局僕も悪かったんです。彼氏ならハルちゃんを守らないといけなかったのに」

「……過ぎたことは仕方ないわね。今は少し未来の話をしたい気分なの」


 時雨さんはそう言いながら体をこちらへ向けると、晴香とよく似た目でこちらを見つめてくる。

 それからそっと手を握ってくると、母親らしい優しい声で「晴香を同じ学校にかよわせたこと、迷惑じゃなかったかしら」と呟いた。


「僕も過去をずっと抱えていくのは辛かったので。いいチャンスだと思ってます」

「その割には、すぐに2人の過去のことを話さないのね?」

「それは……」

「分かるわ、知られるのが怖いって気持ち」

「……時雨さんにこんな事言うのは間違ってると思いますけど、僕はまだハルちゃんに思い出させていいのか迷ってます」

「それは優しさで?」

「いいえ、自分を守るためです」


 天音あまねが言っていた通り、記憶が戻った晴香が自分を再び裏切らないとも限らない。

 口では否定出来ても、心のどこかでは信じきれていないことも事実だった。

 それならば、記憶のない彼女を記憶のないまま進ませた方が、自分にとっても都合がいい。

 ダメな方法だとわかっていても、茨の道を進むためにはそこにあるはずの棘を見て見ぬふりしなければならないのだ。


「だけど、ハルちゃんが本気で思い出すことを望むなら、その時は全部話しますよ」

「……いいの?」

「あくまで迷っているだけですから。あんなに頑張ろうとしている姿を見せられて、無慈悲になれるほど鬼じゃありませんし」

「ふふ、やっぱり唯斗くんは優しいわね」


 時雨さんが嬉しそうに笑いながら「あなたに娘を任せて正解だったわ」と呟くと同時に、廊下から晴香の自分を呼ぶ声が聞こえてくる。


「ほら、行ってあげて」

「はい。また、時間があればゆっくり話しましょう」

「そうね。じゃあ、私は寝ることにするわ」


 そう言って大きなあくびをした彼女に背中を向け、唯斗は小走りで階段を上りかけている晴香を追いかける。

 そんな後ろ姿を最後まで眺めていた時雨さんがこぼした「あの子を支えてあげて……」という独り言は、彼の耳には届かなかった。

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