第336話 卑劣な取引材料

 夕奈ゆうながすやすやと寝息を立て始めた頃、唯斗ゆいとはそっと布団から脱出すると、音を立てないように気を付けながら1階へと降りた。


天音あまね、お待たせ」

「お兄ちゃん……師匠、大丈夫?」

「さっきまでは辛そうだったけど今は寝てる」

「そっか、それなら平気そうだね」

「天音がこんなに心配してくれるんだから、夕奈は幸せものだよ」

「……お兄ちゃんのことだって、天音はたくさん心配するもん」

「妹に心配されるなんて、お兄ちゃん失格だね」

「むぅ……」

「冗談だよ。僕は夕奈の3倍は幸せものかな」

「えへへ、天音が妹なんだもん。幸せじゃない方がおかしいよ♪」

「うん、間違いないね」


 唯斗がソファーに腰を下ろすなり、すぐに抱きついてきた天音の頭を優しく撫でてあげる。

 甘えモードはまだもうしばらく継続しそうだ。兄としてこれ以上の幸福があるだろうか、いや無い。


「兄妹でイチャイチャしてるところ悪いけど、お姉さんも会話に混ぜてくれないかな?」

「ああ、陽葵ひまりさん。居たんですね」

「ずっと居たよ?! 私ってそんなに影薄い?」

「冗談じゃないですか。そもそも、今日ここに来たのも、元々は陽葵さんが目的でしたし」

「私が? お姉さんの体目当てってことか!」

「……天音、帰ろうか」

「……お兄ちゃん、私もそう言おうと思ってた」


 二人で頷き合って立ち上がったところで、素早く移動したお姉さんに出口を塞がれてしまう。

 「ここを通りたくば私を倒してから行け!」なんて言っているので、とりあえず天音ミサイルを発射してくすぐり地獄にあってもらった。


「た、たずげ……ひっ?! 息が……死んじゃう……」

「天音、それくらいでいいよ」


 彼女がある程度苦しんだところで、「この辺で勘弁してやるぜ」とキメ顔をしている妹を呼び戻してお疲れ様のなでなでをする。

 陽葵さんは何とか呼吸を整えて立ち上がるが、その足元はおぼつかない様子で、軽くデコピンをしただけでもひっくり返ってしまいそうだ。


「はぁはぁ……私にここまで本気を出させるとは、お主らはなかなか強者であると見た」

「どこで本気を出したのか、謎でしかないですね」

「仕方ない。最終兵器を出すしかないらしい」

「今度はなんですか」

「ふふ、夕奈ちゃんが起きるまではここにいてもらわないと困るのだよ!」


 彼女はそう言って冷蔵庫の方へと駆け寄って行くと、中から何かを取り出して戻ってくる。

 それを机に置きながら「卑劣な手ではあるが……我が妹のために私は身を削る!」なんて口にするので、仕方なくそれが何なのか確認してあげた。


「これは、クレープかな」

「クレープだね」


 天音の目から見てもこれがクレープだと言うなら間違いない。下半分がロゴ入りの厚紙で包まれているところを見るに、手作りではなくどこかで買ったのだろう。

 こんなものを用意されてしまったら、唯斗も天音も誘惑に抗うことなんて出来なかった。何せ、かなり美味しそうだったから。


「って、どこが卑劣な手なんですか」

「実はこれ、夕奈ちゃんが昨日買ってきたやつなんだよね。2人で食べようって」

「それを僕たちに出したと。確かに卑劣というか、夕奈が知ったら悲しむでしょうけど」

「お姉さんは自分が怒られるかもしれないと思いながらも、君を引き止めるために仕方なく差し出しているのだよ!」

「……いや、結構です」


 さすがに熱で辛い思いをしている人のおやつを取り上げるような真似はできない。

 唯斗はそう自分の良心に語りかけると、ヨダレを垂らしかけている天音を「後で買ってあげるから」と説得した。


「そもそも、帰るってのは嘘ですから。お姉さんが調子に乗ってるので、頭を冷やしてもらいたかっただけです」

「それはつまり?」

「夕奈とも約束しましたし、夕方くらいまではいますよ。起きる頃には傍にいてあげないとですし」

「……夕奈ちゃんはいい旦那さんを持ったねぇ」

「誰が旦那ですか。ただの友人です」

「師匠の妹になっちゃったね♪」

「天音までそんなこと言わないでよ……」


 その後、夕奈と結婚しろ結婚しろと言われ続けたせいで唯斗は目を回してしまい、自己防衛のための睡眠に落ちてしまったそうな。

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