第315話 ツンとデレのスイッチがある人は、言葉を使えば簡単に丸め込める

 下村しもむら先生がお風呂に入ってから少しして、ベッドの上でウトウトしていた唯斗ゆいとは体を揺すられてまぶたを上げた。

 暗い世界から明るい世界へ引きずり出されたことで少しぼやけたが、目の前にいる人物が誰なのかはすぐにわかった。


彩芽あやめさん、どうしたの」

「……」

「ムスッとされても分からないよ」

「約束したじゃない。忘れちゃったの?」

「約束?」


 何のことだろうかと首を傾げた彼は、彼女の頭から垂れ下がっている髪が湿っているのを見て、ようやくいつ交わしたものなのかを思い出す。

 先生を見張っているという条件で、髪を乾かしてあげると約束したのだ。脱衣所に侵入されたから、任務は失敗に終わったみたいだけども。


「ごめん、眠くて忘れてたよ」

「自由時間、そんなに楽しかったの?」

「まあ、そんなところかな」

「……いいわね。お姉ちゃんが仕事しながらだから、私はあんまり濃い時間じゃなかったわ」

「そう言えば、自分の学校の修学旅行は行けなかったんだっけ。代わりとしては味気ないよね」

「隠れながらだもの。仕方ないのは分かってるけど、私があと2年早く生まれて唯斗さんと同じ学校だったらよかったのに」

「でも、2年遅れて生まれたからこうして話せたわけだし。僕の性格的に、同い年だったら絶対に会話してないよ」

「ふふ、それもそうかもしれないわね」


 クスクスと笑った彩芽は唯斗の腕を引っ張ってベッドから引きずり下ろすと、そのまま鏡台の前まで連れて行ってドライヤーを握らせた。


「ずっと待ってたんだから。心を込めて乾かしてね」

「分かってるよ。言われなくても心は込める」

「そう、感心しちゃう」

「先生から聞いたけど、彩芽さんって僕に懐いてるんだね。そんなこと知ったら、丁寧に扱わない訳には行かないよ」

「なっ?! べ、別に懐いてなんかないわよ! 髪を乾かす才能を買ってるってだけで……」

「そうだとしても、男に髪を触らせるのは珍しいことなんでしょ? 嬉しいね、特別感があって」


 唯斗が少しおどけながらそう言って見せると、彩芽は顔を真っ赤にしながらキッと彼を睨む。

 それから軽く体を押してくると、「う、うるさいわね!」と声を震わせた。


「唯斗さんのことなんてなんとも思ってないし、むしろお姉ちゃんを奪うから嫌いよ!」

「そうだよね、出会って2日だから当たり前。嫌いな相手に髪なんて触られたくないだろうし、そこまで言うなら僕はやめておくね」

「えっ……」

「先生にやってもらって。僕は傷ついた心を癒すために、これから朝まで睡眠治療に入るから」

「あ、いや、その……」


 わざと大きなあくびをしながらベッドに入ろうとすると、口をパクパクとさせていた彩芽が慌てて服の裾を掴んでくる。

 少し意地悪をし過ぎたのかもしれない。性格的に簡単には素直になれない彼女の背中を押すつもりだったけれど、まさか目を潤ませるとは思わなかった。


「して……ください……」

「そんな顔されたら断れないね」

「……いいの?」

「自慢じゃないけど、僕は涙にめっぽう弱いんだ。泣いて頼まれれば何でも言う事聞くよ」

「じゃあ、昨日よりたくさん乾かしてくれる……?」

「仰せのままに。とりあえず、その涙から乾かそうか。先生に見られたら僕が殺されちゃう」

「お姉ちゃんはそんな残酷じゃないわよ」

「あの人は彩芽さんのこと、すごく大事に思ってるから。傷付けたら10倍返しにするね、きっと」

「そうかしら。そんな実感無いわよ?」

「あれは客観的に見ないと分からないかもしれない」


 先生は車でみんなを送った時も、夕奈らが彩芽に興味を持ってくれていることを知って嬉しそうにしていた。

 それに彼女のことを大切だと思っていなければ、ここまでコソコソとした面倒臭い作戦を実現させようだなんて考えないだろう。

 バレれば自分の立場だって危ういというのに、あの人はそれを天秤にかけられるほど父違いの妹が大好きなのだ。


「僕にも妹がいるけど、何年経っても可愛いものだよ。幸せになって欲しいっていつも思ってる」

「……そう、なのね」

「もし今回楽しめなかったなら、いつかもう一度来ればいいよ。僕の乾かし技術が必要なら、同伴を断ったりしないからさ」

「ふふ、やっぱり唯斗さんって優しいわね」

「全国の妹に幸せになって欲しいだけだよ」

「なら、あの夕奈ゆうなって人もよね。車の中で聞いたわ、姉がいるって」

「あれだけは例外だよ」


 唯斗の言葉に思わず笑を零した彩芽は「仲がいいようで何よりだわ」と呟くが、彼女の髪を乾かし終えても尚、彼はどこをどう見て仲が良いと感じたのかを理解できなかったんだとか。

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