第308話 合わないと思った相手とも、会話を重ねれば案外譲り合えたりする

 眠ってしまってから1時間ほどが経って、ようやく目を覚ました唯斗ゆいとは鼻先にあった顔を見てため息をついた。


「先生、それやめてください」

「悪気はないんですよ。そろそろ時間なので、起こそうと思って近付いたら足が滑ってしまって」

「……それなら仕方ないですけど」

「そのまま15分ほど横になっていただけです♪」

「有罪ですね」


 起きるのに邪魔なので、とりあえず先生にベッドかは降りてもらおうと肩を押す。

 しかし、彼女は思ったよりも寝ぼけていたようで、ぼーっとしたまま後ろに傾いていくのを見た彼は咄嗟に腕を掴んで引っ張った。


「…………」

「…………痛いです」


 その直後のことである、唯斗が軽く投げ飛ばされて床に転がったのは。


「何するんですか、先生」

「すみません、頭が働いていなくて。強く掴まれたので咄嗟に体が動いてしまいました……」

「空手の経験があるって言ってましたっけ」

「はい。背中、大丈夫ですか?」

「去年の体育の授業で投げられまくったので、僕受け身だけは上手なんですよ」

「先生は攻めの方が得意ですけどね♪」


 そう言いながら舌なめずりをする先生に、唯斗は『空手の話ですよね?』と聞こうかと思ったが、答えによっては後悔しそうなのでやめておいた。


「あれ、彩芽あやめさんは出かけたんですか?」

「彩芽はあそこで寝ていますよ」

「……あ、ほんとだ」


 パッと見ではわからなかったが、よく見てみれば布団に包まれて幸せそうに眠っている彩芽が見える。

 イモムシのようにも見えるが、チョココロネの擬人化と言われればそうかもしれない。そんなことを考えた彼は、まだ寝ぼけているのだと洗面所へ向かった。


「先生、次の予定って何時からですか?」

「6時半ですね」

「何分後か分かります?」

「1分前ですよ」

「……ん?」

「あ、今2分前になりました」


 あまりにあっさりと言われたので、理解が追いつかなかった唯斗は冷水を顔に当て、それを拭ってからもう一度同じことを聞いてみる。

 しかし、返ってきた答えは同じ。要するに、自分たちは6時半からの集会に既に遅刻しているのだ。


「どうして早く言わないんですか」

「生徒と遅刻して行ったら、何か変なことをしてたんじゃないかなんて勘違いしてもらえるかなと♪」

「誰も勘違いしませんよ。というか、普通に怒られますからね。先生が説明してくださいよ」

「寝てたのは小田原おだわら君ですけどね」

「……まあ、それは僕が悪かったですよ」


 高校生なら時間の管理くらい自分で出来るはず。ならば、ここで先生に文句を言うのはお門違いというものだ。

 彼は心の中で深いため息をつくと、実際にもため息をつきながら急いで玄関へと向かった。


「待ってください、私も行きますから」

「早く準備してくださいよ」

「大丈夫です、メイク直しするだけなので」

「何分くらいかかるんです?」

「約30分ですかね」

「……先行きます」

「ちょ、私を一人で行かせるつもりですか?!」


 さっさと靴を履いてドアノブを握る唯斗を、慌てて駆け寄ってきた先生が引き止める。

 彼女は「一人であの空間に入った時の視線が苦手なんです!」なんて言うが、それを言えば生徒である自分の方がもっと多くの視線を向けられるはずだ。


「先生なんですし、最悪行かなくても大丈夫ですよ」

「集会の後は晩御飯ですよ? ご飯だけ食べに来たって思われたくないですし……」

「ワガママすぎません? どこが大人の女性ですか」

「とにかく小田原君と一緒がいいんです! これは担任命令ですから、逆らったら切腹ですよ?」

「どこの暴君ですか。今すぐ辞任してください」


 先生がどう言おうと、遅れるのはともかくそもそも集会に顔を見せないのマズい。

 先生のメイクを待ってしまえば確実に行けないことを考えると、残された道はひとつしか無かった。


「先生」

「待ってくれる気になりました?」


 この手だけは色んな意味で使いたくなかったが、やはり人間困った時に頼りにすべきことわざがある。

 そう、『嘘も方便』と言うやつだ。


「先生、そのままでも綺麗じゃないですか(棒)」

「……急にどうしたんですか?」

「むしろすっぴんの方が色気ありますよ。みんなも先生のすっぴん、見てみたいだろうなー(棒)」

「あらあら、褒めても何も出ませんよ?」

「自分に自信を持ってください。先生は美人で優秀で聡明な最高の先生ですから(棒)」


 そこまで言い終えると、彼女は手を握りしめてプルプルと震え始める。さすがに演技が下手すぎてバレたかと思ったが、どうやら違うらしい。

 さすがに心配して顔を覗き込んでみたら、先生の頬が赤くなっていたのだ。


「……先生?」

「ほ、褒めても許すのはキスまでですからね?」

「いや、別に求めてないですけど」

「美人で優秀で嫁にしたい先生ランキングナンバーワンだって言ったじゃないですか」

「最後のだけ明らかに捏造ですよね」

「小田原君は一体私と何がしたいんですか!」

「集会に行きたいんですよ」

「……それだけ?」

「当たり前です」


 唯斗が頷いたのを見た先生は、突然我に返ったようにしゅんとしてとぼとぼと戻っていく。

 普段は自信満々で大人な雰囲気を漂わせる先生が、実は褒められるとあんな顔を見せるとは夢にも思わなかった。


「先に行ってください、私は後から行きます」


 部屋の奥から聞こえてきたその声を聞いてもなお、彼は鬼になろうと思えるような人間ではない。

 だから、仕方なく部屋に戻って、メイク直しが終わるのを待つべくベッドに腰かけたのだ。


「遅れたの、先生のせいにしますからね」

「小田原君……」

「集会って苦手なんです、すぐ眠くなるので。ちょうどサボる理由が見つかって助かりました」

「ふふふ、後でいい子いい子してあげますね」

「それは遠慮しときます」

「そう、ですか……」

「……分かりましたよ、されてあげますから」


 この時、唯斗が面倒な担任と同じ部屋になってしまったと後悔したことは言うまでもない。

 ただ、睡眠時間が30分増えたという点に関しては、悪くは無いと思えたことも事実である。

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