第279話 お土産は形に残らないものの方が無難

 唯斗ゆいとの質問にしばらく悩んだ晴香はるかは、彼がその間で少し寝落ちそうになった頃にようやく言葉を発した。


『残るものがいいです』

「そうなの? 迷惑になるかと思ったんだけど」

『形にだけでも残しておかないと、また記憶が無くなった時には何も残ってくれませんから』

「……そっか。わかった、そうするよ」

『すみません、ボヤきみたいになってしまって』

「ううん、晴香の気持ちならいくらでも聞くよ」

『ふふ、ありがとうございます』


 彼女は嬉しそうに笑った後、『ゆーくんからの用事はそれだけですか?』と聞いてくる。

 唯斗が「今のところは」と答えると、晴香は『時間が許すなら、もう少しお話しませんか』と伺うような口調で言った。


「時間ならまだしばらくは平気だと思う」

『よかった……。記憶のことで相談したいことがあるんです』

「記憶って、何か思い出したの?」

『いえ、その逆なんです』

「……どういうこと?」


 そう聞き返すと、彼女は一呼吸置いてから最近感じている不安感について話してくれる。

 ここ数週間、記憶が抜け落ちている瞬間が時々あるらしい。ただ、気を失っているわけではなく、しっかりと行動をした形跡があるのだ。


『例えば、家から駅までの道を歩いた覚えがないのに移動していたり、いつの間にか料理を始めていたりするんです』

「夢遊病みたいなものなのかな」

『おそらくは。ただ、夢遊病でみじん切りは出来ないと思うんです』

「確かに。ぼーっとしてるだけでも怪我しちゃうよ」


 唯斗は寝る時は寝ることだけに集中するタイプなので、夢遊病なんて経験は一度もない。

 だから、経験したことがある人の感覚は想像も出来ないが、意識が戻ると同時に自分が包丁を握っていたとしたら、それは恐ろしく動揺するだろう。

 もし目の前に置いてあるのが野菜ではなく肉だったとしたら、人を殺めたのかと勘違いするかもしれない。いや、それはないけど。


『だから、私考えたんです』

「なにを?」

『もしかしたら、私の中に別の誰かが居て、時々入れ替わってるんじゃないかって』

「二重人格ってこと? さすがにそれは……」


 そこまで言いかけて、彼は頭の片隅から何かがせり上がって来るのを感じた。

 その引っかかりのようなものに戸惑っている内に、自動的に記憶が再生されていく。そう、晴香が保健室で一瞬だけ記憶を取り戻した時の記憶が。


「…………」

『ゆーくん、聞こえてます?』

「あ、ごめん。寝てたかも」

『お疲れですか?』

「もう大丈夫、目が覚めたから」

『眠たいなら遠慮なく言ってくださいね?』


 彼女は心配そうにそう言った後、『絶対に誰かがいると思うんですよね』と独り言のように呟いた。


『ゆーくんは別の私と会ってませんか?』

「……いや、会ってないね」

『そうですか。悪さをするわけでもなさそうなので、焦る必要は無いと思うんですけど』

「怖くないの?」

『怖いですよ。記憶が飛ぶ度に、いつか自分が乗っ取られるんじゃないかって怖くなります』

「そう、だよね……」


 いくら答えがわかっていても言えるはずがなかった。それは本来の晴香かもしれないなんて。

 もちろん、記憶がすんなりと戻ってくるのなら、家族にとっても本人にとっても喜ばしいことだろう。

 しかし、今の晴香は違う。彼女には既に人格があるし思い出もある。元に戻るということは、そこにバックアップを重ねてなかったことにしてしまうようなものなのだから。


『別の私を見た時は、報告してもらえると助かります!』

「うん、そうするよ」

『お願いしますね!』


 晴香がそう言うと同時に、背後でガチャリとドアの開く音が聞こえた。どうやら先生たちが帰ってきたらしい。


「それじゃあ、同じ部屋の人が戻ってきたみたいだから切るね」

『はい、話を聞いてもらえて良かったです』

「またいつでも相談して」


 唯斗が「おやすみ」と言うと、彼女も『おやすみなさい』と返してくれる。

 どちらから切るか迷う時間を挟みながらも、「またね」と言って自分から切ることにした。


小田原おだわら君、ただいま」

「おかえりなさい」

「彼女と電話ですか?」

「僕に彼女がいるように見えますか」

「見えないですね」

「そうでしょう、そういうことです」


 この後、彩芽あやめさんに「これが諦めた非モテの末路なの?」と憐れむような目を向けられたことは言うまでもない。

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