第272話 初めてのことには誰だって戸惑う

 腹の虫が満足した一行はジンベエザメに別れを告げ、天井がアクリルになった通路から魚たちの腹を眺めながら次のエリアへと向かった。

 進んだ先にあったのは、食事前にも見た気がする個水槽。しかし、中にいる魚の種類は全く違う。


「さっきは浅瀬にいる魚ばっかりだったが、ここは深海にいるやつばかりらしい」

「見たことない子ばっかりだね〜♪」

「わかる」

「えへへ、あまり美味しそうじゃないですね」

花音かのん、まだ食べ足りなかったか?」

「ち、違いますよぉ……」


 楽しそうに話しながら水槽に近付いていく瑞希みずきたち。夕奈ゆうなもすぐに追いかけようとするが、ふと視界の端に映ったものを見てピタッと止まった。


「な、なんじゃこりゃ……」

「夕奈、どうしたの」

唯斗ゆいと君、見てよ。でっかいイカがいる」

「ああ、そう言えば展示してあるって書いてたね」


 彼女が驚いて見ているのは、ダイオウイカの標本。もちろん生きてはいないが、水の中に展示してあるせいで今にも動き出しそうな雰囲気を持っている。


「この長い足に絡められたら抜け出せないね」

「薄い本だったら大変なことになっちゃう」

「大変なこと?」

「ほら、分かるじゃん? 触手と女の子の組み合わせは危険なことくらい」

「ちょっと何言ってるか分からない」

「だから……も、もういいし!」


 夕奈は少し頬を赤くして、不満そうにブツブツと呟きながらみんなのところへ行ってしまう。

 もちろん彼女が言わんとしていることは唯斗にも分かったが、羞恥心で精神的ダメージを与えるチャンスを逃す手はなかったのだ。


「……」

「おいで」

「……いやだ」


 こちらを見ていたこまるに手招きをしてみるが、ブンブンと首を横に振って断られてしまう。

 まさかあんなにも拒まれると思っていなかった唯斗が少し落ち込んでいると、彼女がトコトコと駆け寄ってきて手を掴んできた。


「向こう、行く」

「イカは嫌い?」

「……怖い」

「あ、そういうことだったんだ。ごめんね」

「大丈夫」


 どうやらこまるはこの大きなイカが苦手らしい。確かに近くで見るとグロテスクというか、気持ち悪さを感じない訳では無い。

 このエリアの雰囲気が深海ということもあって、もしも自分が海の中でこのイカに出会ったらと思うと、身震いもしたくなるほど。


「もっと可愛い魚を見よっか」

「そうする」

「何から見たい?」

「何でも」

「何でもって言われたら困るね。僕は深海魚に詳しくないから」

「ちがう」

「ん?」


 唯斗がどの魚が良さそうかとキョロキョロしていると、彼女は服の裾を引っ張りながらじっとこちらを見上げた。そして。


「唯斗となら、何でも」


 どことなく熱のこもった眼差しでそう呟く。唯斗はそんなこまるの姿に、一瞬頭の中にあったものが全て吹き飛んでしまった。


「……」

「……?」

「……ううん、そう言って貰えると助かる」

「そっか」

「すごく考えやすくなったよ、ありがとう」


 自分でも少し不思議な感覚だった。しばらく彼女の顔から目を背けられなくなって、ようやく背けられても上手く頭が回らないというのは。


「気分、悪い?」

「いや大丈夫、少し寝てたかも」

「膝枕、使う?」

「そこまでしてくれなくていいよ」

「そっか」

「でも、気遣ってくれて嬉しかった」

「……普通、だから」


 少し照れてしまったのか、こまるは無表情ながらも視線を逸らす。

 それからすり足で体を寄せてくると、ギュッと腕に抱きつきながらもう一度見上げてきた。


「早く、行こ?」

「そうだね。時間が無くなっちゃう」

「あそこ、みんないる」

「合流しよっか」


 彼女が頷くのを確認してから、歩幅を揃えて歩き出す。一応平然を装ってはいるが、唯斗からはまだふわふわした感覚が抜けきっていない。

 彼はその原因に勘づいていたのだ。先程の真っ直ぐな言葉で、いつもとは少し違った意味でこまるを可愛いと思ってしまったことであると。


「唯斗、大丈夫?」

「ああ、ごめん。また寝てた」


 小動物だとか妹だとか、そういう守りたくなる対象に向けた『カワイイ』ではない。

 異性であると認識した上で、彼女の何気ない一言に心を揺らされてしまった結果の『可愛い』だ。


「やっぱり先に行っててくれる?」

「わかった」

「すぐに追いつくって伝えといて」

「うん」


 今はこのぼーっとする感覚を抜き切らなければいけない。こまるに不安そうな顔はさせられないから。

 唯斗はみんなの元へトコトコと走っていく彼女の背中を見送ると、ダイオウイカの水槽に歩み寄りながら、深いため息をこぼすのであった。


「君はいいね、ずっと寝転んでるんだから」

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