第224話 風呂場の鍵はしっかり閉めよう

「ふぅ」


 38度のお湯に肩まで浸かった唯斗ゆいとは、今日一日の疲れが染み出ていくのを感じながら心地よいため息をついた。


『唯斗君、着替えここに置いとくね』

「ありがとう」


 曇りガラスの向こうから、夕奈ゆうなの声とカゴを移動させる音が聞こえてくる。

 元々泊まるつもりのなかった唯斗は、パジャマを持ってきていなかった。そのため、仕方なく彼女のものを借りることにしたのだ。


「ちゃんと男女兼用のやつにしてくれた?」

『もちのろんよ。ボタンで留めるやつにしといた』

「それならよかった」


 色が女の子っぽくなるのは仕方ないとしても、なるべく着てて違和感のないものでないとぐっすり眠れないからね。

 こまると晴香はるかは既に入浴済みで、今頃ベッドで寝ている頃だろう。唯斗も後に入る夕奈のために早めに上がろうと思っているのだが……。


「ねえ、いつまでそこにいるの?」

「……」


 パジャマを持ってきてくれたのはありがたいけれど、留まられると浴室から出られない。

 唯斗は「部屋で待ってて」と促してみるが、それでも彼女は立ち去ろうとしなかった。

 それどころか、曇りガラス越しに見えるシルエットがモゾモゾと動くと、身に纏っていたものを床に落としてしまう。


「え?」


 夕奈は何を言うでもなく、タオル一枚だけを体に巻いた状態でドアを開けた。

 そして軽くシャワーで体を流してから、二人で入るのがギリギリの浴槽の中へと入ってくる。


「どうして何も言わないの?」

「……」

「喉痛めた?」

「……違うよ」


 チラチラとだけ目を合わせてくる彼女の顔はほんのりと赤いが、それが熱気のせいなのか別の理由なのかはわからなかった。

 ただ、夕奈が何かを伝えたくて入ってきたことだけは何となくわかるため、唯斗は強引に追い出すという手段が選べないのである。


「唯斗君、あっち向いて 」

「どうして?」

「いいから」


 理由が気になるところではあるが、真剣な表情を前にすると自然と体が言うことを聞いた。

 彼は言われるがままに夕奈に背中を向けると、「これでいい?」と声をかける。

 その瞬間、背中に温かくて柔らかい感触を覚えた。お湯でもタオルでもない、人肌だ。


「えっと……夕奈?」

「振り向かないで。もう少しこのままがいいの」


 唯斗も男の子だ。お風呂で裸のまま後ろから抱きつかれるというシチュエーションには、正直動揺してしまった。

 普段なら絶対に拒むところだが、何故かそれが出来なかったのである。いや、してはいけないような気がしたと言った方がいいのかもしれない。


「唯斗君、緊張してる?」

「少しだけね」

「そっか、嬉しいな……」


 弱々しく耳元で囁かれると、本当に背後にいるのが夕奈なのかと疑いたくなってしまう。

 今の彼女にはいつもの騒がしさはなく、むしろ浴槽の湯が揺れて波立つ音の方が大きいほど。


「ねえ、どうしたの?」

「……唯斗君」

「なに」

「これから話すことは、全部疑わずに聞いて」

「何かの心理テスト?」

「いいから、真面目に聞いてね」


 どうやら、ふざけるつもりも遊び心も浴室の外に置いてきたらしい。

 そう感じた唯斗は小さく頷くと、「ちゃんと聞くよ」と答えて夕奈の声に耳を傾けた。


「唯斗君はさ、私がこんなことをしても女の子として見てくれないの?」

「少しは意識するよ、男だもん」

「なら、もっと意識して」


 彼女は甘えるような声でそう言いながら、指先で唯斗の太ももを優しく撫でる。

 くすぐったさの代わりに身の危険を感じた彼が慌てて体を反転させると、夕奈はそれを予想していたかのように素早く身を寄せて来た。


「ゆ、夕奈?」

「……意識して」

「わかったから、ここまでされたら意識してるよ」

「もっと意識して」

「だから、もう十分――――――――――」


 さすがにしつこすぎると注意しようとした瞬間、唯斗は言葉を封じられてしまう。彼女の唇によって。


「意識してよ」


 唇を離した夕奈は数cmしか離れていない距離でもう一度同じ言葉を繰り返すと。


「唯斗君のことを好きな女の子だって、ね?」


 そう続けてから再び唇を重ねた。

 唯斗は必死に抵抗しようとするも、ガッツリ腕を回されてしまって押し返せず、おまけに背後が浴槽の壁なせいで仰け反ることも出来ない。

 彼はそのまま十数秒間キスされ続けた後、顔を離した夕奈のニヤリとした口元に嫌な予感を覚えたのであった。

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