第203話 優しさは時に自分の首を絞める

 ここから一番近い安全エリアは男子トイレだろう。彼は脳内でそこまでの最短距離を求めると、廊下を歩く生徒の間をうまくくぐり抜けていった。


「待てぇぇぇぇぇ!」

「っ……早い……」


 しかし、あの夕奈がそう簡単に引き離せるわけが無い。叫ぶことで通行人側から勝手に道を開けてくれたため、彼女は一直線に唯斗目掛けて走ってくる。


「唯斗君、廊下は走っちゃいけません!」

「今言われても説得力ゼロだから」

「反省しないなら仕方ない、本気で捕まえちゃうかんね!」


 夕奈は走りながら深く息を吸うと、ただでさえ速かった足の回転をさらに加速させた。

 一方、唯斗の方は今すぐにでも足を止めたいレベルで疲れている。まともにやって逃げきれないことは明白。

 こうなれば、最終手段を使うしかなかった。夕奈退治に使えるとわかってから、必ず持ち運ぶようになった輪ゴムだ。


「くらえっ」


 思い切って足を止め、向かってくる的に狙いを定める。そしていけると直感が告げたと同時に、彼は輪ゴムを全力で放った。


「ぐふっ?!」


 攻撃は見事に夕奈の脳天に命中し、彼女は痛みのあまり足を止めてしゃがみこんでしまう。

 唯斗は逃げるなら今のうちだと背中を向けるが、ふと視界の端に映った夕奈の表情にもう一度振り返った。

 彼女は額を押えて泣いていたのである。相手は夕奈と言えど女の子、周囲の人の視線がグサリと刺さる。

 ただ、それよりも内面から湧き上がってくる罪悪感の方が効果抜群で、気が付けば彼は自ら歩み寄っていた。


「ごめん、そんなに痛がると思わなかった」

「ぐすっ、なんで逃げるの……」

「それは面倒ごとに巻き込まれそうだったから」

「唯斗君にとって、私たちと過ごす時間は面倒ってこと?」

「そういうわけじゃ……いや、そうじゃないことも無いんだけど。何と言うか……」


 自分で言っていながら、どうしてあの時逃げ出したのかが分からなくなってくる。

 夕奈から距離を置くというのが癖になっているのか、それとも別の何かが体を動かしたのか。

 何にせよ、今のところは泣かせてまで拒む理由を持ち合わせてはいなかった。


「とりあえず教室に戻ろう」


 ここで座りこませていては、いずれ自分に関して良くない噂が流れてしまう。

 そう判断した唯斗が手を握って立ち上がらせようとした瞬間、夕奈の口元がにんまりと歪んだ。


「唯斗君捕まえた♪」


 脳が危険を察知するよりも早く、腕をがっしりと掴まれてしまう。

 抵抗しようとするともう片方の腕も掴まれ、イラッとするようなドヤ顔で「つ・か・ま・え・た♡」と囁いてくる。完全にしてやられたのだ。


「嘘泣きだったの?」

「まあ、涙は本物だよ。お姉ちゃんが彼氏自慢してきた時の悔しさを思い出したら泣けた」

「……ずる賢さだけは一流だね」

「ふふん、夕奈ちゃん舐めんなし」


 今ばかりは唯斗も、自分の良心を恨みたい気分である。まさか弱々しい姿に弱いことが、ここに来てこうも弱点になるとは……。

 しかし、夕奈はそれをわかった上でこの作戦を選んだのだろう。やっぱり長く傍にいられるとろくな事がない、逃げ出したのは間違いじゃなかったね。


「離してよ、痛い」

「夕奈ちゃんも輪ゴム痛かったんだけどなー?」

「それはごめん、よけれると思ったから……」


 そこまで口にして、彼はこれまで分かっていなかったもう一つの思い違いに気が付いた。

 彼女は以前、飛んでくる輪ゴムを定規で跳ね返したのである。そんな反射神経を持っていながら、手で防ぐことすらできなかったとは考えづらい。


「そっか、わざと当たったんだ?」

「いやー、思ったより痛くてびっくりだよ」

「僕の罪悪感を返して」

「唯斗君は泣けば許してくれる性格だしぃ? 演技しとけば来てくれ……待って、もう撃たないで?!」


 強引に腕を振りほどいて輪ゴムを構えると、うずくまりながら「顔だけはご勘弁を!」と言うので、パンチラに免じて仕方なく許してあげた。


「夕奈も背伸びするようになったんだね」

「え、何のこと?」

「ううん、何でもない」


 クマちゃんは卒業したのかと精神的な成長を感じつつ、唯斗は走ってきた廊下を引き返し始める。

 それを見た彼女は慌てて立ち上がると、小走りで横に並んで顔を覗き込んできた。


「パーティー、来てくれるの?」

天音あまねが行きたいって言ったらね」

「師匠の権力で絶対に説得してやんよ!」

「メル〇リで売ってそうな権力だね」

「安物やないわ!」


 しかし、参加するとなればただその場にいるだけでは気が引ける。ぼっちが好きな彼も、パリピに混ざるのなら何か役割をもらえた方が気が楽なのだ。


「あと、久しぶりにお菓子作りがしたいし」

「え、準備も手伝ってくれるってこと?」

「夕奈がキッチンに入らないならね」

「なんでみんな私を除け者にするの?!」

「だって邪魔しかしなさそうだもん」

「ぐぬぬ……」


 不満そうな目でじっと見つめてきた夕奈だが、「味見は一番にしていいよ」と言ったらあっさり「飾り付け頑張る!」と切り替えてくれた。


「あ、来るなら仮装が必要だけど、唯斗君ってそういうの持って…………ないよね」

「どうして決めつけるのかな」

「じゃあ、持ってるの?」

「持ってるわけないじゃん」

「うん、世界一無駄なやり取りだったね」


 夕奈は「まあ、唯斗だもんなぁ」と呟くと、よし決めたと言わんばかりに大きく頷く。そして。


「2人で一緒に買いに行こう!」


 強引に買い物デートの約束を取り付けたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る