第185話 引き金は2人の思い出

 夕奈ゆうな瑞希みずきらに励まされているのと同時刻。唯斗ゆいと晴香はるかが「唯斗さんの家に行ったことがあるなら行きたいです」と言うので、仕方なく一緒に帰宅することにした。

 ただ、晴香と唯斗の関係を知っているハハーンは笑顔なもののどこか対応が冷たく、天音も監視と称して部屋に居座ってしまう。


「今更お兄ちゃんになんの用?」

「な、何って……遊びに来ただけですよ?」

「色目使ってお兄ちゃんを騙そうなんて、天音あまねは絶対に許さないから!」

「許すって何をですか?」

「そんなの決まって――――――――」


 過去のことを話そうとする様子に、唯斗は慌てて彼女の口を塞ぐ。そして耳元で今の晴香について教えてあげた。


「記憶喪失?!」

「しーっ。記憶を取り戻すために僕と一緒にいるけど、僕は手伝っていいのか悩んでるんだ」

「そんなの思い出させない方がいいよ」

「そうだよね。ハルちゃんが傷つくし……」


 彼がそう言うと、天音は何言ってるの?と言いたげな目でこちらを見つめてくる。


「傷つくのはお兄ちゃんの方」

「僕が?」

「思い出したら、どうせまたお兄ちゃんを捨てるよ」

「あの時はハルちゃんも仕方なかっただけで……」

「どうしてそんなに優しくなれるの?!」


 訳が分からないといきどおる天音に、「僕にも責任があるから」と返すと、彼女は深いため息をついて奥歯を噛み締める。


「私はもうお兄ちゃんに変わって欲しくないのに」


 そう言い残して立ち去っていく背中を、晴香は不安そうに見つめていた。

 どうして自分がこんなにも嫌われているのか、その理由すら覚えていないのだから仕方ない。


「私、何か悪いことをしたんですか?」

「……悪くないよ、ハルちゃんは」


 唯斗の言葉で心の影は拭いきれなかったものの、彼女は雰囲気を変えようと笑顔を作って新しい話題を捻り出してくれた。


「そう言えば、ハルちゃんというのは私のことですよね?」

「あ、うん。そうだよ」

「ふふ、前もそう呼んでくれてたんですか?」

「ハルちゃんがお願いしたから……」

「そうなんですね! では、今後もハルちゃんで!」


 晴香は嬉しそうに笑うと、「唯斗さんは唯斗さんですか?」と首を傾げる。

 少し何を言われているのかわからなかったが、呼び方の話繋がりということだろう。そう判断して首を横に振った。


「みんなの前では唯斗って呼び捨て。2人の時は……ゆーくんって呼ばれてたかな」

「なるほど、私たちは親しい仲だったんですね?」

「そうだね。仲は良かった、はずだよ」

「ふふ♪ ゆーくん、覚えておきますね」

「っ……」


 その呼び方をされると、どうしても思い出してしまう。友達にも秘密の交際、図書室やいつも親の帰りが遅い彼女の部屋で、ただお互いの存在を感じているだけで満たされるような…………あの恋心を。


「ゆ、唯斗さん? そんなに嫌でしたか?」

「違うよ、そうじゃないけど……」


 でも、既にあの時の晴香の後ろには浮気相手がいて、逆らえなかったとは言えど、そいつは自分の知らない晴香を知っていた。

 浮気の証拠を見つける過程でそれが明らかになって、唯斗は裏切られたという喪失感と悔しさを隠すように彼女を責め立てたのだ。

 その後、晴香の意思でなかったことは判明したものの、仲間を失ったことや恋人を穢されたことへのショックでどん底に突き落とされて。


「ごめん、ちょっと涙が止まらなくて……」

「……大丈夫ですか? 私、傷つけちゃいました?」

「ううん、ハルちゃんのせいじゃないから」


 この涙はきっと、自分の情けなさに対する涙だ。いつまでも過去に囚われ続けている自分の、不甲斐なさに対する悔し涙だ。


「私がそばにいます、話も聞きますよ?」

「本当に平気だから、すぐに収まるよ」

「もう、強がらないでください……」


 そう言って手を握り、優しく摩ってくれる彼女。付き合っていた頃にも、同じ慰め方をされたことがあった気がする。


『手が冷たい人は心が温かい人だって聞いたから。ゆーくんの冷たい手を温めれば、心はもっと温かくなるんじゃない?』


 そう言って駅のホームで何十分も寄り添ってくれて、おかげで今ではその時に何を落ち込んでいたのかすら思い出せないほど回復した。

 記憶を失ってもその優しさも、慰め方も変わっていないなんて、何だか微笑ましく―――――――。


「……ハルちゃん?」

「あ、あれ? どうして涙が……」


 ポタリと水滴のこぼれ落ちる音で顔を上げてみると、何故か彼女までも泣いていた。

 本人もその理由が分からずに困惑していたが、「何か思い出しそうなんです」という言葉を聞いて唯斗の心臓が跳ね上がる。


「何故かすごく幸せで。でも私、唯斗さんに謝らないといけないことがあったような……」


 辛そうに頭を押さえる彼女の様子に焦りながらも、『思い出さないで』という気持ちと『ハルちゃんが望むならば』という気持ちが交差してクラっとした。

 ただ、その直後に彼女はピタッと動きを止めると、スっと全身から力が抜けてこちらに倒れてくる。気を失ってしまったらしい。


「……もう少し、悩む時間が欲しいよ」


 唯斗はそう呟くと、晴香の体をベッドの上まで運び、そっと布団をかけてすぐそばに腰を下ろした。

 今の一瞬ですごく深い眠りに落ちてしまったようで、彼女の脳がどれほど中学三年間の記憶を強く閉じ込めているのかが伺える。


「あの時は忘れられたくなかったのに、今は忘れたままでいて欲しい。おかしいよね、笑ってよ」


 まるでその言葉を聞いていたかのようにクスリと微笑んだ晴香に、唯斗は胸の奥の方がズキンと痛んだ。

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