第182話 記憶があろうと無かろうとも

 しばらくして、ようやく落ち着いてきた唯斗ゆいとは、みんなに「ごめん、また火曜日に」と言葉を残して背中を向ける。

 瑞希みずきはその様子から何かを察したようで、「またな」と他の4人の背中を押して駅へと歩き出した。


「……はぁ」


 一人になった彼の頭の中に流れるのは、3年前のあの日と先程の晴香はるかという2つの記憶。

 彼女は自分にしたことを何も覚えていなかった。事件の当日に逃げ出してしまったのは、恋をした相手に自分を忘れられたくなかったからだというのに。


「でも、これで良かったのかな」


 どれほど晴香が願ったとしても、記憶が戻る保証はない。自分さえ気にしなければ、以前のように仲良くなれる可能性だってある。

 なんなら封印していた恋心を取り戻せるなんてことも、彼女とならありえるのだ。


「……って、さすがにずるいか」


 そこまで考えて、唯斗は首を横に振る。

 いくら覚えていなくとも、自分の罪悪感が耐えきれないだろうから。それに晴香が全て思い出した時、きっと自分は近くにいていい存在じゃない。

 だって彼女を二度も救えなかったのだ。

 一度目は浮気相手にされた時、強引にでも不良に立ち向かえばよかった。

 二度目は卒業式の放課後、自分から呼び出したくせに弱いがゆえに逃げ出してしまった。


「ハルちゃんに記憶があってもなくても、僕は彼女の人生を壊した悪い奴だよ……」


 こちらがいくらそう思っていても、晴香は何も知らない純粋な笑顔で自分に着いてくるだろう。

 彼女が唯斗というイメージだけを繋ぎ止めていたのはきっと罪悪感によるものだろうが、記憶が無い以上はそこにはもう何も残っていない。

 そんな状態で顔を合わせて、平然としていられる自信が彼には少しもなかった。

 目の前に晴香がいるというだけで、どうにかしてしまいそうな程だったのだから。


「……ねえ、唯斗君」


 突然名前を呼ばれて反射的に振り返ると、視線の先には夕奈が立っていた。ここまで走ってきたのか肩で息をしている。

 今はあまり誰とも話をしたくない唯斗は「また今度にして」と背を向けようとするが、駆け寄ってきた彼女に肩を掴まれて強引に向き合わされた。


「ひとつだけ教えて」

「……ひとつだけだよ」


 彼がその真剣な瞳に気圧されるように頷くと、夕奈は何度か深呼吸をしてから聞く。


「唯斗君は、まだハルちゃんのことが好きなの?」


 そんな質問に唯斗は一瞬戸惑いながらも、僅か数秒で導き出した答えを口にした。それはもちろん夕奈が望んでいたものでは無く―――――――。


「……僕は一度好きになった人を嫌いになれるほど器用じゃない」


 この3年間、ずっとあの人のことを想っていたというもの。覚悟できた上で聞いたはずなのに、いざ本当に言われると視界が歪むほど胸に突き刺さる。


「……そっか、そうだよね」


 唯斗は自分が傷つけられていても、『あれは仕方がなかった』『自分に魅力がないから』とハルちゃんを責めなかった。

 それほどまでに大切に思っている相手がこうして1年ぶりに目の前に現れて、おまけに全てを忘れても自分のことはうっすらと覚えてくれている。

 そんな状況で想いが蘇らないはずがない。夕奈もそれは分かってる、分かっているけれど……。


「また好きになってくれると……いいね……」


 彼女は無理に笑顔を作って「またね」と手を振り、その場から逃げ出すように立ち去ってしまった。

 見られたくなかった、馬鹿で明るくて鬱陶しくて元気な自分が泣いているところなんて。それも怖さではなく、悔しさで。

 自分らしくなくて、今すぐそんな自分じゃない部分なんて切り落としてしまいたくなって、それでも泣いてるのは捨てたくても捨てられない自分の恋心だとわかってしまうのが辛かった。


「ああ、終わったかな……」


 走り疲れて立ち止まった彼女が呟いた声は、街灯の無機質な光に吸い込まれるように消えてしまう。

 乾いた喉を潤そうと歩み寄った自動販売機に1000円札を入れると、無慈悲にも吐き戻された。釣り銭なしのランプが点灯している。

 その様子をボーッと眺めていると、込み上げてくるなにかに押し出されるように、心の中の言葉がそのまま口から零れてきた。


「……終わりたくないよ」


 けれど、どうすればいいのかもわからない。背後を通り過ぎた自転車の風を背中に感じながら、彼女は濡れた左頬をそっと撫でた。

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