第181話 再び纒わり付く過去

「……ハルちゃん」


 唯斗ゆいとがその名前を呟くと、ハルちゃんもとい晴香はるかは表情をパッと明るくする。


「覚えててくれたんですね!」

「もちろん覚えてる。覚えてるけど……」

「……どうかしたんですか?」


 確かにハルちゃんだ。どこからどう見ても、唯斗の元恋人であるハルちゃんで間違いない。

 しかし、彼は記憶の中の『ハルちゃん』と大きく違うところがあることに気が付いていた。

 まず、晴香は自分に対して敬語を使ったことはない。対等な同級生、ましてや恋人になるほど親しかったのだから当たり前だ。

 そして人と話す時にこんなにも下手したてに出るタイプではなく、夕奈のような強引さが多少はあったはず。仕草や口調も全く違う。

 それでも声と顔は同じという事実が、唯斗を『3年も経ったのだから』と説得しようとしてきた。

 しかし、彼の「いや、何でもないよ」という言葉に対する晴香の返しによってその考えは打ち砕かれる。


「よかった、唯斗さん忘れちゃったのかと思いましたよ」

「……まで、ってどういうこと?」

「あ、すみません。今から伝えるつもりだったので」


 『まで』というのは何かに対して何かを追加する時に使われるはず。ということはつまり、目の前にいるハルちゃんは――――――――――。


「私、無いんです。記憶が」


 彼女の「正確には中学三年間の記憶なんですけど」という言葉に、背後にいた夕奈が驚いた表情を見せる。

 彼女も知っているからだ、唯斗と晴香との間に起こったあの件がちょうどその間に起こったことであると。


「……記憶喪失ってこと?」

「お医者さんはそう言ってました」

「原因は分かってるの?」

「不良の喧嘩に巻き込まれちゃったみたいで。頭の損傷を見る限り、石かなにかで殴られたらしいです」


 話を聞く限り、晴香は倒れているのを不良を止めに来た警官に発見され、すぐに搬送されて何とか一命は取り留めた。

 しかし、1年間昏睡状態になった上に、半年前に目を覚ました時には3年分の記憶が丸々無くなっていたんだとか。


「でも、覚えてたこともありますよ?」


 母親が彼女にアルバムを見せた時、他の何者にも首を捻っていた彼女が、唯斗の写真にだけ反応を示したのだ。

 それでも思い出せるのはこの人と話したことがあるということだけで、それ以上は激しい頭痛に襲われて無理だった。

 ただ、医者が『何かきっかけがあれば回復するかもしれない』と言うので、最後の希望とばかりにここまで会いに来たのである。


「けれど、あまり思い出せなかったです」

「……ごめん、役に立てなくて」

「大丈夫です、まだまだ時間はありますから」


 その言葉に唯斗首を傾げると、彼女はにっこりと微笑みながら言った。


「私、この学校に転校することになったんです。ずっと近くにいた方が、一度会うより効果的らしいので」


 一年間昏睡状態だったせいで学校に通えず、留年という形で1年生からやり直すらしい。つまり、年齢は同じでも唯斗たちの後輩になるわけだ。


「ゆっくりでいいので、私がどんな人間だったのかを唯斗さんからも教えて欲しいです」

「あ、うん。覚えてる限りはそうするよ」

「ありがとうございます! では、お母さんが迎えに来てくれてるので失礼しますね」


 丁寧に頭を下げ、少し離れた位置に停めてある車へと向かおうとする晴香。

 唯斗はそんな彼女を呼び止めると、最後に聞いておきたかったことを質問した。


「事件はいつ起こったか、聞いてもいい?」

「確か、3月12日だって言われました」

「……そっか、ありがとう」


 再度お辞儀をして、トコトコと少し歪な走り方で去っていく晴香。その後ろ姿を眺めていた彼は、視線を足元へと向けると近くの壁にもたれかかる。

 3月12日は中学の卒業式の日だったのだ。

 その日の放課後、唯斗が最後に晴香へ『自分のことは記憶から消して欲しい』と伝えようと校舎裏に呼び出して―――――――――――。


「逃げなきゃ良かった……」


 怖くなって彼女が来る前に帰った日でもあるのだ。もしも唯斗がその場に留まってしっかりと話をしていれば、事件は起こらなかったかもしれない。

 例え事件を起こしたのが、自分から晴香を奪った不良だったとしても、少しくらい何かを変えられたかもしれない。

 そう考えると彼女の事情を知らずに生きてきたこれまでの自分が、どうしようもなく情けなくて、どこまでも憎らしかった。


「唯斗君、大丈夫?」

「……」


 心配そうな目を向けてくれる夕奈の声も聞こえず、唯斗はしばらくの間その場に立ち尽くすことしか出来なかった。


「僕が……悪いのかな……」

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