第175話 ハグは不動の岩をも動かす
長居したハハーンと
客も減ってきたし、さっさと洗い物を済ませて
「……」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
帽子を深く被り、サングラスをかけた女の子が入店してきた。
何だか怪しげな格好だが、それだけで忌避するのは失礼なので普通通りに席へと案内する。
「メニューはこちらです」
「……オススメはなんですか?」
「オムライスが人気ですよ」
「じゃあ、それを1つ」
「かしこまりました」
お辞儀をしてから注文を伝えに行こうと振り返った唯斗は、すぐに「あ、待って」と呼ばれて足を止める。
「まだ何か?」
「いや、あの……聞きたいことがあって」
何やらオドオドしているように見える女の子。トイレなら教室を出て右に行ったところにあるけれど、どうやらそういうことではないらしかった。
彼女はしばらく口をもごもごとさせていたものの、やがて意を決したように顔を上げると、はっきりとした口調でこう聞いてくる。
「
「どうして僕の名前を?」
「えっと……ここの人気メイドだと聞いたんです!」
「僕が人気? さてはまた……」
夕奈の仕業かと振り返ってみるが、彼女は先程のハハーンの時とは違って「なんのこっちゃ」といわんばかりに首を傾げていた。
ということは、本当にどこかでそんな噂が流れているのだろうか。そんなことを言うのはきっと物好きな人だね。
「すみません、期待外れで」
「そんなことないですよ! 私は……会いに来てよかったなって思ってますし……」
「お嬢様にそう言って貰えると嬉しいです」
女の子はサングラスの向こう側でにっこりと笑うと、「聞きたいことはそれだけです」と会釈をした。
唯斗も、初めて会ったにしては不思議と話しやすい人だなと不思議に思いつつ、「少々お待ちください」と言い残してくるりと背中を向ける。
「随分と話し込んでたけど知り合い?」
「ううん、違う。……多分」
「多分って曖昧な返事だね」
「そんな気がするんだよ」
彼はそう言いながらタッチパネルでオムライスを選択して、調理室へと注文内容を送る。これで待っていれば完成したものを運んできてくれるというわけだ。
運ぶ係になればあの手押し台を持ってエレベーターを何往復もしないといけなかったわけで、もしかするとメイド係で正解だったかもしれないね。
唯斗はそんなことを思ったものの、今の自分の格好を鏡で確認するとやっぱり無いなと思い直した。
「本当に女の子だと勘違いしてるお客さんも思いみたいだね」
「どこをどう見ても男じゃん」
「そういうのはもう少し筋肉をつけてから言いなよ」
「夕奈は筋肉ある方が好きなの?」
「ふふん、今の唯斗君が一番かな♪」
「じゃあ、頑張ってトレーニングするよ」
「嫌われようとすな」
唯斗はとりあえず近くにあった休憩用イスを持ち上げてみる。これだけなら大丈夫だが、その状態で腕を曲げ伸ばしすると上腕二頭筋が悲鳴を上げ始めてしまった。
「……他に嫌いになる要素を教えて」
「諦めるの早くない?!」
「人生において不必要に茨の道を選ぶの必要は無い」
「それ、ただ自分に甘いだけだよね?」
ガヤガヤとうるさい夕奈が「そんなんじゃ、彼女をお姫様抱っこできないよ」なんて言ってくるので、「こまるくらいなら出来るんだけど」と言ったら何故か落ち込んでしまった。
「どうせ私は重い女だよ……」
「色んな意味で重そうだね」
「オーバーキルしないで?!」
今回のは傷が深いらしい。このままではシフト終了までに仕事が片付かないので、唯斗は仕方なく励ましてあげることにする。
「大丈夫、普通の男なら夕奈くらい持ち上げれるよ」
「それじゃ意味ないんだし!」
「僕に持ち上げられたいってこと?」
「……うん」
なるほど、こまるを高い高いした時と同じで、腕に深刻なダメージを与えるって新手の嫌がらせか。
彼は夕奈の言葉をそう解釈すると、心の中だけで『そこまで人を困らせたいとは恐ろしい人間だよ』と呟いた。
「わかった、いつか持ち上げれるようになるよ」
「……ほんと?」
「大人になれば少しくらい力も強くなるだろうし」
「じゃあ、その時まで待ってるね」
彼女はそう言って目元を拭うと、両手を広げてじっとこちらを見つめてくる。
小〇幸子の真似でもしているのかと思ったけれど、「約束のハグして」と言っているから違うようだ。
「こんなところで?」
「カーテンで隠れてるから大丈夫」
「そうだけどさ」
「ハグくらいはできるって言ったの、唯斗君だよ?」
「……わかった、すればいいんでしょ」
渋々了承した唯斗は、広げられた腕の中へ恐る恐る入る。その瞬間、まるで巨大な肉食植物のように彼の体を包み込む夕奈。
彼女は胸に顔を埋めて幸せそうに頬を緩めると、「えへへ、元気出てきたかも♪」と笑ってみせる。
「それは良かった」
「唯斗君も元気出た?」
「どうして僕が元気になるの」
「可愛い女の子のハグやで、元気にならなきゃ男やないやん?」
「自分で言うから台無しなんだよ」
「もっかいしたげるから。ほら、元気になった?」
「……はいはい、ほんの少しだけね」
「よしっ」
そんなカーテンの中の2人だけの和やかな空間。その手前で料理を届けに来た男子生徒が待ってくれていることに気付くまで、あと3秒。
「……ああ、これが世にいう尊いか」
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