第163話 勉強のバカと人生のバカは違う
「唯斗君を困らせていいのは私だけなんだけど?」
そう口にした
ようやく掴まれていた手首が開放された
「てか、君って2週間前に告白してきた人だよね?」
「いてて……それがなんだって言うんだよ」
「気持ちの切り替えが随分と早いなと思っただけ。どうせ顔が可愛いからワンチャン狙ったってとこっしょ?」
「自分で言うことじゃ無いだろ!」
声を荒らげながら体を起こそうとする男子生徒を、夕奈は片手で押さえ続ける。
その瞳から慈悲は感じられず、もし彼女の握力がゴリラ並だったら、頭を掴まれている彼の命は既にないとさえ思えるほどだった。
「どうせ振られたんだ、新しい恋を探すのは普通のことじゃないのか?」
「私ならそんな早く切り替えられないけどね」
「個人差ってのがあるんだよ!」
「……意味不明な横文字使わないでくれる?」
「ひとつも使ってねぇよ!」
いくらキレてもバカは変わらないらしい。冷たい空気が張り詰める教室の中、唯斗はそんなおかしな言葉にすら体が硬直するのを感じていた。
自分のせいで問題が起こるのが怖い。自分のせいで怪我人が……いや、夕奈が傷つくのが怖い。
止めに入りたい気持ちはあるのに、接着剤で机とイスにくっつけられたかのように体が動かなかった。
「別に君がいくら恋多き人生を歩もうと構わないけどさ」
「構わないならなんでそんな突っかかって……っ?!」
「……唯斗君に手を出すからに決まってるやん?」
夕奈は「反省しない人にはお仕置かなぁ」と呟きながら、空いている方の手を軽く振って見せる。
その瞬間、先の光景が垣間見えてしまった。彼女が男子生徒に手を上げてしまう様が。
「待って、ゆうn―――――――」
慌てて腕を伸ばすものの空を掴むだけ。止めることが出来なかった夕奈の手は、彼の腹へ向かって真っ直ぐに振り下ろされて……。
「うっ、あひゃひゃひゃ!」
「どうや、これで反省するか!」
「しました! もう反省しましたから!」
男子生徒の脇腹をくすぐった。細くて長い指が制服の生地を撫でる度、彼は苦しそうに身を捩る。
その様子にクラス全員がぽかんとしたことは言うまでもなく、くすぐりが終わってからもしばらく何とも言えない空気が流れた。
「ゆ、夕奈? 怒ってたんじゃ……」
「いや、くすぐりが一番辛い拷問らしいかんね」
「てっきり殴るのかと」
「こっちが正しいことしてても、暴力を振るった時点で負けやん?」
「……そうだよね、夕奈はそういう人間だったよ」
海で花音にナンパした男が飛びかかってきた時も、『拳で争う気は無い』とはっきり口にしていた。
彼女は周りの人のことを自分のことのように怒ってくれるけれど、必要のない暴力に走るほど馬鹿じゃない。
「ほら、顔洗って頭冷やしてきなよ」
「は、はい!」
自由の身になった男子生徒はいそいそと立ち上がると、「
これでようやく平穏が訪れたのである。ザワついていたクラスメイトたちも次第にそれぞれの作業に戻り、夕奈は唯斗の手を引いて廊下へと出た。
「着替えよっか、トラブルの種だし」
「夕奈がもっと早く着替えさせてくれてれば……」
「……うん、ごめんね」
やけに素直に謝ってくれる彼女に、むしろ自分の方が悪く感じてしまう。自分の力で何とかできてさえいれば、巻き込んでしまうこともなかったのに。
そう思い始めたら考えは留まる所を知らず、どんどんと先へと走っていってしまって――――――。
「もう僕に関わらないで」
気がつけばそう冷たく突き放してしまっていた。
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