第153話 兄の休日は妹のためにある

 夕奈ゆうなを望まぬデートの危機から救ってあげた翌日。

 サボった分もたんまりと働かされて疲れ果てていた唯斗ゆいとは、10時頃にようやく目を覚ました。

 しかし、土曜日だから今日はゆっくり出来ると思いながら体を起こした彼は、目の前の光景に目を丸くする。


「……いつの間にリビングに?」


 昨晩は確かにベッドで眠ったはず。その記憶もはっきりと覚えている。なのに、意識の無い間にソファーの上まで移動してきていたのだ。


「ここへ連れてきたのは私だ、息子よ」

「は、ハハーン……」

「お母様と呼びなさい」


 いつの間にか寝巻き姿で背後に立っていた悪の大魔王ハハーン。唯斗は奴を視界に捉えた瞬間、反射的に身構える。

 だが、血も涙もないハハーンは彼をひょいとつまみ上げてソファーから引きずり下ろすと、両頬を挟むようにビンタして強制的に眠気を覚まさせた。


「息子に暴力を振るうなんて信じられない」

「変なあだ名をつけた罰、自業自得よ」

「……さすが悪魔の親玉」

「どうやらお小遣いはいらないようね?」

「お母様の仰せのままに」


 目の前に膝まづいて忠誠を違う唯斗に、ハハーンは満足そうな表情で頷くと、お小遣いが入った袋をちらっと見せながら話し始める。


「突然だが、君に頼みたいことがある」

「頼みたいこと?」

「そうだ。だが、そう難しいことじゃぁない」


 目の前を右へ左へウロウロしながら、やたら偉そうな口調で言ってくるハハーン。

 そんな様子に彼が「なら自分でやれば……」と言いかけると、ハハーンは「おっと、人質がいることを忘れるな?」と小遣い袋をチラつかせてきた。

 完全に脅しだ、ゼロ円にしてやるぞという。そんなことをされれば、唯斗が抗えるはずもない。さすがは卑劣な大魔王である。


「なに、こき使うわけじゃない。これが何かわかるか?」

「チケット?」

「そうだ、正確には映画の前売り券だな。貴様にはこれから、天音あまねの付き添いで映画館に行ってもらう」

「せっかくの休日に外出……」

「そう言えば、欲しい枕があると言っていたな?」

「え、買ってくれるの?」

「妹を楽しませるいい兄になれるのなら、だ」


 彼が目をつけている枕の値段は3万3000円。小遣いよりも遥かに高い金額だ。

 そんないい条件を提示されているというのに、一日の休息のためと断るほど唯斗は頑固じゃない。


「その願い、聞き届けた」

「うむ、苦しゅうない」


 ハハーンは満足げにうんうんと頷くと、財布の中から5000円札を取り出して机の上に置いた。

 どうやら天音を楽しませる資金らしい。余った分は回収するから、めいっぱい遊ばせてこいとのこと。


「それでは私は世界一幸せな時間を過ごしてくる」

「幸せな時間でございますか」

「ああ、二度寝だ」


 グッと親指を立てながらリビングを後にするハハーンを、唯斗は「おやすみなさいませ、お母様」と頭を下げながら見送る。

 それから、自分の睡眠好きは母親からの遺伝だったのかと納得しつつ、ハハーンと入れ替わりで入ってきた天音へと視線を向けた。


「本日はお世話かけます」

「お兄ちゃんが楽しませてあげるからね」

「えへへ、楽しみ♪」


 丁寧なお辞儀と子供らしい笑顔のギャップを微笑ましく思いながら、「少し待ってて」と伝えて自室へ向かう。

 しかし、そんな彼を天音は服を引っ張って引き止めると、不思議そうに首を傾げた。


「どこ行くの?」

「服着替えないとでしょ」

「お兄ちゃん、もう着替えてるよ?」

「…………ん?」


 指摘されて初めて気がついた。寝ている間に移動だけでなく、着替えまでさせられていたということに。


「ハハーン、少しは息子の年齢を考えてよ……」


 意識がなかったとはいえ、母親に着替えさせられる自分を想像すると、さすがの唯斗でも心に来るものがあった。


「お兄ちゃん、朝ご飯食べたら早く行こ?」

「そうだね、さっさと済ませちゃうよ」


 しかし、文句を言えば3万3000円の枕が泡になるかもしれない。そう思うと、余計なことは何も言えなかった。

 こちらが得をしているように見えて、実は小遣い無しの脅しと同じように縛り付ける鎖になっていたのである。


「極悪非道だよ、まったく……」

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