第98話 唯斗の今がある理由

 夕奈ゆうなが冷えピタを貼ったり、ポカリを飲ませてあげたりしていると、30分ほどで顔の青白さは消えた。

 とりあえず一番辛い時期は乗り越えたようなので、彼女は寝息を立て始めた唯斗ゆいとを眺めながらほっと胸を撫で下ろす。


「師匠、大丈夫?」

天音あまねちゃん……」


 心配で様子を見に来たらしい天音に、「もう落ち着いてきたよ」と教えてあげると、彼女は心から安心したように笑顔を見せた。

 夕奈はこの子も自分なりに、お兄ちゃんのことを大事に思ってるんだなぁと微笑ましく思いつつ、熱が伝染ってはいけないからと一階へ戻らせる。


「まったく、幸せものだねぇー」


 そんなことを呟きながらベッドの横へと戻った彼女は、ふと唯斗が何か寝言を言っているのを聞いた。そっと耳を近付けてみると、何か名前を呼んでいるらしい。


「…………ちゃん……」


 聞き取りづらいものの、何度も聞いているうちに夕奈は彼が『ハルちゃん』と繰り返していることに気が付いた。

 その直後、唯斗はゆっくりと右手を天井へ向けて伸ばしていく。何かを掴む夢でも見ているのかもしれない。


「……待って!」


 その様子をじっと見つめていた夕奈は、心がザワつくのを感じてその手を抱きしめるように掴んだ。

 そんなことはありえないはずなのに、何故か彼が遠くに行ってしまうような気がしたのだ。

 その握られた感覚で起こしてしまったのか、薄らと目を開いた唯斗は眠そうに体を起き上がらせる。


「あ、ごめん……」

「ううん、いいよ」

「怒らないの?」

「変な夢見てたから。起こされてよかったかも」


 夢と言うと先程の寝言と関係があるのだろうか。夕奈はどうしても気になってしまって、気が付けば考えるより先に聞いてしまっていた。


「ハルちゃんって誰?」

「どうして知ってるの?」

「寝言で呼んでたから……」


 その少し遠慮がちな言葉に「ああ、夢に出てきたからかな」と頷いた唯斗は、ベッドの縁に移動して座ると、仕方ないというふうに話し始める。


「ハルちゃんは僕の唯一出来たカノジョだよ」

「……え?」

「僕みたいなのにカノジョがいたなんて意外?」

「しょ、正直驚いたかな……」


 夕奈の予想通りの反応に、唯斗は「まあ、最後は捨てられたけどね」と苦笑いして見せた。


「中一の夏頃に付き合って、2年生の最後に別れた。理由はなんだと思う?」

「うーん、楽しくなくなったとか?」

「違う、ハルちゃんの浮気だよ」

「……」


 サラッと言ってのけた唯斗に、夕奈は思わず5秒ほど固まってしまった。自分の大好きな人が、どこぞの誰とも知らない女と付き合い、おまけに浮気されていたと知ったのだから。


「ハルちゃん、いつから浮気してたと思う?」

「別れる2ヶ月前とか?」

「ううん、僕と付き合った次の週」

「そ、そいつ最低じゃん!」


 本気で怒ってくれる夕奈に唯斗は首を横に振ると、「でも、僕が好きだったのは本当なんだよ」と俯きながら呟いた。


「僕は仲の良かった友達に間に入ってもらって、浮気の証拠を突きつけたんだ」

「それならさすがに認めたんじゃない?」

「ううん。ハルちゃんは僕より浮気相手を取ったよ。僕に『言うことを聞かないと、付き合ってることを言いふらすと脅された』って嘘をついてね」


 唯斗は「友達は味方してくれたの?」と聞いてくる夕奈へ首を横に振りつつ、混み上がってくるムカムカとした感情をなんとか鎮める。


「初めは味方してくれる人もいたけど、ハルちゃんが浮気相手を連れてくるとみんな黙っちゃった」

「すごい人だったとか?」

「不良高校の生徒だよ。ハルちゃんを傷つけたら、無事じゃ済まないような相手だった」


 唯斗はハルちゃんに裏切られたのだ。けれど、彼女を恨んでいるわけではない。恐ろしい相手に付き合えと言われて、断れる女の子の方が少ないだろう。

 ハルちゃんは自分の意思と関係なく浮気をしなければならない状況になり、自分の身の安全を優先したことで唯斗を捨てることになったのだ。


「一番辛かったのは、誰も仲間が残らなかったこと。ハルちゃんが言いふらした噂のせいで、僕は孤立することになったんだ」

「噂?」

「うん。僕の方が浮気相手だってことにされた」


 唯斗はあの瞬間に悟ったのだ。友達なんて居ても、本当に必要な時には独りになる。

 それならいっそ、ずっと一人でいた方が面倒事に巻き込まれずに済むんじゃないか……と。


「そんなことがあったから、僕は一人が好きなんだ。もう裏切られるのは嫌なんだよ」


 いつもよりも熱の篭った彼の言葉に、夕奈は次に出すべき言葉が何なのか、分からなくなってしまっていた。

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