第94話 見えないからこその気遣い

「ふぅ、いいお湯ですね〜」


 川で冷えた体を、浴槽に張った41℃のお湯で温める花音かのん。彼女は心底幸せそうに頬を緩めつつ、すぐ横で体を洗っている唯斗ゆいとを見上げた。


「唯斗さんもしっかり温めてくださいね♪」

「……今更だけど、何かおかしいと思わないの?」


 彼は花音がいる方向を見ながら、首を傾げている様子を思い浮かべてため息をこぼす。

 この表現からわかる通り、今の唯斗には目隠しで目の前の景色が見えていないのだ。何故こうなったのかを説明するのなら、時は数分前へとさかのぼる。

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「先に入ってきてよ、僕は後で入るから」


 その言葉に、花音は遠慮がちに首を横に振る。そして、どうぞと言いたげなジェスチャーをして見せた。

 唯斗はてっきり『自分に先を譲っている』のだと思い込み、それならばと脱衣所に入ったのだ。

 しかし――――――――――。


「えへへ、私も失礼しますね」

「……は?」


 花音は当たり前のように着いてくると、ファンションとして腰周りに結んであったリボンを解き、それを唯斗の顔に近付けてくる。


「花音、何やってるの?」

「一緒に入るんですよ。2人で入れば、どちらかが濡れたままでいなくて済みますからね」

「理由はわかった。でも、そのリボンは?」

「さすがに見られるのは恥ずかしいですよぉ……」


 モジモジとしながら頬を赤らめる花音。確かに体が冷えると困るのは二人とも同じではある。

 しかし、だからといって一緒にお風呂という発想は、唯斗には理解できないほどぶっ飛んでいた。


「……やっぱり後で入るよ」

「ダメです! 風邪引いちゃいますよ?」

「その方がマシ」

「明日はお祭りの日です。私がいる限り、唯斗さんをダウンさせることは出来ないんです!」


 花音の正義感に気圧されてしまう。彼女は善意で言っているのだ、だからこそタチが悪い。

 彼女のその純粋な気持ちは、唯斗には簡単に跳ね除けられないのだから。


「……わかった、一緒に入ろう」

「はいです!」

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 ――――――――そういうわけで今に至る。

 花音の背中を流している最中、見えないが故のトラブルは少々あったが、そこは割愛させてもらうことにしよう。

 彼女からも背中を流すという申し出があったが、それを断ってまで自分でこなした唯斗は、シャワーを止めると手探りで浴槽の縁を探す。


「……?」

「唯斗さん、それは私の頭ですよ」

「ああ。ごめん、何も見えないから分からなくて」

「こっちです、しっかり掴まってください」


 花音が手を取って誘導してくれたおかげで、ようやく温かいお湯に浸かることが出来た。

 唯斗が「助かったよ」と言うと、彼女は「いえいえ、目隠しをお願いしたのは私なので!」とにっこり笑った。


「唯斗さん、足伸ばしても大丈夫ですよ?」

「花音がどこにいるのかも見えないんだ。今はあまり触れると悪いかなって」

「唯斗さんもそういうことを気にするんですね」

「気にするよ、夕奈以外なら」


 花音は「夕奈ちゃんも女の子ですよ?」とクスクス笑ってから、少し意地悪な表情をしてこっそり唯斗に顔を近付ける。そして……。


「私が近付いても、分からないってことですよね?」

「っ……びっくりした……」

「ふふ♪ やってみたくなっちゃって」

「夕奈みたいなことしないでよ」


 花音の悪ふざけのせいで、どっと疲れた唯斗が短いため息をついたその時、脱衣所の扉が開く音が聞こえてきた。

 きっと天音あまねだろう。2人分の着替えを持ってきてくれるよう、風呂に入る前に頼んでおいたのだ。


「天音、ありがとう」

『…………』


 お礼を伝えるも声は返ってこない。しかし、その代わりに聞こえたのは、浴室の扉が開かれる音。

 クーラーで冷えた空気が唯斗の肩を撫で、体は無意識に温もりを求めて湯の中へと沈む。


「ゆ、唯斗さん……天音ちゃんじゃないです」


 花音の言葉で、唯斗は背筋がぞくりとする。天音では無いなら、ぴちゃりぴちゃりと音を立てながらこちらへ近づいてくるのは一体―――――――。


「……楽しそうだね、唯斗君?」


 耳元で囁かれる聞き慣れた声。たったそれだけで、唯斗はそれが誰なのかを理解した。いや、理解させられた。


「……夕奈ゆうな?」

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