第90話 案外傷つきやすいのが人間

唯斗ゆいと君? そろそろ離れてよ……」


 夕奈ゆうなのその声で、ウトウトし始めていた唯斗はハッと目を覚ました。危うく夕奈にくっついたまま寝るところだったよ。

 彼は指が痛くないのを確認すると、ゆっくりと体を離しつつ、手首からは決して手を離さない。


「……?」

「もう叩かないって約束するなら離してあげる」

「ふっ、それは難しいお願いだ」

「じゃあ、ずっとこのままだよ」


 唯斗の言葉に夕奈はニヤリと笑うと、「唯斗君ごときにねじ伏せられる夕奈ちゃんじゃないわい!」とじたばたと暴れ始めた。

 しかし、数十秒後にはその威勢の良さも掻き消えて、表情には若干の焦りが浮かんでくる。


「唯斗君、鍛えた……?」

「そんなわけないでしょ。ホテルで夕奈がやったのと同じだよ」


 夕奈と唯斗では、男女差があるとしても唯斗のほうが体力も力も劣っている。だから、抵抗すれば振り払えないということは無いはずだ。

 それなら、どうして唯斗は彼女を押さえていられるのか。その答えは2人の位置関係にある。


「上からの力に抵抗するのは難しいでしょ」

「ぐぬぬ……」

「いくら僕が弱くても、今だけは夕奈の方が弱い立場ってこと。分かったら大人しく言うこと聞いて」


 その後もしばらくは夕奈も脱走を試みたが、やがて無理だと悟ると「夕奈ちゃんの諦めの良さに救われたね!」と力を抜いてくれた。


「じゃあ、攻撃してこないでよ」

「へいへい、わかりましたよー」

「自分の立場が分かってない?」

「っ……ご、ごめんなさい……」


 彼女がしゅんと大人しくなったのを確認して、唯斗はそっと手を離してあげる。

 しかし、彼の予想通り夕奈が懲りずに「隙あり!」と手を伸ばして来たので、それを捕まえて再度ベッドへと押さえ付けた。


「夕奈って怖いもの知らずだよね」

「私だって老後は怖いよ!」

「そういう意味じゃないけど」


 どうやらどれだけ押し負けても反省するつもりは無いらしい。唯斗はここらで怖がらせておかないといけないと、手首を掴む手の力を少しだけ強めた。


「夕奈、僕もいつまでも落ち着いていられるわけじゃないからね」

「ど、どういう意味……?」

「僕も男の子だってこと」


 唯斗だって女の子に興味が無い訳では無い。人並みに関心はあるし、好きな女の子に詰め寄られれば照れもする。

 偶然にも夕奈が苦手なタイプだから何も感じていないが、あまりしつこいと男としての本能が働かないとも限らないのだ。


「ま、待って?! それはダメだかんね?」

「夕奈が悪いんだよ」


 今は夕奈に対する感情はゼロに等しい。むしろ、ウザイ部分も含めればマイナスだ。

 しかし、どうなるか分からないからこそ対策はしておかなければならない。

 唯斗は夕奈が嫌いだからこんなことをしている訳では無のだ。彼女のためを思うからこそ、今のうちに離れさせてあげようとしているのである。


「謝るから許して!」

「もう手遅れ」

「待って、待ってよ……」


 段々と近付いてくる顔に、夕奈はドキドキしつつも恐ろしさも覚えていた。

 大好きな相手がこんなにも近くにいるのに、彼女は体の震えを抑えられなかったのだ。

 唯斗はそれを分かっていながら、更に距離を詰めようとしたところでハッと我に返った。


「…………」


 夕奈が泣いていたから。ポロポロとシーツの上に涙目を零しながら、それでも唯斗の目をじっと見つめていたのだ。

 慌てて手首を解放してあげると、彼女は自由になった手で唯斗を押し退けるのではなく、彼の服をぎゅっと掴んで堪えていた声を吐き出した。


「唯斗君のバカ……怖かったよぉ……」

「……ごめん、加減がわからなくて」


 どうすれば良いのかわからず、唯斗はとりあえず夕奈を起こしてから優しく頭を撫でてあげる。

 それで少し落ち着いてきた彼女は、上目遣いで彼を見つめながら頬を膨らませた。


「……自分が男の子だって自覚してよね」

「ちょっと反省させるつもりだったんだよ。本当に傷つけるつもりはなかった」

「それは私にもわかってたけど。それでも、やっぱり逃げられないって怖いんだね……」


 原因が彼女にあるとはいえ、恐怖心とトラウマを植え付けてしまいかねないこの行為は、本当は土下座をしても許されないことなのだろう。

 それでも、「貸しひとつだかんね」の一言で許してくれた夕奈には、しばらく頭が上がらないなと思う唯斗であった。


「ふふふ、何をお願いしようかなー♪」

「法に触れるものは勘弁してよ?」

「女の子を泣かせるのは違法ではないと?」

「……何でも頼んでくださって結構です」

「ふふん♪」


 とりあえず、早めにお願いさせて自由の身になろう。まだ赤みの残る瞳で心底楽しそうに笑う彼女の姿に、背筋がゾクッとしたことは言うまでもない。

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