1-5 巨大堰堤樹エキナレシル 序章5
間話 山の上の小さな聖域1.5
夜、彩道は静かに寝袋に包まる少女の顔を眺めていた。
色葉はその後、テントに頭を突っ込んだまま寝てしまっていたのだった。
大陸東方には「頭隠して尻隠さず」なる言葉があると聞いたことがあり、その時はいったい何時使う言葉なのかと悩んだ記憶があったが、それは今日のためかと彩道は一人で合点がいっていた。
――全く、そんなに疲れてるならちゃんと報告しろと毎度毎度言ってるのに・・・・・・
彩道は色葉の肩にあった白いタオルを取って隣のバケツに浸した。
タオルを取った小さな肩は紫色に染まり、一部は切れて血が出ている。重い荷物を背負い壁登りなど腕を動かす運動を無理に続けた弊害だろう、と想像する。
「色葉が無意識に肩を庇うような動きをするからと、服を脱がしてみればこの有様だ」
彩道は脳内で呟くのをやめ、少しは脳に刻まれるだろうかと色葉に喋りかけていく。
バケツの中にあるのは、日中に赤の虹幻術で雪を暖めて作った水だが指先の感覚が鈍るほどの冷たさだった。タオルを絞る為に力を込めると痛くすら感じられる。
やっとの思いで作った冷たいタオルを再び色葉の肩に置く。寝顔はピクリとも動かず、姿勢は一切変化していなかった。つまり睡眠の周期を完全に無視するような熟睡をしているのだ。
睡眠ではなく昏睡などという表現が近いのかもしれないと彩道は疑ったのだが、起こせば一応は意識を取り戻すのでそのままにしていた。
小さな胸で絶えず続けられる呼吸を見る限り、ずいぶんと衰弱していそうだったが起こしたときに肉と水を無理矢理口に突っ込んだので大分持ち直してきていた。
「ちゃんと寝て食べたんだから、ちゃんと元気になれよ。明日は一日休みだ。どれだけ寝たっていい」
色葉がこんな状況でなければ予定を繰り上げて明日朝には出発しようと考えていたのだが、そんなことは仮に色葉が寝ていても口にはしない。
「堰堤樹は確かに一刻を争う状態だが、向こうだって千年二千年って生きているんだ。おまえの回復を待つ位の根性は身につけているよ」
そう言うと、色葉は初めて口角を僅かに上げ、注射器から垂らしたように小さな涙を一粒こぼした。
テント内を照らすランタンは天井から吊されていたが、忙しなく揺れる光は彩道の疲れと、色葉の安静と相まって彩道の眠気を誘った。
テントは二重構造であり風と寒さを防ぐように作られていたが、例によって風は強く内側のテントまでも当然のように波打たせる。
彩道は目をこすりながら、色葉のタオルをそのままに服を再び着せ、色葉の寝袋を閉める。それからランタンを消すと、彩道もまた寝袋に潜り込む。
――俺は今日、色葉にどんな一日を贈れただろうか。辛いこと、耐えなければならないことを頑張り、美しいものや妖しいものを色葉自身で見つけてきた。これを特別だ、尊いことだ思うのは俺だけで、きっと色葉にとっては遠い記憶の中にある日常になってしまうんだろうな・・・・・・
「今日も、頑張ったな。色葉」
彩道は隣に眠る少女の頭を優しく数回なでると、ゆっくりと目を瞑った。
テントの中では、朝が訪れるまで二人の寝息が調子よく響いていた。
2
二人彩道の朝は早遅かった。
太陽と共に起床し、朝日を見ながら山を半ば駆けるようにして降りている。
二人の気分は爽快だった。
上るときと異なり、降りるときは大地を見ながら降りられる。朝日に照らされる大陸の国々を見ながら、一昨日とは打って変わって快晴の空の元で動けている。昨日は丸一日休養に充てたことで色葉はもちろん、彩道も万全の体調だった。季節は冬、だが春の気配が見えてきた一日だ。
二人の表情は険しかった。
現在の気分は爽快だったが、未来は暗い。キャンプで交流した登山客から聞いた情報では堰堤樹の状況はかなり悪いようだった。虹幻術士は魔法使いではない。絶対に実現不能な願いは確実に存在している。そんな不都合な事実を告げる可能性を彩道は考えていた。
ともあれ、堰堤樹の状況を一分でも早く直接に把握し、一秒でも早く対処しなければならない事は変わらない。
二人は森林限界を脱し針葉樹が並ぶようになった林を素早く降りていった。虹幻術士は虹幻術を使いたがらない。自らの力ではなく、借りた力であるからだ。だが、今日は朝から様々な虹幻術を大量に使っていた。
数十メートルの崖から飛び降り、巨大なクレバスをいくつも飛び越えてきた。
「私も虹幻術が使えれば、もっと早く移動できるんですけどね」
左右を高速で木々が流れていく中、色葉が残念そうに言った。
「確かに、色葉の分まで俺が虹幻術を使う必要がなくなるが」
彩道はそこまでで言葉を区切ると後ろを走る色葉を脇に抱きかかえる。そして、色葉を抱かない方の腕に持った杖で地面を叩く。風のような早さと軽やかさで走っているので接地は一瞬だ。
そして、数歩分を大股で走りタイミングを整えると一気に両足で大きくジャンプした。
高さも浮遊感も怖さはもたらさなかった。高さは山上での景色で慣れ、浮遊感も今日だけで何回か分からないほど虹幻術によるジャンプで味わってきた。
だからこそ、色葉はそこにある巨大な樹木に目を奪われる。広大な緑に浮かび上がった大きなクリーム色。枯れ木にしか見えず、生命が未だ宿っているとは到底思えない代物、
「あれが・・・・・・」
彩道がうっすらと笑みを浮かべる。
「そう、巨大堰堤樹エキナレシル。緑の想念の結晶にして、大陸西方地域、数千万人の生活を陰から支える存在だ」
二人は空中で存分にその姿を目に収めるとちょうど降下が始まる。
再び森の中を駆けるが、様子の変化はすでに始まっていた。
「なんだか、森全体に元気がないですね」
色葉が率直な感想を述べる。木々や草花はどれも頭を垂れており、苔に覆われている部分も乾燥していることすら走りながらでも分かった。
「エキナレシルがなぜ堰堤樹と呼ばれているか分かるか?」
唐突に彩道は一つの質問を投げかけた。色葉は少し考えてから「堰堤、つまりダムのような役割をしている、ということでしょうか?」と答える。
「そうだ。のような、ではなくダムそのもの。谷間を単一の木で蓋をして、物理的に膨大な水を溜めているんだ」
色葉はその脳裏に情景を思い浮かべたが全く浮かんでこなかった。
「莫大な雪解け水を貯め、一年を通して安定的に大陸西方地域に清水を提供する役割を、たった一つの生き物が行っているというのですか?」
ただ、そこに浮かぶのは死にかけた一つの命の姿だけだった。
「そうだ。だが、ただの生き物ではない。神の力を七つ分けたうちの一つ、緑の要素に半ば融合した存在だ」
そう言われたからか、何か感じ取る器官が備わっているのか、少しずつ圧倒されるような気配が増しているような雰囲気を色葉は感じ取っていた。
「確かに師匠が虹幻術を使う時に感じる遙かさを何千倍にもしたような雰囲気があります。それになんだか包み込むような優しさもあるように思います」
そう、心と体の足りないところへ染み渡っていくような抱擁。
全てを委ね託し、生きていきたいとさえ思ってしまう圧倒的な母性。
「あれ・・・・・・なんか、涙が出てきてしまいました」
色葉は照れ隠しのように不思議がって笑いながら涙を拭いている。
「緑の要素は癒やしの力だ。あるべき自分へと導いてくれる。愛すらも、足りなければ授けてくれる」
彩道は悲しそうにそう言うと「最後のジャンプだ」と言って、再び大きな跳躍をした。
今度、下に広がるのは森ではない。薄灰色の荒涼とした大地。あまりの広さに遠近感を喪失してしまうが、相当な広さだろう。右に広がっているようだが、全貌は見えない。左を向くと例の巨大堰堤樹がそびえ立っていた。
確かに堰のように、堂々とそこに存在している。
堰堤部分の殆どは木の根になっているようであり、高級な織物のような綿密さになっている。
高さは色葉の人生において比較する対象がないほどであり、後に彩道に教わる公称値では500mに達するという話だった。
「俺じゃ力不足だろうが、愛だって師匠が弟子に伝える一つだからな。俺はそれを忘れないし、お前も忘れるな」
彩道は空中で色葉にそう言い聞かせるとゆっくりと着地し、二人は堰堤樹を目指して横並びで歩いていった。
今日この時、空中での言葉に色葉が「こちらこそ」と春の陽気のような微笑みで応答した、その五文字を彩道はいつまでも覚えていた。たとえ色葉自身が忘れてしまっても。
湖底に長く伸びていく二本の足跡は決して離れない。
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