1-4 巨大堰堤樹エキナレシル 序章4
「そういうものですか」
腑に落ちない様子なのは少し出始めた雲で様子が見えなくなってきているからだった。
「少し尾根の上を歩いて移動して、そこから降りるとしよう。いくら広いとはいえ左右は危険な崖だからな。さて偉大なる我らが祖国ともしばらくお別れとなるが、挨拶は済ませたか?」
「偉大なる、なんてとても思えませんが、僅かに思える幾つかにはちゃんと言えました」
小さな帽子の奥に現れた曇った表情を見た彩道は苦笑いすると積もった雪をかき分けて進み始めた。
山の天気は変わりやすい。これは良くなりやすいという意味ではもちろんなく、悪くなりやすいという意味だが何にせよ山の頂上に長く滞在する利点は無いのだった。
「雲、というより霧でしょうか?」
色葉が下を覗きながら言った。風の複雑な動きが煙のように広がる白のおかげで可視化されている。
その様子はまるで人には姿形が見えない山を巣にする龍が蠢いているかのようだった。
「雲と霧がどんなものか、色葉にはまだ説明してなかったな。キャンプに着いたら教えるから楽しみに待っててくれ」
「そう言われると気になってしょうがなくなります」
色葉が気楽な様子で反論する。
「教えるのは色葉なりの論を聞いてからだけどな」
眼下の魅力ある情景を眺めていた色葉だが、突如風向きが変わり蠢く白が色葉の方に駆け上ってくる。
本能的に一、二歩後ずさった色葉は反対側も崖である事を思い出し、慌てて姿勢を低くする。
「大丈夫か!」
彩道が振り向いていた。
カチン、という金属が触れる音で、右手の彩道とはザイルの綱に若干の緊張が掛かる程に離れてしまっていた事を理解する。
「少し手間取ってしまいました」
あと半歩で滑落していた事実を冷たい汗と共に受け入れつつ、実体の無い白に襲われながら色葉は彩道の元へ急いだ。
「なんともないか?」
頷くと彩道は色葉の頭を撫でて言った。
「ザイルで繋がっているとはいえ心配になる。あんまり遠くに行かないでくれな」
帽子で伝わらないはずだったが、彩道のその手はとても温かった。
下山路の入り口はすぐだった。確かに登ってきた時よりも遙かに、両手を使う必要もあまり無いくらいには穏やかな道だった。
「道は穏やかだが、積雪はあるし、岩場も濡れてるだろうから滑らないようにな」色葉は「はい」とだけ答える。
太陽をも白は隠してしまい、あれほど強かった日差しもすっかり影を潜めてしまっていた。
視界が十分に取れない中でも彩道はテンポ良く降りていった。決して速度が速い訳ではないのだが、迷うこと無く道や対応を選択することが有効に働いているのだった。
「すぐにキャンプに到着できそうだな」
彩道が仄かに見え始めた灯りを指さして言った。確かに朧気な光を確認する。
「結局岩場はありませんでしたね」
雪と岩、どちらでも安全に進むことは出来るが、境目では靴の履き替え(当時最新の登山装備はどんな靴でも底面を外から加えることで雪山対応できるものがあったが、二人の持つ旧式装備では履き替えが必要だった)が必要になってしまう。
テンポが良かったのは靴の履き替えが無かったという要因も大きかった。
「そりゃ尾根をわざわざ歩いたのはそのためでもあるからな。こんな寒い中で靴を悠長に履き替えてたら死んじゃうじゃないか」
そうだ、と色葉は思い出す。歩いた事で身体が温かくなって忘れていたがこの世界は気温がマイナス二桁に至る場所なのだ。
「失念していました。どうも身体が動くと火照ってここがどんな過酷な冷たい地獄か、ということを忘れてしまうようです」
「これから行くキャンプだって山は山。地上ほど安全な訳じゃ無いんだ、気をつけ・・・・・・」
彩道が言い終わる直前、風が吹いてキャンプの全体が露わになった。数十の大小様々なテントが規則正しく並んでいる。
「これがキャンプなんですね」
色葉は砂粒のような人々を見て嬉しそうに言った。
「そうだ。挨拶したら常駐する山岳警備兵の詰め所に行って入国手続きをする、それからテントを建てたらあとはのんびりできる」
山岳警備兵の詰め所、というのは中央で一際大きく目立っているテントの事だろう。
軍隊の諸々は目立たない事が最優先に塗装されるのだが、その詰め所はオレンジ色だった。
「詰め所って真ん中のテントですよね?」
色葉が指さして質問した。キャンプと二人の高度差はほとんど無かったがそのテントは高さもあるらしく相当に目立っていた。
「そうだが・・・・・・。あ、山岳警備兵って言っても従事しているのは練兵場も知らない山岳民族の若者達だからな。この国じゃ、官僚か軍人にしか給料が出せない規則で大体の仕事が軍人ってことになってるんだ」
彩道が色葉の次の質問にまで回答した。
「色々な国があるんですねぇ。規則がどうであれ、ちゃんとお給料払ってくれるだけ良心的な政治とも思いますが」
「政治が良心的なら規則を変えるだろうさ」
彩道はキャンプの入り口に立つ黄色地に黒色で巨大な一本の樹木の形が、影のように染められた旗を見ながら言った。詰め所のテントにも描かれていたので国旗だろうと色葉は予想する。
「何が良い政治かなんて人の数ほど正解があるけどな。少なくとも戦争をせず、どんな人も他国よりは虐げてない、そんな国だ」
色葉には難しかっただろうか、と彩道が振り返ると小さく頷いて考え込んでいる姿が見えた。
「お腹が減って寝れない子供が居ない国なら私は十分なんじゃ無いかなって思います」
色葉はそういうと左右に並ぶテント、そして幾人もの登山者を眺めながらザイルを外して駆けていった。
――・・・・・・まったく。子供なんだか大人なんだか分からんな。まぁ、手の掛かる子の方が師匠甲斐があるってもんか
そんな事を考えながら彩道は色葉が吸い込まれるように入っていったテントの中に入った。
中では日に焼けた肌の小柄な若者二人の前で色葉が書類とにらめっこしていた。
「私の名前って何でしたっけ?」
振り向きもせずに発せられた言葉に驚くのは哀れな警備兵の二人。
二人は音も無く入ってきていた彩道の出現に再度驚くことになる。
「名前は勝手に埋めてとくから、分かるやつだけ入れておいてくれ」
「んー、それだと住所不定無職なので年齢くらいですかね! それに、誕生日もわかんないな・・・・・・」
敵対国に入るわけでも無し、基本的に入国審査なんて存在しないのだがそれでも受理されるか心配になってきた彩道を余所に色葉は書き進めていく。
彩道も自筆を重ねて要求する黒縁の紙を埋める作業を始めた。
色葉が先程言ったように虹幻術士は基本的に住所不定無職、偽名となる。重なった疲労と、温かいテントで思考力がごっそり奪われる中、必死に記憶をたぐり寄せて二人分の書類を書き上げた彩道は注意事項を色葉に任せて早々にテントを後にした。
自分の名前も分からない少女に入国についての事項やしきたり、マナー、刑法を伝え、登山キャンプのイロハを教える警備兵二人は大変だろうが、それも仕事と思う。
それに兵士といっても民間人に近く、多くの国で子供は大切にされる。
キャンプの空いた場所にテントを設営して、火をおこして水を作る算段を整え、いざ雪山兎の解体を始めようか、という場面で色葉は帰ってきた。
どこかで貰ったらしいお菓子と分厚い書類の束を持っている。
「なんともなかったか?」
受け取った書類を焚き火に放り込みながら彩道が言った。
「はい。師匠が二人に虹幻術士って事を伝えてくれたおかげで舐められずに、話がすんなり通りました」
テントの中に頭を突っ込み、背嚢をごそごそしながら色葉が答えた。
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