1-3 巨大堰堤樹エキナレシル 序章3

 色葉が報告すると「そんだけ風が強かったってことだ。雪が降ってなかったというよりも、雪が積もらなかったんだな」と彩堂が答えた。


「なるほど。見たままに考察しすぎて居ました。立場が逆じゃなくて本当に良かったです」


 色葉は改めて山肌を見ながら言った。言われてみると硬い岩は風化が激しいように見える。それが風によるものであると思うと、自然が持つ年月がいかに偉大かを思い知らされる気分だった。


 彩堂は兎の両手両足を紐で縛って背嚢に括り付ける所だった。兎を覆う純粋無垢な漆喰の如き白さを見せるの毛皮は茶色の背嚢に乗せられることでより強調されて見たものに感動を呼び起こさせた。雪の白さに溶け込まないことで、これまでは分からなかった細かな様相が見て取れるようになっていたのだ。

 一方で色葉は死して背嚢に乗せられることで、初めて知覚できた美しさが存在することに不思議な感情を抱いていた。

 

 兎が固定できたのを確認すると彩堂は背嚢を背負い直す。この時、色葉はしまった、という表情を見せた。

 何処を向いていても前方から訪れる冷たい視線が目につく。その視線の主は兎だった。色葉も気にするまい、と思ってそっぽを向くが人間は視線を合わせたくなる習性でもあるのかどうしても引き寄せられてしまう。


 また厄介なことにこれから先、しばらくは何をするにしても先頭を彩堂、後方を色葉という位置関係は崩れない。つまり色葉はどうしたって兎の瞳が常に目の前にある状態に置かれるのだった。

 もちろん、視線が合ったから兎に同情して食べられなくなる、なんて事にはならなかったが、それでも美しく愛らしい丸い瞳は色葉に気まずさを覚えさせるのに十分だった。


 普通の狩りならば腐敗を防ぐために干すなり塩漬けなりして即座に解体してしまうのだが、雪山とあっては落ち着いて安全が確保できる場所でしても十分に間に合う。その合理的な決断が色葉を苦しめていた。


「師匠」


 色葉が耐えかねて彩堂に話しかけた。深刻そうな呼び声と裏腹に「ん? どうした」と気の抜けたような回答。


「兎と、目が、合ってます・・・・・・」


 一拍おいてから色葉は正直に報告した。

 言うほどの問題か、言ったことによる面倒は許容できるものか、そんな自問が一拍の間に繰り返される。


 だが、時間毎に生じる障害の場合、当然早期に対応することが障害の総量を減らすことになる、そんな理論を展開して反論するもう一人の自分を黙らせる。なにより心理的な障害は思考の余力を食いつくし、判断力を低下させる。


「そういえば目隠しするのを忘れてたな」


 彩道はそう言うと立ち止まり、背嚢の脇に取り付けられているポケットを探る。それから取り出した袋を色葉に手渡した。


「兎の頭をこの袋に入れて口を縛れば目が合わなくて済むだろう」


「はい、すっぽり入りました」


 使った袋は簡素なもので、紐を引くと口が締まるといった機能は無かった。色葉は今度は自分の持っていたロープで首を結びつけた。


「今度は拉致しているみたいな感じになっちゃいましたね」


 色葉が兎の様子をそう形容する。


「俺からは見れないのが残念だが、気分は楽になったか?」彩道の心配に「はい、面倒を掛けてすみません」と応答する。


 そして二人は再び歩き出した。といっても残された傾斜部分は僅かで、これより先は“登る”に近い。

 強風で風化が進み脆くなっている事を忘れないようにしながら二人は落ち着いて迅速に登っていった。


「ここが尾根か。それにしても随分な高さだ。最後だからこそ気を引き締めてな」


 しばらく経って先行していた彩道が振り向きざまに色葉に声を掛ける。

 黙々と登っていた色葉は、予期せず発せられた彩道の言葉すら満足に処理できていなかったが、最後という単語だけはしっかりと耳に留めていた。

 その二文字を糧に短い手足を精一杯に伸ばし、息を荒くしながら一歩一歩登っていく。背中の背嚢は今にも崖から色葉を引き剥がそうとしているかのようであり、風化した崖は色葉の小さな手で掴んだだけで割れてしまいそうな岩が集まって出来ていた。


「上に登ると急に風が強くなるからな」


 色葉が尾根の最先端部分に手を掛けると同時に彩道が言った。確かに手の先端に強い圧力を感じる。


「はい、油断しないようにします」


 色葉はそう言いながら、登り切る為に全身の力を振り絞って力を両手に力を集中させた。


 その尾根は半島を横断する山脈の一部分だった。もっと南には四千メートル級の山々が連なり、北には夏場の数週間しか開かれないと口伝される地獄が存在している。

 また、山脈は大陸と半島を分断し東西の気候を全く異なるものとしていた。更に複数の国家の境として、軍事侵攻では移動させられない安定的な境界線として両地域に住む膨大な数の人々に平和と安心をもたらしていた。


 色葉はそんな幾つもの物語や価値、役割を持つ山脈の上を彩道と二人で占有できていることをとても価値あることだと考えていた。


「よいしょっ」


 荒い息を縫うようにして声を出しながら登り切る。そして登ってきた部分から数歩四つん這いのまま進んだ後に立ち上がった。


「っ・・・・・・!」


 思わず息をのむ。太陽が出てきた時の感動など比にもならない。

 眼前には大陸西方地域の全てが見て取れた。


 地平線にぽっかりと浮かぶ棒のような物はさる帝国が造営していると言われている塔上都市ロクスアルカ、少し右に寄った所にある巨大な渓谷の何処かには零光水晶街ルナクリプタ、水しぶきがここからでも視認できる荒立つ湖の中央には同心瀑布城ブレンスレイク、それらより少し近づいた赤き大地には広域火口盆地ペルロリアーノ、これらのある大陸西方地域と大陸南方地域を分断する巨大な裂け目は地殻岩盤墓場オドムニク、近い所では山脈終端部分にある星数風車海岸ズウェルスハーフがあった。

 

 そして。

 

「そして、巨大堰堤樹エキナレシル」

 色葉がゆっくりとその名前を呼んだ。


「よし、やっと七つ揃ったな」


 うっかり心中の声が漏れていた事に驚いた色葉をゴーグル越しに楽しみながら彩道は言葉を続ける。


「どうだこの光景。虹幻術の元、自然の要素は常にこんな視界で俺たち人間と共存、俺たちを庇護してるんだ。宇宙と比べれば人間なんてちっぽけとはよく言われるが、そんなものと比べなくたって人間はちっぽけだな」


 近くの岩に腰掛けつつ目を細めながら彩道が言った。


「ええ、とても遙かです。この大地は人の手にあると思っていましたがそうではないようです。大地はやはり自然のもの。ならば自然と手を組むのみですね」


 色葉が笑みをこぼしながら言った。


「だな。虹幻術を通して自然と人が手を組み、その庇護下において貰う。人の手では為しえぬ業をな」


 二人はしばらく無言だった。


 幾つか分針が回る頃、彩道は静かに立ち上がると、登ってきた方とは反対の崖を観察し始める。登ってきた方、半島の様子を眺めていた色葉も雪を踏む音で振り向く。


「降りれそうな所はありますか?」


 色葉が聞いた。


「もちろん。そもそもこっち側から登るのが登山の正規ルートだからな。登りに比べれば施設もルートも沢山ある」


 彩道が答えるが、色葉は半信半疑だった。

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