1-2 巨大堰堤樹エキナレシル 序章2
それを聞いて彩堂は毛皮のマントをずらし、腰に差していた杖を取り出した。その動きで彩堂に積もっていた雪が少し崩れる。
太陽の出現まではもう数分と無いはずだ。
彩堂は特に集中している様子でない。ただ、冷静に目を瞑って獲物を見ている。殺意を消すのは狩猟の基本らしいことは色葉が経験的に知っていた。極めて冷静に事を一つ一つ為していくことが成功に繋がる。
色葉も彩堂に倣って緊張と動揺を押さえつけ、高鳴る心臓を落ち着かせながら冷静さを心がけて観測を続けていた。
色葉がふと山の下を見ると麓は明るく、すさまじい速度で光がその領土を拡大している様子が見て取れた。
長い闇を知っているからこそ光は、特別な神性を伴っているように感じられた――自然はつまり分割された神の力そのものという考えが虹幻術と虹幻術士の基本思想なのだがそれはまた別の話である。
神性は山を駆け上り、ついに色葉、彩堂、そして遠くの雪山兎を照らした。
それは斜面に降り積もる雪に反射して、純白のシルクにダイヤモンドを散らしたような光景を一瞬にして形作る。まさに長い闇を耐え抜いた者へ神から贈られた天慶の如き御業に色葉はただ圧倒されていた。
「赤の矢」
横から短く呟かれた声が聞こえる。
獲物に対し杖を両手で横向きに持った彩堂は太陽に狩りの成否、全てを託すように微笑んだ。
直後に杖の横から十数センチ離れた所に煌々と光る赤色の輪ができる。
輪は周囲の光を吸収して中央に集中させていた。光はまるで液体のようにその輪に吸い寄せられていく。最早小さな太陽とも言えるほど明るくなった輪は高速で回転していた。また相応に熱いらしく、周辺の雪が独りでに融解してきている。
まもなく輪の中央部には四〇センチ程度の矢が生まれた。明らかにこの世ではない力、存在だった。
この間六秒。直後、矢はすさまじい速度で打ち出される。空に残る雪をいくつも溶かしながら空を裂き進む矢は、吸い込まれるように雪山兎の脳天を穿いた。
距離が離れているため、何の音もしない。
恐怖の中で殺めることにならなくて良かった、内心ほっとしながら色葉は兎が斜面を落ちていかないか観測を続けた。
兎の周囲に紅蓮の花が育っていく。純白の大地に浮かぶその花は直前まで盛んに生きていた命の輝きを象徴する存在だった。
「的中を確認しました。兎は被狩猟地点から移動していません」
観測結果を簡潔に報告した。楽しまず喜ばず悲しまず傲らず、報告に関しては彩堂から教わった四原則を忠実に守る。これで今日も命を繋げる、あるのはこの事実だけだった。
一呼吸間を置いて彩堂は杖を腰に差し戻す。
「じゃあ回収に行くか。疲れは無いか?」
彩堂が体を揺らして雪を落としてから立ち上がった。その後、肩などに積もった雪も手で払い落とす。
疲れとは昨日の半ば走るような登山か、早朝からの狩猟に伴う観測行為か、どちらだろうかと色葉は考えながらも
「ありません、それより私の荷物をあらかた持っていた師匠こそ疲れているのではありませんか?」と返した。
「はは、人に心配されてし返すとは立派だな。もちろん心配には及ばん。というかお前はまだ十三。しかも女子だ。数十キロの山道を一日中歩いたんだし疲れたと言っても誰も責めないよ」
それを聞いた色葉はゆっくりと背中に積もった雪を払い落としてから立ち上がった。早朝の狩猟も十分に疲れたのだが、それではなかったらしい。
「思っていたより体が重いですね。朝この地点に来たときはそれほどでもなかったんですが。ですが背嚢は持てる所までは持って行きます。自分の仕事なので」
立ち上がった後、そう言っていくつかの補給不可な必需品を詰め込んだ背嚢を背負う。いつもは重いながらも不都合は特に無い程度の背嚢が今日は一段と重く感じられた。
「お前は強情だからな。どうしても無理そうならすぐに言うんだぞ。色葉の背嚢くらいなら俺が追加で持っても誤差の範囲だから心配はいらん」
彩堂が色葉の背嚢に手を伸ばして形を整えつつ、安全装備の状態が正確になっているか確認しながら言った。
「強情、ですか。やると決めたことを可能な限りでしているだけなんですけどね。疲れなら山を越えてすぐにあるキャンプで一日過ごすならそこで回復できますし」
そうは言いつつも、色葉の小さな体では必死に足に力を入れていないと今にも倒れそうな状態だった。ましてや全身疲労である。辛さはいつもと比べものにならない。更に眼下は急斜面。踏み外せば命を山に渡すことに繋がる。
だがそれでも色葉にとって誰かを頼る事はなるべく避けたい行為だった。頼る事は期待すること、期待することは裏切られるかも知れないということ。裏切られるくらいなら頼らない、たとえ師匠であっても。
弟子の疲れを承知している彩堂は万が一に備えて自分とを繋ぐ綱を引っ張り強度を確認する。それはザイルと呼ばれる命綱であり、片方が滑落したときにもう片方が対応すれば助けられる可能性があるというものだった。もちろん失敗すれば両者滑落する。
他人を頼れないなど精神的に不安定で、体力も拙い。そんな幼い色葉を山に連れ込む代わりに彩堂はザイルをしていた。彩堂が滑落すれば外れるようになっている一方的なザイル、それは彩堂なりの責任の取り方だった。
可能な限りで色葉の意思を尊重するのも責任を取る方法の一つであった。
「ゆっくりでいい、行くぞ」
そう言って彩堂は歩き始めた。同じ足跡を色葉も辿る。だが実際は歩くと言うより四つん這いに近かった。降り積もった雪質はかんじきを履いていても沈み込んでしまうようなものだったからだ。
所々にある垂直に近いような場所では、壁を伝うようにして二人は雪山兎が居た地点に少しずつ向かっていった。
何人も立ち入らない天上の残酷な世界にはただ二人の息遣いだけが響いていた。
空から見れば一直線になったであろう、二人の足跡は誰にも消される事無く残り続けている。
それから十数分後、二人は雪山兎の元へたどり着いていた。近くで見ると改めてその大きさを実感する。牛ほども無いが、それでも兎とは思えない存在感を死してなお放っていた。
「それじゃあ、俺は血抜きをしてるから色葉はルートを考えておいてくれ」
彩堂はそう言うと兎の冷たい首筋に胸元からナイフを取り出したナイフを滑り込ませて慣れた動作でその行いをしていった。
「こんな環境じゃなかったら血までちゃんと使えたんだがな・・・・・・」
彩堂がふと呟く。血は雪を溶かしながら斜面に従って下に垂れていく。兎の下に咲く花から伸びていく血はさながらに涙、あるいは兎が今日も送るはずだった現世での厳しくも美しい穏やかな生活への未練のようにも感じられた。
「この血だってちゃんと自然は有効活用します。山岳信仰という視点から言えば供物、みたいなものじゃないですか?」
色葉が単眼鏡を取り出しながら言った。
「そうかも知れないな。供物、いい考え方だ」
彩堂が意味有りげに頷くと色葉は嬉しそうに手元の筒を覗き始めた。
雪山兎の血で作る料理の味を惜しんでの発言だった、と彩堂は言えない。
「見た感じは自然なラインに沿って行けそうです。こっち側は雪の影響が少ないんですね。山肌が露出した部分すらあります」
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