【未完】見習い虹幻術士、七瀬色葉の旅路
天波匠
1-1 巨大堰堤樹エキナレシル 序章
山は平等だ。
少女はそう思った。金持ちも貧乏も、人間も獣も、今も昔も、立ち入った者に対し病的なまでの公平さで死を迫る。
山は平等に全ての命へ死を迫る。
とはいえ季節と天候といった事柄を前にしては流石に公平な殺害を続ける事は難しいらしく、それなりに態度を変化させる。つまり夏は比較的優しく、冬はその反対。晴天は天国、荒天は地獄。変化すらも、山は分かりやすくなっている。
冬の荒天は最悪、という意味だ。
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少女は厚手の革手袋をはめたまま顔の前でグーとパーを何回かした。そして感覚がしっかりとある事に安心して手を再び懐にしまう。重度の凍傷について僅かでも見聞きした、あるいは知識を持っている者ならば少女がしきりにそれを確認するのも分かることだろう。
少女が今居るこの山は最大瞬間風速三〇メートル、気温マイナス二四度の荒天。季節は冬。
紛うこと無き正真正銘の地獄だった。
少女は生命に備わった根源的な知覚器官で、山の猛烈な殺意を感じていた。
飛び交う雪は、余りの寒さに雪同士が結合しないため砂粒のように小さかった。よって大地に触れても風に吹かれれば軽やかに空へ舞い戻る。それは一部のスキー愛好家からパウダースノウと呼ばれ重宝される雪質と類似していた。
少女は大人びていたがまだ科学的根拠や論理的思考より、安心感を優先して行動する程度には幼い。体には毛皮と幾重にも重ね着した毛織物を纏っていたが、顔などの空気に触れる部分から侵入した冷たい風は容赦なく体温を奪っていった。ただでさえそんな状況であるのに頻繁に手を出し入れしていては、凍傷より先に低体温症になりそうなものだった。
追い詰められた精神は凍傷の危険性を強調して認識させその行動を促していた。
「夜明けまでもう少しだな、色葉」
隣の雪溜まりが突然しゃべった。ごうごうという風音が響く中でも確かに聞こえる低い男の声。
「何十分も前からもう少し、もう少し、もう少し。師匠はそれだけを繰り返しています」
色葉と呼ばれた少女、七瀬色葉は呆れと抗議が入り交じった口調で反応した。大声で反応したのは風音に対抗するためであり、子供騙しを言われるような不快感があったためだった。
「すまない、そうだったな。だが、夜明けはもうすぐだ。じきに風向きが変わり雪が止み、風は太陽の暖かさを運んでくれるようになる。そして太陽が出れば・・・・・・」
師匠と呼ばれた男、彩堂勇治が体勢を変えながら言った。少し動かす度にパリパリという音が出る。それは毛皮に付着した氷の音だった。漏れ出た体温で溶けた雪が氷点下の風で瞬時に再凍結したことで氷のコーティングのようになってしまうのだ。
「兎を狩れる」
色葉が呟いた。山という地上界に存在する数少ない極限の場所にあっては狩りは道楽や食材の選択肢の一つではなく、生存のために選ばざるを得ないことだった。二人のような登山をする場合は特にそうだ。
登山とは文字通り山を登る、つまり頂上に至る事を目的とする行為が一般的な認識である。
だが二人は山脈を跨ぐために登山をしていた。前後千キロに及ぶ山脈を迂回するためには複数の国境を跨ぐか、荒れる北方の海を渡る他ない。どちらも時間が掛かる移動選択肢だった。時間が惜しければ二人のように山越えをするしかなかった。つまり二人は最短最速のルートとして冬登山を選んだのだ。
その点で一般的な登山とは何もかもが異なっていた。準備期間は数日、常に駆け足で、荷物は最低限しか持ってきていない。
標高三千メートル級の山々を越えるには余りに貧弱な装備だった。
「山越えとはいえ二人分の兎肉も持てなかったんですか?」
色葉が疑問を口にした。早さを求める山越えに重装備は禁物だが、こうしてのんびり狩りをする時間の方がもったいなく感じたのだ。
「お守りみたいなものだ」
彩堂が優しく答えた。
「獲物を自分の命に見立て、山より先にそれを殺すことで身代わりになって貰う。私たち虹幻術士は特定の宗教を持たないが、たまには山岳信仰に影響されるのも悪くないだろ」
彩堂はそう言って微笑むと目を閉じた。
もう少し聞きたいことがあった色葉だが、そんな彩堂を見て話しかけるのを辞め、自分の仕事に集中することにした。
「そういうものですか・・・・・・」
うっかりと漏らしたその言葉が会話の最後となった。
しばらくして暗闇の奥で動く存在が見えた気がした。彩堂の言葉は予言のように現実になりつつあった。風は少しずつ弱まりつつあり、空は漆黒から藍色、稜線付近では朱色にすらなりつつあった。天を衝く最高点の山が東になければもっと鮮やかだっただろう、などと考えつつ色葉はじっと一点を見つめていた。
懐から単眼鏡を取り出して注意深く観察する。
拡大して見てみるとそれは雪山兎の成体だった。兎にしては大きな体、筋肉質の足、短い耳。覚えたての特徴が脳裏に次々と浮かんでくる。間違いなく目的の兎だ。
とはいえ兎を狩るのはもう少し先だろう、と予想を付ける。虹幻術士は虹幻術で狩りをする。そのためには太陽を待たなければならなかった。
何でも自分の力で行ってしまう魔術と異なり、虹幻術は自然の力に依存して行う。自然がある限り虹幻術は魔術にも勝る威力と精緻さそして無尽蔵さで力を行使できるが、無ければ何も起こせない。故にこうして待つことが頻繁に起こる。いわゆる『自然待ち』をして目的の虹幻術に最適な条件が整うのを待つのだ。
実際、二人は狩りに最適な虹幻術は太陽の力に依存することから待ち続けていた。
気がつけば空はすっかり明るくなり始めていた。
二人が夜明けを待つように雪山兎もじっとしていた。雪山兎は夜間は高高度の急斜面に居て外敵から身を守り昼間は下に降りていき食事をする生態、色葉は彩堂から教わったことを性格に思い出していった。それから寝ているのだろうか、などと微動だにしない雪山兎を見ながら思いを巡らして時間を消費した。
あと一時間もしないうちに単眼鏡の中に映る小さな命は私の肉となるためにこの世から消滅する、色葉は自然界における優位性を離さない支配的高等知性種族<にんげん>特有の感情に気がつくことなく浮かんできた感情に極めて従順に哀れんでいた。
彩堂は相変わらず目を瞑ったままだ。だが、寝ている訳ではなかった。耳と肌、あるいは匂いで自然を敏感に感じ取ってこれからを予知しているのだ。
この自然の予知能力は虹幻術士に欠かせない力だった。もちろんいずれは色葉も持たなければならない。
実際に先程の彩堂の予測は現実となっている。
「どうすればこんな風に自然から予想できるようになるんですか? なんて聞きたそうな雰囲気だな」
彩堂が目を閉じた自身をじっと見ていた色葉の心中を的中させる。
「聞いていいなら、ですね」
色葉が動揺を隠すように言った。
自然の予知が出来て、人間の心理が分からない訳がない、色葉はそんなことを考えていた。看破される事が確定した状況でつく嘘はかえって心地がよいものだと実感する。
「自分の五感に頼らないことだ。色葉はまだ若いから沢山のことが感じ取れている。若い内は酸いも甘いも汚いも綺麗も味わった方がいいが、大人になると味わいすぎて感覚が鈍ってくる。そのときやっと五感に頼らずに感じることが出来るようになる」
雪と風が落ち着き、冬の朝特有の澄んだ空気を彩堂の声が独特の気配を伴って響かせる。
その説明は具体的だったが実感はなかった。だが噛み砕いて理解するのは色葉の仕事だ。彩堂から聞いた極意やコツといった類いは大抵が理解し難いものだった。多くは理解できないまま忘れるか、地力で解決できてしまう。
それでも小さな抵抗とばかりに顎に手を当てて考え込んでいる色葉を見て「大人になっても頼っちゃう大人ばかりだけどな」と彩堂は付け足した。
色葉が考えている間に周囲は朝のように明るくなっていた。太陽が直接顔を出すのももう少しだろう。
例の兎は相変わらずじっとしている。何回か動くことはあったが、寝返り程度でしかなかった。
「向こう側の斜面、大きな岩がある辺りから右に三〇メートル、上に二〇メートルの所。雪山兎の成体で単独。兎の下、四〇メートルの所に岩があるので転げ落ちても回収可能です」
色葉が手早く報告した。彩堂も別に捕らえているはずだったが、光学的に観測した結果である色葉からの報告を聞いて再確認する。
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