★セロリと春菊
単身赴任している父が帰省した。なにも急に決まったことではない。季節の変わり目には、必ずといっていいほど田舎に戻ってくる。滞在する二日間、近所への土産物配りやら墓参りをジェットコースターのように行い、二日目の夕方には母特製のすきやきに舌つづみを打つ。そうして英気を養うと、午後八時発の電車に乗って都内に帰るのだ。
私と兄と弟は、バスで片道五十分かけてスーパーに行き、買い物をしてきた。お菓子などには一切目もくれず、頼まれてきたものがきちんとカゴに入っているか何度も確かめてからレジを通してきたのである。それなのに――。
母は困ったように手を口元に当て、声をささやきにまで落としてつぶやいた。
「何度見てもないわね、春菊」
「ああ、ない」と、兄。
私と弟は、ただひたすら黙り込んでいた。身に覚えがまったくないならともかく、途中でけんかして袋を引き倒した事実があり、そのときに落とした可能性を否定できないからだ。
しかし兄はそのことをひとことも語らずに、「いまから買ってこようか」と、もはやそれしか解決方法はあるまいという調子で母に問いかけた。「裏で畑をやってる佐藤さんのところでも春菊はないと思うし、あったとしてもきっとタダで譲ってはくれないよ」
佐藤さんは一人暮らしのおじいさんである。広大な畑を管理しているのだが、耕して肥料をまいているのは山ひとつ向こうに住んでいる息子さんで、水は自動水やり機が天候を感知して適切な水量を施している。そこで採れた野菜は自分で食べるか、車で一時間先の直売所に卸しているそうだ。噂では、息子さんにさえ大根一本も渡さないという強欲ぶりらしい。
兄の言うことはもっともだろうし、だいいちいったいどうやって切り出すのだ。赤の他人がわずかばかりの春菊を所望したところで軽くあしらわれるに決まっている。場合によっては、一生、嫌味を言われかねない。佐藤のおじいさんに頼るという選択肢は、母の無言の視線アピールで幻のまま消えた。
となると、「ふたたび買い物に行く」という原点に立ち返るしかない。私たちきょうだいの視線がいっせいに母へと向けられる。顔色はもはや紙のように白くなっていた。母は青ざめた唇でわななきながらつぶやいた。
「無理よ。時間が足りないわ。お兄ちゃんもわかってて言っているんでしょう?」
兄は腕組みをして天を仰いだ。きっと彼は脳内でこう考えているのだろう。ばかな妹たちのせいで非常事態に陥ってしまった自分はなんて不幸なのだろうと。
だがそれは私の勝手な思い込みだった。兄は真剣な表情で右手をちょいと挙げて言い募った。
「俺たちのなかで、実は黙っていたけど超能力が使えるっていうひとは?」
真っ先に甲高い声で笑いながら否定したのは弟である。
「そんなことできるわけねーじゃん。バッカじゃね?」
あっけに取られていた私だったが、場の空気が最悪な状態にあることを察し、あわてて弟がこれ以上暴走しないよういさめた。
兄はと見ると、彼はまた寝言みたいなことをのたまった。
「目的地までひとっ飛びできるとか、鍋のなかに春菊出せるとかさあ! ハハハハハ!」
私は忘れていた、兄が許容量の低い男だということを。おそらくとっくに限界値を超え、思考は現実逃避に傾いていたのだ。もう彼からまともな提案は得られそうにない。私たちは丁重に彼を別室に移し、ふたたび台所に集合した。
「現実的に考えてさ、ないものはないんだから、お父さんに話してあきらめてもらったらいいんじゃない?」
そう切り出すのは、きっかけを作り出したかもしれない張本人の一人、弟である。
母は真っ先に首を横に振った。沈黙を保ったままなのは、もはや言葉にしなくてもわかるだろうと言いたいのだ。
父は無駄な時間の使い方と習慣が狂うことに関し、融通の効かない人間だ。つまるところ私たちがここまで深刻にならざるを得ないのは、父が春菊のないすきやきを許さないに決まっているからなのだ。それでも弟はあくまでも前向きだった。
「春菊がないなら、代わりになりそうな青菜をいれればいいんじゃないの?」
「似たようなものを探すってことだね。お姉ちゃんも協力する」
私は焦りを覚えながら弟と野菜室の物色を始めた。
なかにあるのは、きょう買ってきたしいたけ、まいたけ、えのきの三種のきのこ盛、ネギ、白菜、にんじん、数日前に母が仕入れてきたほうれんそう、トマト、きゅうり、使いかけのたまねぎ、セロリだった。このなかで使えそうなものは唯一、ほうれんそうだが。
「パンチがないよね」と、私が言うと、後ろで見守っていた母が絶望的なため息をもらした。
「そうね。確かに」
「春菊は香菜だもんね」
すかさず得意げに同調した弟の頭を小突こうとしたが、彼がいつになく弱気になっていることに気づき、一度は振り上げた拳を下げた。
私がしっかりしなくては――。そう思うのだが、最善の問題解決方法が見いだせない。そもそも初めから私たちは負け戦を強いられていたようなものだった。ここにいる家族の誰もがこう考えているからだ。春菊のないすきやきなどありえない、と。
沈黙が辺りを包んでから、どれくらいの時間が過ぎ去っただろう。急に台所の灯がともされたかと思うと、扉の前には父が立っていた。私たちは幽霊でも見たかのような悲鳴を上げ、台所の隅に走り寄った。父は怪訝な表情で言った。
「いるなら電気をつければいいのに。みんな具合が悪いのか? お兄ちゃんは向こうの暗い部屋に一人でいるし」
「いいえ、大丈夫。心配ないわ」
母が急いで取り繕うが、いまにも倒れそうにその足元はふらついていた。私は思った。私たちはまるで新種のウイルスに感染してしまったみたいだ、と。実際、そうなのかもしれない。出かけていた父を除く家族全員がこんなにも動揺してうろたえ一言も話せなくなるなんて、尋常じゃない。いつも会話が途絶えたことなどないのに。
父は重苦しい空気を敏感に感じ取ったのか、腕まくりして口をひらいた。
「それじゃあきょうは、お父さんがすきやきを用意しようかな」
「いえ、お父さん、それだけは」
母が断るが、言いだしたらきかない父を止めることなど不可能で、気づけば私たちは、ダイニングテーブルを囲んで座らされていた。テーブルの上にはカセットコンロと鉄鍋が用意されている。父がせっせと準備したのだ。
「まずは肉を焼いて、と。お、なかなか質のいいお買い得なものを選んできたな。よくやったぞ、お兄ちゃん」
父が手放しに兄を褒めると、まんざらでもなさそうにほほえんだ。だが次の瞬間、彼は驚愕の声を上げた。
「お父さん、それは?」
伏し目がちでいた母、弟、私の三人もつられて兄の視線の先へと目を向けた。鉄鍋にいままさに投入されたのは、二度見必至のセロリだった。手頃なサイズに刻まれているとはいえ、最も候補外にあった野菜が登場してしまったのである。言葉を失う私たちに向かい、父はにこりと笑って言った。
「春菊がないなら、セロリをいれればいいじゃない」
まもなく全員が救済され、家族には笑顔が取り戻された。
以来、我が家では、すきやきにセロリを入れるのが定番になった。
END
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