☆俺の先祖には徳がない

 学校から帰ったら、親父と母ちゃんの怒鳴り合う声が外まで聞こえていた。だからどんなに寒かろうと腹が減っていようと、帰りたくないんだ。俺は竹刀袋を背負い直し、そっと玄関の鍵をかけ直す。公園に行って素振りでもしようなどと考えていたら、後ろから声をかけられた。振り向くと、やけにこうこうと明るい街灯の下、叔母が立っていた。叔母はこちらに近づきながら言った。


「また喧嘩してるの? ほんと、どうしようもないわね。海斗がかわいそう」


「俺のことはどうでもいいんですよ」


 投げやりに答えると、叔母は複雑な表情をして、俺に手土産を押し付けた。


「子供にそんなこと言わせる家庭なんて終わってるわ」


 コンビニの袋から漂うのは肉まんの匂い。忘れようとしていた空腹を刺激され、腹の虫がうるさくわめく。俺がそちらに気を取られているあいだに、叔母はインターフォンを押していた。だが家のなかからは口論しか聞こえてこない。客人が来たことに気づかないほど没頭できるなにかがあるなんてよほど忙しいんだなと俺は胸のなかで皮肉をこぼし、玄関の鍵を開ける。


「いつもごちそうさまです。どうぞ」


「ありがと」


 叔母は疲れたような笑みをこぼして家に入った。


 リビングではバトルの真っ最中だったが、俺と叔母の姿を認めるとさすがにばつが悪くなったのか、気まずそうに休戦した。


 母ちゃんはほつれた髪を撫でつけながら叔母に言った。


「お義姉さん、お茶淹れますがなにがよろしいですか?」


「いらないわ。家で晩酌するから」


 間髪入れずにそう答えた叔母は、おもむろに切り出した。


「今日あたしはね、二人に提案があって来たの。さっさと終わらせて帰りたいから、椅子に座ってちょうだい」


 有無を言わせぬ強気な物言いに、親父と母ちゃんは背筋を伸ばし、ロボットのようにソファに座った。いっそのこと、四六時中、叔母がうちの両親を見張っていてくれないだろうかと一瞬だけ思う。


 部屋にこもろうとしたら、叔母に呼び止められた。結局、俺も同席しなくてはいけないらしい。面倒になりながらなんとなくダイニングテーブルの椅子に腰かけると、叔母は待ってましたとばかりに口を開いた。


「あたしはね、この家に起きている災難の源を知りたいの。明日の十時に予約したから、三人でお話を伺ってきなさい」


 鳩が豆鉄砲をくらったようなまぬけな顔で親父が問う。


「予約ってなんの?」


「有名な霊能者、金太郎さんのところよ」


「き、金太郎……」


 不審感たっぷりに親父が言葉を詰まらせても、叔母は構わず話を続けた。


「とにかく当たると評判の占い師さんなのよ。いままでの解決実績は百%、お客様満足度は九十五%なんですって。というわけで予約時に相談内容をメールしたし、地図を持ってきたからよろしく」


「そんなこと頼んでないよ、姉さん」と、親父が気弱に突っ込んだが、それよりも俺は、霊能者だか占い師だかはっきりしない金太郎さんの本来の職業と、結果に満足いかなかった残り五%の人々の行く末のほうが気になる。


 母ちゃんは酸欠の金魚のように口をパクパク動かしているだけだ。すっかり度肝を抜かれてしまったのだろう。お気の毒に。


 叔母は、「頼まれるのを待ってたら、あたしはこの家が幸せで満たされるのを見ずに死んでしまうわ」と、どこかの宗教家のようなもっともらしい口調で述べ、さっさと腰を上げた。親父の静止を振り切って玄関まで小走りし、外に逃げてしまう。捕まえて話をつけるつもりなのか、親父まで薄着で追いかけていった。本当に忙しい人たちだ。


 母ちゃんは半笑いしながら俺の夕飯をレンジであたため始める。


「霊能者兼占い師の金太郎さんですって。お母さん、頭痛くなってきた」


 他人事だと思っているからだろう、俺はそこまで動じていない。


「早く寝たら?」


「うん、そうする」


 俺は差し出された飯碗を抱え、一応、母ちゃんに訊ねた。


「明日はどうするの?」


「行かなきゃまずいでしょう。なにしろあの方のおっしゃることは絶対ですから」


「そうだね。わかった」


 もし離婚したらどうなるのだろうか。俺は頭のなかを空白にして、余計なことを考えないようにつとめた。


 翌朝、俺と親父と母ちゃんは寡黙に朝食を済ませ、指定されていた地図を元に車で出かけて行った。


 隣町の田んぼ道をひたすら走り、たどり着いたのは、小さな集落の一角にある茅葺き屋根の民家だった。


 風が吹けばたちまち吹き飛ばされてしまいそうな古屋である。親父はおそるおそるそこだけ妙に近代的なチャイムを押した。


 まもなくして現れたのは、長い黒髪を後ろで束ねた袴姿の少女だった。少女は楚々と礼をしてから言った。


「宮島様ですね。お待ちしておりました。待合室へどうぞ」


「はい、わかりました」と、上ずった声で親父が答えている。見た目以上に緊張しているらしい。俺たちは蛇のように細長くて奥行のある土間を歩いていった。


 やがて開けたかと思うと、そこは、どこか山奥の診療所の待合室のような場所になっていた。


 先に相談を終えたらしき中年の夫婦が、こんな会話をしている。


「大丈夫ですよ。きっと奥様から娘さんを取り戻せますから」


「そうですよね、金太郎先生もおっしゃってましたし、希望が見えてきました」


「次は絶対、勝ちにいきましょう」


「はい、先生」


 どうやら夫婦ではなかったようだ。離婚裁判で元妻相手に、娘の親権をめぐって争っている中年男、そして、弁護士の女といった関係だろうか。それにしてもこの中年男は、どれだけいろんな「先生」を頼らずにいられないのだろう。なんだか滑稽だ。


 しばらく聞き耳を立てていたかったが、名前を呼ばれ、俺たちはいよいよ金太郎先生の顔を拝むことになってしまった。


 たてつけの悪い引き戸を苦労して開け、親父、母ちゃん、俺の順で入室する。なかは薄暗く、灯りは壁のそこらじゅうに据え付けられたろうそくだけだった。部屋は無駄に広い。その真ん中にポツンと、黒いフードをかぶった中年の女が座っていて、こちらをじっと見つめていた。他に人はいない。おそらくこの女が金太郎なのだ。それにしても神経質そうな細い目だと思った次の瞬間、金太郎がおもむろに口を開いた。


「元凶はあんただよ、長男の海斗」


 親父が間抜けな声をもらすが、金太郎は無視して、出会って数秒の俺たち家族を鑑定した。


「あんた方の家には鬼が住み着いている。代々の呪いが長子に降りかかるよう仕向けられているのだ。結婚すると、その親の子へと自動で引き継がれる。宮島家の長男は、みなそろって女難の卦に見舞われているはずだ。もしくははなから相手にされないか。この呪いから逃れたくば、あたしがこれから出す処方箋を実践するのだ。それですべてが解決するであろう。以上だ」


「あ、あの~、以上と言われましても……、この後どうしたらいいのですか?」


 親父が情けない声で問いかけるが、金太郎は電気が取れなくなった家電のように押し黙り、まぶたを固く閉じて瞑想に入ってしまった。もうわけがわからない。


 まだ目の前にある椅子にさえ腰掛けていない俺たちは、すっかり困ってしまい、その場に立ちすくんでいたが、なかに入ってきた袴姿の少女に、「ご苦労さまでした」と促され、ようやく事態を理解した。俺たちは一応、「ありがとうございました」と口々に告げ、待合室へと避難した。


 中年男と弁護士先生の姿は既になく、代わりに、同年代の女子とその親がうつむいて座っている。いったいなにがあったのかは知らないが、なぜたまたま目が合っただけの他人の俺を親子そろってにらみつけるのだろうか。一刻も早く逃げ出したい衝動に駆られていると、一度離れた袴姿の少女が戻ってきて、俺の目の前に白い封筒を差し出した。


「こちらは金太郎先生から賜りましたありがたい処方箋となります。ご自宅にてお確かめくださいませ」


 金太郎の速筆ぶりにも驚くが、わざわざ俺に託す特別な理由があるのだろうか。俺はいつになく動揺しながらそれを受け取る。すると少女は、ぽっと頬を赤らめ、何事かつぶやいてから立ち去った。なんだいまのは。呆然としていたら、母ちゃんにジャケットの裾を引っ張られた。親父まで無言の圧力をかけてくるのは、ここから脱出したいがゆえだろう。俺は黙って二人の意思をくみ、率先して通路に急いだ。


 そういえば料金はいつ支払うのだろうと思ったが、子供が気にすることではないはずだ。きっと叔母が前払いしたか、後で請求書がしっかり郵送されてくるに違いない。


 帰りの車のなかでは誰も口をきかなかったが、家に帰ってリビングに集い封筒を開ける準備を整えた時、初めて親父が衝撃的なことを切り出したのだ。


「金太郎先生は本物だ。いまこそ海人に宮島家の秘密を解放すべき時なのかもしれない」


 俺はあぜんとしたが、親父は真剣に語りだした。


「大昔の話だ。ある節分の日、ご先祖様のところに鬼が押しかけてきてこう言ったそうだ。『近所の神社から追い払われて逃げてきた。どうか宮司が来てもわしはいないと言ってくれ』と。しかしご先祖様はそれを裏切り、家のなかに鬼が隠れていると教えてしまったのだ。以来、宮島家には鬼の祟りがふりかかり、男子が生まれると必ず女難に見舞われ、嫁さん選びにも苦労するようになってしまったらしい」


「それじゃどうやってこの家は続いてきたの」


「気の毒に思った宮司が紹介してくれるようになったのだ」


「それを代々、良しとしてきたんだ。俺、なんだかめまいがしてきた……」


 特別メンタルが強い自覚はなかったが、こうまで揺さぶられることになろうとは思わなかった。親父の言うことが真実なら、俺は好きな女の子と結婚することができないのだ。なんて残念な人生だろう。いや、ちょっと待て。金太郎の処方箋は未開封だ。


「親父、これ、開けていいんだよな?」


 俺が唾を飲んで息巻くと、親父はなぜか寂しそうに笑って答えた。


「もしおまえが運命を変えたいと望むならそれもいいだろう。父さんはなにも言わないよ」


 母ちゃんはと見ると、もうとっくに席を離れていて、昼飯の用意を始めていた。その横顔から読み取れるものはない。あえて無表情を作っているのかもしれない。俺は複雑な気持ちになったが、金太郎に言われた、「長男のせいだ」という言葉に背中を押された気がして、前置きもなく封を切った。そこにはこう書かれていた。


「鬼を追い払いたくば、節分にハート型のチョコレートを手作りし、家の北東に飾ること。以上だ」


 期待が高まり過ぎていただけに、がっかり感は半端なかった。だいたい豆まきという伝統文化はどこへ行ったんだ。堂々とした筆文字を覗き込んだ親父も、困ったように笑い、無言のままいずこかへと姿を消した。金太郎を一瞬でも神のように奉った黒歴史を忘れたいに違いない。


 俺はリビングでしばらくのあいだ悩んだが、結局、従うことにした。なにもしないよりは、動いたほうがいいと思ったからだ。節分は来週。時間はたっぷりある。俺はおもむろに立ち上がり、母ちゃんに話しかけた。


「母ちゃん、チョコレートってどうやって作るんだ?」


「さあね」


 本当は知っているが教えないという表情をしている。くだらないと言い捨てたいのだろう。確かにそう思っている俺自身もいる。だがここであきらめるわけにもいかない。俺は黙って自室に向かおうとしたが、背中に母ちゃんの声が飛んできた。


「ねえ海人。あなた、お父さんとお母さんの子供でつらいの?」


 急になにを言い出すのだろうか。手伝ってもらえない不満と苛立ちが爆発した。


「そんなこと、考えたこともねえよ」


 つめたく答えて、その場を去る。


 我ながら子供じみているとは思ったが、空腹をこらえて昼飯と夕飯をボイコットし、真夜中になってから、ようやく階段を降りて行った。目的はもちろん、食事と入浴のためだ。


 だが冷蔵庫を開けた時、俺は自分自身の目を疑った。


 頭に角が生えた子供――たぶん鬼――が、そこにいたからだ。


 子鬼は俺と目が合うと、器用に這い出てきて床に着地した。身長は百センチくらいしかない。赤いワンピースを着ているが、顔と手足はそれ以上に真っ赤だ。まじまじと観察していると、子鬼はようやく口を開いた。


「安心しろ、冷蔵庫の中身は片付けておいてやった」


「あ、ありがとうございます……って、ええっ!?」


 あわてて確かめると、あらゆる食材どころか調味料まで空になっていた。疑われるとしたら俺しかいない。母ちゃんに怒られること必至である。


「どうしてくれるんだよ。俺がおかしくなったみたいじゃないか」


「どうかしていなければ、鬼の姿も見えなかろう」


 ぐうの音も出ないとはこういう時のことを言うのだ。背筋が寒くなる思いで立ちすくんでいると、鬼はさも愉快そうに笑って言った。


「冗談じゃ。わしが自ら馳せ参じたのだから見えて当然よ。わしは宮島家に縛られている赤鬼のクハンダ。そろそろ解放されたいと思っておったところゆえ、金太郎というエセ霊能者を少しばかり操って、最後の貢物として手作りチョコレートを所望したのじゃ」


 最初から最後まで理解できないのだが、俺は本当におかしくなったんじゃないだろうか。一人で悩んでいたら、鬼はすっと目を細めてこう言った。


「人間どもの言い伝えとは、まことに信用できぬものよの。仕方ないからわしが事実を教えてやろう。かつてお主の先祖であった者に桃太郎という男がいた。桃太郎は人徳に恵まれたうえに見目麗しかったため、村中のおなごをとりこにしておったのじゃ。そのためいらぬやっかみを買い、村八分にされることに困った桃太郎がわしのところへ来て、家の守護をしてくれと頼み込んできた。初めは断ったのじゃが、甘い団子につられてな。罠にはめられ、この家に縛り付けられたのじゃよ」


「まさか」と、俺は力なく笑ったが、鬼は真剣だった。


「疑うのは構わない。じゃが、わしも必死なのじゃ。正直こうもうまくいくとは思わなんだ。この際、どんな手も使わせてもらうぞ。悪く思うなよ、宮島海人」


 はっとして飛び起きたら、月曜日の朝だった。日曜日の記憶はまるまる飛んでいる。夢には子鬼が出てきた。妙にリアルな感覚が残っているのは、よほど悩んでいたからなのだろうか。


 俺は普段どおり朝食を済ませ、学校へ行く。いつものごとく退屈な授業が終わり、放課後。部活に向かおうとしたら、なぜか足が別の方向へと進むのだ。やがて俺は、見えない糸に引っ張られるかのようにして、家庭科室に入った。そこではクッキング部の女子たちがクッキーを焼いていた。どうりで甘い匂いが漂っているわけだ――などと感心している場合ではない。さっそうと現れた俺に、同じクラスの佐藤翠子がけげんそうに声をかけてきた。


「宮島。なにか用?」


「いや別に」と答えようとしたのだが。意思とは違う声が頭上から降りてきて、俺の声帯を乗っ取った。


「異種間交流活動をしてみたくなってね。突然、訪問したってわけさ。お邪魔かい?」


 なんだよ、この話し方。気障にも程があるだろう。意識の底の本物の俺は顔を真っ赤にしながらわめいたが、それが表面上に現れることはなかった。


 佐藤はますます眉をひそめている。当然だ。許可もなく急にやってきて、「異種間交流活動」などと一見して破廉恥な言葉をのうのうと発しているのだから。だがそこに、顧問の藤田が割って入ってきた。


「まあいいじゃない。君、宮島君だっけ。今日はバレンタインのお菓子を作ってるの。ちょうどいいからお手伝いしたついでに味見してくれると助かるな」


 よせばいいのに、俺はすかさずお世辞を述べる。


「ありがとうございます、藤田先生。今日もお美しいですね」


「ハハハ。君、面白いね」と、藤田はまんざらでもなさそうに笑い、女子たち全員に聞こえるようアナウンスした。「そういうことだから、チョコレートの湯煎とコーティング作業を彼にも教えてやって。みんな仲良くするんだよ」


「はーい」と答える女子たちの視線が、興味しんしんに俺へと移行する。いまだかつて、このような注目を浴びたことがあっただろうか。穴があるならいますぐ隠れたい。それなのに、ここから逃げ出すこともできない。足がまったくいうことをきかないのである。


 俺はどうにかしてなにかに操られる状態から脱しようといろんなことを試したが、ことごとく失敗した。そのあいだにも表面上の俺は、歯の浮くような台詞を次々と繰り出していた。


「さすがクッキングガールズ。すべての所作に無駄がない。君たちは天使かい?」「そのセンスに脱帽さ。ウインク百回送らせてもらうよ」「オーマイゴッド! いま俺は太陽よりまぶしいものを直視してしまった。藤田先生、あなたは宇宙です。俺をほんの一瞬でカオスに導いてしまうなんて」


 約五十分の地獄のような時間が通り過ぎた。最後には心底力尽きて、投げやりになっていた。おめでとう俺。明日から変人決定だ。


 変人の俺はたらふく試食をして、土産もどっさり手に入れた。校門まで複数の女子たちとおしゃべりして帰る俺を、ランニングしていた剣道部の仲間が恨みがましい目で眺めている。最悪の展開である。


 そして住み慣れた我が家が近づいてきた時、急に意識が浮上して身体を取り戻した感覚があった。かと思うと俺の目の前に、クハンダが転がった。見間違いでなければ、俺のなかから飛び出したはずだ。赤い子鬼と出会ったことは現実だったのだ。嫌な予感をありありと感じながら、俺は自分でも恐ろしくなるくらいおぞましい声音で問いかけた。


「もしかしてクッキング部でのことは全部、おまえのせいなのか?」


「最初に断ったはずじゃ。『悪く思うなよ』と」


「だからって俺の身体を使ってやりたい放題やることないだろ?」


「鬼に説教が通じると思うておるのか?」


 まったく思えない。俺はなすすべなくうなだれる。しかしクハンダは出て行きたがっていたはずだ。もう二度と俺の身体が乗っ取られる危険はない。俺は印籠でも突きつけるように、紙袋からハート型のチョコレートクッキーを手に取り、クハンダの前に差し出した。


「ほら、これさえあれば出て行ってくれるんだろ。さっさと好きなところへ行けよ」


 するとクハンダは、「やれやれ」といった調子で肩をすくめてみせた。


「微妙な乙女心がわからんのか。わしは気が変わった。もうちっと宮島の家で世話になることにしたぞ」


「いや知らんし。いつその微妙な乙女心に変化があったんだよ」


「ネチネチとうるさいのう。わしはおなかいっぱいじゃ。その菓子は親父殿にでもくれてやれ。じゃあ先に帰るからの」


「ちょっと待てって」


「いや知らんし」と、クハンダはにやりと笑い、その場で空気に溶けて姿を消した。どうやら俺は、遊ばれるだけ遊ばれてしまったらしい。


 しかたなくとぼとぼと家に入ったら、母ちゃんが夕飯のしたくをしていた。同じ家に暮らしているのだ。いつまでも逃げ回っているわけにもいかないだろう。俺は覚悟を決めて、母ちゃんに声をかけた。


「調理実習で作ったんだけど」


「え? なに?」


 母ちゃんは不思議そうに紙袋を受け取ったが、中身を見ると、うれしそうに表情をほころばせた。


「これ、お母さんに?」


「俺はさんざん食ってきたから。親父と二人で食べてよ」


「ありがとう。後でいただくね」


 恥ずかしくて顔が真っ赤になるのがわかったため、すぐにその場から離れた。その時に思い出した、親父と母ちゃんの部屋が、北東に位置していることを。もしかしたらクハンダは、初めからこうするつもりだったんじゃないだろうか。そう考えると、鬼と暮らすのも悪くない。節分には神棚に、高級チョコレートでも備えてやろう。俺は自分の弱い心を励ますように、暗くなるまで素振りをした。




END

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