short short story

いちいおと

★トラウマン

 公園とは名ばかりの、だだっ広いだけの野原。それが朝なぎ公園である。


 崇はいつもそこのトイレでゆうゆうと学ランからエンジ色のジャージの上下に着替え、顔にはひょっとこのお面をセットする。


 夏場は夕方六時、冬場は夕方四時半が彼の出勤時間。歩いて五分の場所にある駅前の通りを、ボランティアで清掃するのだ。


 ちなみに、変質者と間違われないよう、あらかじめ自治会長の許可は得てある。活動歴はかれこれ一年になるが、賛同者もいなければ反対者もいない。


 誰かに強制されるわけでもない、極めで気楽な身分。それでも一日たりとも欠かしたことがないのは、彼自身の意地だ。


「さて、今日も頑張るとしますか」


 遠目だが、さっそくたばこの吸い殻とパンの空き袋が落ちているのが目に入った。


 自分の部屋のゴミなら後回しにするが、既にライフワークと化しているため苦にならない。時折、「きれいにしてくれてありがとう」などと通行人に感謝されるラッキーイベントもある。当分やめるつもりはない。


 自前のほうきとちりとりを、預かってもらっている雑貨屋で受け取り、いざ出陣。


 事件は目の前で起こった。


 長い黒髪のポニーテールにおかめのお面、上下緑色のジャージという出で立ちの少女が、あきらかに不良とわかる数人の男子中学生にからまれていたのだ。


 すぐ近くに交番はあるが、ちょうど出かけているらしい。逃げるとか、大人を探しに行くという選択肢は崇のなかになかった。弱い者を寄ってたかっていじめる行為は絶対に許せない。お面はお守りだと言い聞かせ、崇は自信を持って怒鳴り込んで行った。


「お嬢さんを解放しなさい、若者たち」


 不良の一人がげらげら笑いながら、「まさかのハゲシ登場!」とはやし立てる。


 なぜ「ハゲシ」なのか――。それは、崇のジャージの名札にそう書いてあるからだ。


 中学三年の夏休み、両親が離婚したのを機にストレスで頭頂部が禿げ、九月にクラスメイトからつけられたあだ名が「ハゲシ」だった。本名の崇とかけたつもりだったのだろうが、彼らにとっては愛称のつもりであっても、本人には相当なダメージだったのである。


 卒業するまでが、暗くて長い道をたった一人でとぼとぼ歩いていくような毎日だった。高校もわざと遠方の公立を選び、できるだけ他人と関わらないようにしてきた。


 それを変えたいと思ったのが、高校一年の冬のことだ。


 次の進路を真面目に考え始めるなかで、果たしてこのまま過去のトラウマに縛られていていいのだろうかと思った。そんな時、視界に飛び込んできたのが駅前のゴミだったのである。


 きっかけはなんでもよかった。


 崇は翌日から、自分に呪いをかけたジャージを身にまとい、清掃を始めた。お面をつけたのは正直、失敗だったと思う。途中から引くに引けなくなってこのスタイルになったが、元はと言えば、顔を知られるのが怖くてそうしたに過ぎないからだ。


「文句あるなら言ってみろよ、ハゲシ」


「文句ねえ」と、崇は目の前の中学生を見下ろした。身長差は約二十センチ。同級生のあいだでも飛び抜けて背が高い崇からすれば、年齢があまり変わらなくても子供にしか見えない。「逆に聞くけど、俺がその女の子を解放しなさいと言ったことはどう思ってるの?」


「なにわけがわからないこと言ってんだよ」


「わけがわからないのはこっちだ。嫌がっている女の子につきまとってなにが面白いんだ?」


「おまえ、頭おかしいんじゃね?」


「そうかもしれないな。だから俺の怒りのゲージがメーターを振り切る前に立ち去ったほうがいい。だいいち俺は忙しいんだ。掃除が終わったら、家に帰って宿題しないといけないんだよ」


 中学生たちは顔色をいっせいに青ざめた。崇の表情はひょうきんなお面の向こう側に隠れていて見えないというのに、声色ににじむ怒気が感じ取れたからだ。


「次はないからな。覚悟しておけよ」


  精一杯の捨て台詞を吐いて我先にと立ち去って行く中学生たちをほほえましい思いで見送り、崇は少女に声をかけた。


「大丈夫でした? お嬢さん」


「ピロリ菌です」


「ピロリ……え?」


「私のあだ名です。正確に言うと、過去形ですが」


 崇はピロリ菌と名乗った少女を、不審感たっぷりに観察した。


 おかめのお面をかぶっているため、どんな顔をして、こうして話しているのかは不明だ。しかし受け答えはしっかりしているし、決してふざけているわけではなさそうだった。


 よく見れば、胸のあたりに「ピロリ菌」と書かれていた。油性マジックの文字は度重なる洗濯で薄れたのか、だいぶかすれている。そうした面では、確かに過去のあだ名だったのかもしれない。ふと興味に駆られた崇は、なにげなく訊ねた。


「君はどうしてそんな格好を?」


「ハゲシさんは、なぜそんな格好をしているんですか?」


 少女の純粋な質問に、崇は次の言葉を見失う。


 気まずい沈黙が悠久の時の流れのように去り、思い至ったのは、なぜ初対面の少女にいちいち理由を語らねばならないのかということだった。


 崇は急に面倒になり、突っぱねた。


「それは君には関係のないことだと思うよ」


「確かにそうですが」


 物言いたげに見えるのは、お面をつけているからだろうか。だとしたらきっと、自分もそう見えているのだろう。気味が悪い。


「もし俺の真似をしているつもりならやめたほうがいい。さっきみたいなやつらの餌食になるだけだ。次にまた同じ目にあっても、運良く誰かに助けてもらえるとは限らないし」


 少女は一瞬、押し黙り、静かに切り出した。


「私はただ、ハゲシさんのお手伝いをしたかっただけです。でも今日は帰ります。また今度、来てもいいですか?」


 苛立ちは、少女に対してのものなのか自分に対してのものなのか――崇ははかりかねたまま、つとめて穏やかに言った。


「いや、君はきっと、もう二度と来ないと思うよ」


 少女はなにも答えなかった。一歩下がり、おじぎをすると、きびすを返して走り去っていく。その後ろ姿を見送ると、崇はなにごともなかったように掃除を再開した。



 結局、ピロリ菌は二週間以上、現れていない。崇の予言どおりになったのだ。


 以前と同じ、代わり映えのない日常。


 相変わらずゴミが落ちていない日はないし、毎日すれ違っておきながらどこの誰とも知ることのない他人と急に知り合いになることもない。


 北方の山から吹き降ろしてくる風がつめた過ぎるからだろうか、気弱になるのは。こんな時、思い出すのは、いつも父のことだ。とりとめのない思い出の断片、そして、最後の言葉。


「さよならは言わないよ。またな、崇」


 近所にピクニックに出かけるように、リュックひとつで父は家を出て行った。


 縁があれば会えるとどこかで聞いたことがあるが、父とはないのかもしれない。


 出勤用ジャージに着替えながら、崇は思うのだ。


 自分が本当に乗り越えたいのは、父なのではないかと。


 リストラされて本当はどうしようもなくつらいはずなのに、家族には笑顔しか見せなかった。黙って母に離婚届けを差し出したことを崇は知っている。真夜中、寝付けずに階段を降りていった時、リビングで交わされているやりとりの一部始終を見てしまったからだ。


 あの時、もし自分がもっと大人だったなら、二人が別れないよう説得できたのだろうか。


 何度も自問自答してきたが、いまだ答えは出ていない。



 電話の呼び出し音がどこか遠くから聞こえてくる。


 それが自分のものだと気づくまでにしばらく時間がかかった。


 相手の名前を確かめると、崇はお面をかぶったまま、のんびり通話ボタンを押した。


「俺。なに?」


「今日夜勤でいないから、学校帰りにつきの屋でコロッケ買ってきて」


 母は看護師をしている。崇の夕飯のおかずを気にしているのだ。


「了解。あとは?」


「ううん、今日はいい」


 いつもなら洗濯物を畳んでおくようにだとか、トイレ掃除をしておいてと言うのに、なんだか拍子抜けである。


「珍しいね。ヒョウでも降るかな?」


 しょせん電話は用件を伝達するための簡易手段でしかない。もっとも、顔を突き合わせていても言葉の裏にある本音を読み取るのは難しいのだが。


 母は小さく笑うと、快晴の空の下、すこやかに腕を伸ばすような声で言った。


「お母さんね、最近ようやくわかったことがあるの。自分が考えている以上に自分のことを考えてくれてる人、気にしてくれてる人は周りにたくさんいるんだって。崇にもそれを知ってほしいな」


 まるで子供のような人だと崇は思う。だが果たしてここまでたどり着くまでの道のりが平坦だったかというとそうではないだろう。母子家庭の厳しさは、実際に味わった家族にしかわからないものである。


「そ」と短く答え、崇は電話を切る。


 いますぐにでも走り出したい衝動がこみあげてきたからだ。


 それはもしかしたら、前方から長い柄のほうきを抱えたピロリ菌が歩いてきていたからかもしれない。


 崇はお面を外し、少女に手を振った。





END



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