第16話 仕込み
都営新宿線大島駅から十分程度歩いたところに、高さ三メートルのコンクリート塀に囲まれた大きな屋敷がある。付近の住民はこの屋敷を狛犬屋敷と呼ぶ。
門から屋敷迄、広い日本庭園が拡がる。馬島は来訪するたびに、このスケールに気後れする。
敷地の西側にガレージが有り、門から塀を沿ってガレージ迄舗装した道路が続く。馬島はいつも道路に沿って、屋敷の玄関まで向かう。庭の真ん中に設けられた池の橋を渡るのは、昼間ならともかく夜は気後れしてしまう。
この屋敷に来るのは、これで二度目になる。
これまでは屋敷の当主の愛人宅で、必要な打ち合わせをしていた。南新宿のマンションは都会的な雰囲気に溢れて、この屋敷の重厚な雰囲気とは対照的だった。
去年の年末にその愛人が行方不明になり、会合場所が変更に成った。なぜ行方をくらましたかは分かっていない。
何か事件に巻き込まれた可能性も考えたが、馬島は追及しなかった。
肝心のこの屋敷の主が愛人の行方を気にしなかったし、都内の年間失踪者数は八万人を超える。死体でも出てこない限り、本格的な捜査対象になることはまずない。
馬島は消えた愛人である美佐の肢体を思い浮かべた。今年の誕生日を迎えると五十才になる馬島でさえ、その妖しい美しさの虜になっていた。もう会えないかもしれないと思うと、とても残念に思う。
玄関に着くと、既に執事の実川がドアの外に待機していた。馬島の姿を見て、深々と頭を下げる。
実川は三五才の小柄な男だった。父親もこの屋敷で執事として働き、五年前に執事の座を譲り受けている。この屋敷の当主、里見零士と中学・高校が同じで、学年は二つ上だと零士から聞いたことがある。
「いらっしゃいませ、客間にご案内します」
「いつもありがとうございます」
この執事は必用な情報しか伝えない。今日は暖かいですねとか、ご元気でしたかなど一切口にしたことがない。
白檀の香が漂う玄関を抜けて、十六畳の客間に入る。
昼間ならば日本庭園の風情が楽しめるのだが、今日は夜なので残念ながら、麻の葉模様の障子によって遮られている。
部屋の中央には、メープル素材で造られた座椅子の上に、黄色と褐色のしま模様の絹の座布団が敷かれ、その横には重厚色の脇息が置かれた席が二組、向かい合わせに設けられている。席の前の宋和膳には、懐石風の料理が既に置かれており、柚子と木の実の香りが鼻を擽る。
馬島は床の間と向かい合う席に着き、零士を待つ。
すぐに零士が実川を従えて現れた。
「ビールでいいよね」
歓迎を示す零士の人懐こい笑顔を見て、重厚な屋敷の威風に気後れしていた馬島の心が和らぐ。
「いただきます」
馬島の返答を聞いて、実川がビールを継いでくれる。零士は手酌でさっさと継いでいた。
「いつもありがとうございます」
ビールを一息に飲んで、零士が馬島に謝意を示す。
「とんでもありません」
既に湯葉刺しと蒸し鮑の先付をいただいていた馬島は、慌てて返答する。
「馬島さんとお会いするのは、昨年の飛翔の会以来ですね」
零士が懐かしそうに口にした言葉に、そう言えば美佐と最後に会ったのもあの会だったと、今はいない麗人の姿を思い出す。
「美佐さんはまだ見つかりませんか?」
感傷に囚われ、思わず慎むべき言葉を口にしてしまいハッとするが、零士は意に介さず微笑みを返してくれた。
「彼女も私の傍にいるのは、いろいろと窮屈だったのでしょう。きっと他の土地で幸せに暮らしていると思います」
ホッとして、もう失言をしないと気を引き締めながら、きっと目の前の男の気を引くであろうと思う、最近最もホットな話題を口にした。
「ところで零士さんは元グリーンスパークの取締役だった、橋本正明という男をご存じですか?」
「面識はないですが、グリーンスパークの証券取引法違反で社長が逮捕されたときに、取締役を解任された男ですよね」
「はい、当時グリーンスパークの金庫番だった橋本は、問題になった投資事業組合に関する金の流れを、全てコントロールしてました。つまり、逮捕された社長の堀川よりも、実行犯として逮捕されるべき男だった」
「何か裏があったのですね」
「この事件は投資事業組合を使ったグリーンスパークの粉飾決算に過ぎませんが、堀川がマスコミで話題に成った人気起業家のため、世間の注目が髙かった。当然、投資事業組合の投資者にも関心が向きます」
「もしかして政治筋ですか?」
「ええ、国土交通大臣、外務大臣、文部科学大臣など、内閣の錚々たる顔ぶれが関与を噂されています。最近依田総理あたりも噂に登っています」
「依田さんもですか?」
「ええ、この件の元締めはどうやら佐川官房長官らしいのです。そこから依田さんまでつながっていったようです」
零士が無言でじっと馬島の目を見る。
――この目だ。野心的で挑戦的なこの目に魅了されて、俺はここに来ている。
「馬島さんは、その件を調べないのですか?」
零士はあくまでも低く静かな口調で、恐ろしい言葉を口にする。
「そんな、現内閣がひっくり返るかもしれないネタですよ」
慌てて否定したが、零士に再び見つめられて、それでもいいかと思い直した。
「私に何かできることはありますか?」
まだ何も頼まれていないのに、馬島は自らこの危険なネタに足を踏み入れた。
「ここに橋本がもっていた現閣僚たちの投資情報があります。そして、こっちはそれぞれの銀行口座の入出金記録。なぜかぴったり一致してるんです」
資料を差し出す零士の顔が悪魔のように思えた。
「こ、これを明日のうちの朝刊の一面記事にすればよいのですね」
「国のためです」
「分かりました」
悪魔の誘いに乗ってしまった。下手すると毎朝新聞を追われるかもしれない。だが、きっと今、甘美なご褒美が下されるはずだ。
「麻耶」
零士の声が頭の中を駆け巡る。
ふすまが開き、美佐とよく似た女が現れた。思わず南新宿のマンションで、一度だけ零士に許されて抱いた、美佐の肢体を思い出した。
「美佐の従妹の麻耶です。馬島さんの国を思う心にいたく共感したようです」
「おお……」
馬島は喜びで身体が震えた。
麻耶が近寄って来て、手をとる。
「別室で
馬島は何も抵抗できなくなって、そのまま麻耶に手を引かれて別室に向かった。
車は毎朝新聞本社に向かっている。今は午後三時。これから記事を指示して、一面差し替えで印刷所に送れば、明日の朝刊には間に合う。もちろんトップには秘密にする。
もしかしたら毎朝の社会部のデスクの座を追われるかもしれない。しかし零士は、維新の志士たちは自分の身を顧みずに行動することによって、回天の偉業を成し遂げたのだと常々口にしていた。
そして大仕事の前に必ず、遊郭で女を抱いて、自らの男を確かめていたのだと。
麻耶は自分を男にしてくれた。あっという間に果ててしまったが、美佐の時以来、永らくなかった男になることができた。
今の自分は正に令和の志士だ。今こそ国のためにペンを持って立ち上がる。
本社に着いた。馬島は零士がつけてくれた、車の運転手に礼を言って車を降りる。
エントランスに向かう自分、きっと使命感に高揚しているに違いない。
明日に成れば会社を追われるかもしれないが、きっと周りは英雄として自分を称えるだろう。
エレベーターに乗り込む。
時間帯的に空いてる時間なのか、他に誰もいない。
出入りの多い新聞社にしては珍しい。
まあ、デスクまで直通で行けることは幸いだ。
早く大仕事にとりかかろうと武者震いがする。
突然、周囲が暗闇に成った。
何が起こったのか分からないまま、意識がぷつんと途切れる。
そのまま馬島はエレベータの床に崩れ落ちた。
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