命
第11話 犀の到来
「だから、明日の午前中にしようと言ったんだよ」
明良が珍しく感情的に樹希を詰った。それは井の頭線を降りる人波に押されて、ホームで転倒しかけたお婆さんを救った直後のことだった。
土曜の午後の渋谷はサキヨミを持つ明良には、あまりにもたくさんの近接未来が頭の中に飛び込んで来て、ストレスが半端ではないのだろう。知ってしまった以上、放っておけない愛すべき明良の性格も、この状況では苦しむ要因の一つに成っている。
「ごめん、どうしても二人で歩きたくて」
土曜の午後に行きたいとお願いした手前、樹希は強く反論できない。
渋谷に集まるおしゃれな人たちに交じって、明良と二人で歩く姿を妄想してしまった自分が全て悪い。
――これも杏里紗の影響かな?
半年前の自分では思いもつかない変化に驚いてしまう。
「帰りは悪いけど、セバスチャンに迎えに来てもらうね」
樹希が楽しみにしていた、買い物袋を二人で下げて満員電車で帰る企画案を、明良はあっさりと廃棄処分した。
「分かった」
反論の余地なく素直に従う。
セバスチャン、本名は
もちろん本人はドイツ人ではなく紛れもなく日本人だが、一九〇センチを超える長身と、細やかな気遣いに溢れた執事としての振舞いで、呼び名に違和感なくマッチしている。
「じゃあ、急ごうか」
とにかく、明良は早く駅から脱出したいらしい。
――普段からあまり外出しない明良が、駅から出てもこの人波が衰えないことを知ったら、もう二度と来てくれないかもしない。
上目遣いに頷くだけというあいまいな返事をして、せめて明良に負担をかけないようにと、先頭に立って道を切り開く。一六八センチと、女性にしては大柄な樹希は、馬力もあるから思いのほかスムーズに、神宮通の前まで抜けることができた。
「で、どこに行きたいんだっけ?」
人は相変わらず多いが、太陽の下にある解放感で、明良の気分は少しだけ持ち直したようだ。
「公園通りを歩こう」
これでイチマルキュウ辺りに入って、また調子を崩されるのも辛いから、とりあえず外を歩いて、ロフトかパルコで必要なものを買うことにした。
「どのくらい時間がかかりそう?」
「うーん、三時間くらいかな」
「OK、じゃあ三時に着くようにセバスチャンに連絡するね」
来たばかりというのに、もう帰りの段取りをされるのは悲しかったが、予想以上に男女ペアが目につき、その幸せそうな姿に自分たちも負けまいと気合が入った。
「手をつなごう」
明良の返事を待たずにさっと手を握る。
特に何も言われないので、そのまま歩き出した。
「綾香さん、順調そう?」
今日ここに来た目的の半分は、明日から始まる高校生活に備えて、鞄や文房具を新調することだが、もう半分は妊娠したことが判明し、北条家に入籍した綾香へ贈るプレゼントの下見だった。
「今はね」
――また暗くなってる。
綾香の出産が命のかかった危険なものであることは、樹希も承知している。
命を懸けている当人と、パートナーであるコーマが納得していることを、いつまでも明良がぐずぐずと悩んでいる様子は、決して気持ちのいいものではない。
何よりも杏里紗のときに、綾香自身から明良の悩みは見当違いだと、きっぱり言われた話だ。男ならシャキッとしろよと毒づきたくなる。
樹希にとって心配なのは、むしろ杏里紗の方だ。
操られていたとはいえ、自分の手で美佐を殺めてしまった罪の意識は、杏里紗の心から消えることはなさそうだ。
コーマの思念を駆使したカウンセリングも、なまじ杏里紗が種子を持つ者として覚醒しているので、そうでない者に対するほどの効果は期待できそうにない。
今はひたすら将来零士の子を宿すことだけを想い、自身の裁きを運命に託そうとしてるように見える。それは同じように命を懸けていても、綾香のそれとはまったく別の悲しい選択だ。
「私たちは綾香さんが無事に出産できるように、祈るしかないんだよ」
樹希の強い口調に明良は黙って頷くだけだった。
明良の手を握っている左手が熱くなっていることに気づき、話題を変える。
「明日、学校に行ったら少弐さんと唐木田さんはいるのかしら」
「わざわざ挨拶に来たんだ。いるはずだ。なぜ転校してきたのか、目的は分からないけど」
「私、あの二人が悪い人には感じなかった」
「種子を持つ者同士は、基本的には惹かれ合うんだ。ただ九家の人間は家に対しての忠誠心が強いから、結局少弐家がどちらに付いたかだけど」
桜の咲く季節の華やいだ雰囲気に、道行く人たちも刺激されたのか、通りは明るくて楽しい思念に溢れていた。
明良は元より、最近は種子を持つ者として、思念を色や形で感じるようになってきた樹希も、心が浮足立って足取りが軽くなる。
「明良、今変な――」
全て言い終わる前に、明良が樹希を庇うように前に立つ。
樹希が感じた尖って危険な感覚より、もっと鮮明な思念を感じて明良が動いた。
明良が凝視する先では、ナイフを手にした二人の男が、前後から別の男を刺そうとしていた。
危ないと思った瞬間、前に立つ男が膝から崩れ落ちる。後ろに立つ男は膝をつきながらも、ナイフの切っ先を狙った男のふくらはぎに掠めることに成功した。
「ちっ」
明良が舌打ちして、足を切られて蹲る男の方に向かった。
樹希も慌てて後を追う。
明良はサキヨミで二人の男の攻撃を予測して、二人が力を込めた瞬間に、膝に対して力が抜けるよう思念誘導したのだ。杏里紗の取り巻きに襲われたとき、披露した投げ技の応用だった。
普段なら完璧に、二人の男は路上に転がったはずだが、距離があったのと、二人の男が別の思念で守られていたので、狙い通りに決まらなかった。
明良は切られた男を助け起こす。こんなパニックを起こしそうな場面でも、切られた男は落ち着いて明良の助けを受けている。おそらく明良の思念が仕事をしているのだろう。
先に倒れた男が立ち上がって、明良に向かってナイフを振るおうとしている。
樹希は気合を入れて男に正拳を放つ。打たれた男はスローモーションのように、再び崩れ落ちていく。
思念操作が苦手な樹希だが、自身の思念を拳を打つことに集中することで、師匠と同じ音速の打撃を身につけることができた。同じく打撃を得意とするセバスチャンから、自身の思念を集中させる技を教わって完成させた究極の突きだ。
「すぐにここから立ち去ろう」
「どうして、この人怪我をしてるよ」
「ここには思念で結界が張られている。すぐに次の刺客がやって来る」
「俺なら大丈夫だ。歩くから手を貸してくれ」
明良のただならぬ表情に危険の大きさを察したのか、男は気丈にも自力で立ち上がった。
出血はしたが、浅手で済んだのかもしれない。
「どこに向かうの」
「もうすぐセバスチャンがこの先の駐車場に来るはずだ」
「タクシーに乗った方が良くない」
「ここではタクシーのドライバーが気づかないから拾えない。それに普通の車に乗ったら、そっちの方が危険だ」
何とか男を支えて駐車場に着いたが、セバスチャンはまだ来てなかった。
「すぐに屋敷を出てここで待ってると言ってたから、もう少し待てば来ると思う」
「じっとしていて大丈夫かしら」
「いずれにしても、もうこの人は歩けない」
見ると男は額に脂汗を浮かべて、顔が引きつっている。
「すぐに病院に連れて行かないと」
「病院に行ってもどうにもならない。傷は浅手だ」
「じゃあ、どうしてこんなに苦しそうなの!」
樹希には明良がのんびりし過ぎているように見えた。
「さっきから、必死で思念の拡散を防いでいるんだ。でも完全に払うにはコーマに頼むしかない」
――思念の拡散って、何が起きてるの?
戸惑った表情の樹希に対し、明良はゆっくりとした口調で説明を始めた。
「あのナイフには強い思念が残留してたんだ。それが傷口からこの人の脳に伝わって、身体の各部に変な指示を出している。今は僕の思念を送って、心臓が止まらないようにするだけで精いっぱいだ」
「そんな、まるで毒じゃない!」
「猛毒だよ」
男はぐったりして、駐車場で座り込んでいる。
「大丈夫かの?」
ぐったりと倒れた男を見て、ホームレス風の初老の男が近づいてきた。
「大丈夫です。少し休んでるだけですから」
樹希は、これ以上関わる人間が増えるのは危険だと思った。
「そうですか? スーツのズボンも裂けておるし、血も出てるようじゃ」
初老の男はかまわず近づいてくる。
樹希は面倒だなと思った。
「大丈夫ですから――」
いきなり明良が初老の男に向かって蹴りを放った。
蹴りは男の側頭部にヒットしたが、男は微動だにしない。
「おやおや、ご挨拶じゃの。戸鞠明良君」
男はにこやかに攻撃した明良に声をかけた。
「誰?」
樹希は男に警戒しながら明良に尋ねた。
「武田家の当主、武田綜馬だ」
「緒川樹希さんじゃな。これは美しい。後五年もしたら、儂の嫁にしたいぐらいじゃ」
綜馬の好色な視線に樹希はぞくっとした。
「貴様ー」
再び明良が蹴りを放ったが、今度は左手で軽く払われた。
「明良君は思念が使えない状態じゃの。じゃあ邪魔なその男は儂が引き取らせてもらおう」
綜馬がまた一歩近づいてきた。
「近寄るな」
樹希の正拳は簡単に掴まれて、そのまま綜馬に抱き寄せられた。
「おお、いい匂いがする」
「いやっ、放せ、変態」
明良が飛び込んできて綜馬の顔面にパンチを打つが、簡単に左手で跳ね返され、背中から地面に叩きつけられる。横たわっていた男が心臓を押さえて苦しみだした。それを見て明良が渾身の力を振り絞って思念を再開させる。
「もう詰んでるではないか。儂はお前たちの命は必要ない。その男を殺すか、そのまま連れて行ければ何の問題もないのじゃ。樹希ちゃんは、また改めて会いに行くから待ってておくれ」
綜馬が樹希を放して男の方に向かって行く。
樹希は背後から渾身の正拳を放つが、男は気にも留めず歩き続ける。
男の目の前に黒い大型バンが飛び込んできて停車した。
運転席にいる男を見て、樹希は思わず大声で叫んだ。
「セバスチャン!」
セバスチャンは車から降りて、明良と樹希の無事を確認してから、綜馬と向き合った。
「これは北条家の執事殿ではないですか。今日も猛々しい思念を放ってらっしゃる。少し気を引き締めねば成りませぬな」
言葉とは裏腹に、綜馬の表情には焦りは見えない。
「何か勘違いをされてるようですね」
バンの後部ドアがスライドしタラップが下り、車内から車椅子に乗ったコーマが現れた。
「コーマ」
明良と樹希が思わずその名を呼ぶ。
「これは北条昂麻殿ではないですか。お会いするのは九家会議以来ですかな」
「ここは穏便にお引き取りくださいと言っても無理でしょうね」
「たとえ、昂麻殿が加わったとしても、所詮は四人。今この結界は我が手の者によって包囲されておる。ここはその男を置いてお引き取り願うのがよろしかろう」
樹希は驚いた。いつの間にか周囲にはホームレスたちが、二十人いや三十人近く集まっていた。しかも一人ひとりに思念が感じられる。いくらコーマでもこの人数相手に戦えるのか不安に成った。
「樹希さん、大丈夫ですよ。私は八咫烏の力を、直接この身に取り込んでいる。それに明良はもう制約が取れて自由に動けるはずです」
見ると倒れていた男の人が楽に呼吸をしながら、普通に座っていた。
「コーマ、何をしたの?」
「車の中にいる間に、残留思念を払っておきました。さあ明良、あなたの思念は自由です」
明良は無言で頷き立ち上がった。男のために割いていた思念を全て身体に取り戻し、全身が紫に包まれていた。
「やれ!」
綜馬の指示で、ホームレスたちが一斉に襲い掛かって来る。樹希が正拳を撃とうと身構えた瞬間に、目の前のホームレスがバタッと前のめりに倒れた。
見ると四方のホームレスたちもバタバタと倒れて、身体の自由が効かなくて起き上がれないでいる。コーマの思念が彼らの身体に変な指示を流しているのだ。
明良がゆっくりと綜馬に詰め寄っていく。手を伸ばせば届く距離まで間合いが詰まると、綜馬の身体がふわりと浮いて、スローモーションのように背中から落ちた。
かつてみた明良の投げが復活した。綜馬がゆっくりと起き上がる。技は綺麗に決まったが、相変わらずノーダメージのようだ。
「ふむ、これが明良殿の実力ですか。これは潮時かの」
相馬が左手を上げて合図すると、周囲のホームレスたちが次々に消えてゆく。最後に綜馬の姿も
「また会いましょう。北条家の方々」
コーマが周囲に結界を張り直し、ポツンと呟いた。
「
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