ケイとアイ

 未知の感染症が世界的な流行を見せ、世間ではやれ「自粛だ」やれ「人との距離を取れ」だの言われている昨今。

 こんなご時世でも、修学旅行は執り行われる。

 二泊三日。中学三年生の受験前最後の思い出作りだ。帰宅は夜になった。

 

「ただいま」


 わたしは修学旅行の引率でヘトヘトになった身体に鞭打つようにしてマンションの五階にある我が家に帰ってきた。


「あれ? 暗いな」


 靴はある。

 だから部屋にいるはず。

 なのにどの部屋の扉からも廊下に明かりが漏れていない。

 昼夜逆転気味な彼女のことだから、きっとリビングでダラダラしているものだと思っていたのに。


 わたしは訝しみながら荷物を下ろした。


 コートを掛け、洗面所で手洗いとうがいをする。ハンドソープで手首や爪の先まで念入りに。几帳面である自負はある。整えられた洗面台には、ふたり分の歯ブラシと洗顔用のアイテムに基礎化粧品。ハンドソープやうがい薬、マウスウォッシュまで置いてあって数は多いのに、収納がしっかりしていると雑然とは程遠く見えるのが不思議なくらいだ。


 果たして、彼女はリビングにいた。

 ソファに全身を埋めるように仰向けで何をするでもなく、ぐったりしている。


「お~、おかえり」


 声もどこかハリがない。


「どうしたの愛華あいか。電気もつけないで。具合悪いの」

「いや~うん。ちょっとね」


 愛華は部屋の中だというのにマスクをつけたままだった。


 スウェットに身を包み、力無く横たわる愛華は、見様によってはただ怠惰なだけに見えるだろう。

 実際、怠惰だから誰かがそう指摘をしたとしても「そうなんですよ」と苦笑をするしかない。幼い表情と言動は、小柄な体格と相まって中高生と言っても違和感がないほどだ。わたしが教えている中学生の生徒には、愛華よりも大人びていると思える者もある。


「熱っぽくは、無いんだけどね」


 愛華はけだるげに身体を起こした。

 化粧をしていないから余計に幼く見える。出会ってから十五年ほどになるが、中高生の頃と変わらない。これで同級生なのだから変な感じだ。

 

「朝、なんだか喉がイガイガするなって思って念入りにうがいをしたんだ。そしたら、ペッ、てしたのがものすごく黒かったの」


 喉に手を当て、咳き込む素振りをする愛華。


「大丈夫なの?」

「分かんない。でもいま流行ってるじゃない、ウイルス。不安で不安で、そう思うとなんだかお腹が痛くて」

「不安ね」


 わたしは愛華を案じて憂愁の表情を浮かべた。


「それで、ずっと寝ていたの?」

「そうなの。一応部屋にあった薬は飲んだんだけど」


 愛華は目をこすり、ソファの脇に置いてあるピルケースを指で示した。腹痛に効く薬だ。黒い何かに対する特効薬とは思えない。


「ねえ先生、診察してよ」

「生憎、その先生じゃないのよね」


 わたしの白衣は診察室ではなく理科室で使うものだ。顕微鏡で見るのは病原体や血液ではなく淡水の微生物やタマネギの根だ。


「冗談を言う元気はあるみたいだから、大丈夫なんじゃないかしら」

「そんな、いい加減な」


 愛華はわたしに向かって手を伸ばした。意地でもソファから動こうとしない意思を感じた。

 心配の気持ちが次第に薄れてきた。


「きっと直に元気になるわよ。その黒いのを吐いたのって、今朝なんでしょ? 明日にはきっとなんとかなってるわ」

「ええ~」


 わたしは、愛華が頬を膨らませる姿を幻視した。


「ねえケイ〜。助けてよ〜心配してよ〜。ちゃんと聞いてぇ、ね~」

「はいはい、聞くわよ」


 愛華がわたしのことを「ケイ」と呼ぶ時は、大抵何かしら弱っている時だ。

 部屋のインテリアに紛れるように設置してある消毒用アルコールを手に浸みこませるように揉みこみながら、わたしは愛華に寄り添うように傍に腰を下ろし、耳を傾ける姿勢を示して愛華の発言を促した。


「今朝、珍しく早起きできて、二度寝も別に良いかなって気分だったの」

「へえ、ほんとうに珍しいわね」

「そうだね」


 昼夜逆転を指摘されてばかりだったからだろうか。愛華はどことなく満悦な様子で頷いた。


「それで、朝ご飯のことなんて考えて無かったから、食べに行ったの。クジンに」


 クジンはマンションの向かい側にあるレストランチェーンだ。和風中心でメニューのバリエーションには乏しいが、旨い。わたしもよく利用させてもらっている。この部屋に決めた理由でもある。

 わたしは料理が苦手で、愛華は出来るが、生来の面倒くさがりなので作ってくれない場合も多い。朝なんて特にだ。そんな時、定食レストランであるクジンは大変ありがたい存在になる。足を向けて寝られない。


「和風朝食定食499円(税込)を食べて、満足して帰ってきたの。朝の八時くらいだったかなあ。人が多くて、クジンでものんびりできなかった。食べてすぐ店を出たけど」


 わざわざ「(税込)」を「かっこぜいみかっこじる」と発音して、愛華は思い出すように指を折った。


「部屋に戻る途中かな。エレベーターは混みそうだったし運動不足だったし、運動もしなきゃって階段を昇っていったの。その途中くらいかな、妙に喉に違和感を感じたの」


 どちらかと言えばお前の言葉遣いのほうが違和感だ、とわたしは内心で突っ込んだ。違和感を感じるとはなんだ。頭痛が痛いみたいなものか。国語科は選ばなかったがセンスはあるのかもしれない。

 なんだか可笑しくなって、それで、それを言ってまぜ返す代わりに、別の言葉で茶化した。


「久しぶりに運動して、息切れしたんでしょ。ゼェゼェハァハァって」

「もう、真面目に聞いて」


 思いの外真剣な表情でぎろりと睨んでくる愛華。残念ながらあまり迫力はない。

 それでも、その目に微かな不安と憂慮の色が見えて、わたしは一旦は茶化すのをやめて、耳を傾けた。


 愛華はわたしを見て一息ついて、再び語りだした。


「で、部屋に帰った。急いで帰ったの。コートを掛けるのも惜しいくらいに真っ先に洗面台に向かって、念入りに手を洗ってうがいもした。そしたら……」

「吐いたのが透明じゃなくて黒かったと」

「そうなの。それからずっとこう」


 愛華は深刻そうな表情で頷いた。元気そうだった表情はすっかり形を潜めている。コロコロ表情が変わるのがなんとも可愛らしい。愛華のチャームポイントだが、いまはそういう場合じゃない気がしてきた。


「それで、ずっとマスクしてるのね」


 こくり、と頷く。


「体温は測った?」

「……まだだ」


 わたしは体温計の入れてある引き出しをまさぐった。


「……電池が切れているわね」

「ケイ、買ってきてよぉ」


 再びソファに仰向けになりながら愛華が言う。


「……仕方ないわね」


 わたしは買い物用のカバンに財布を突っ込んだ。他に市販薬とか身体に良さそうなものを買ってきてあげよう。


「他に何か欲しいものはある?」

「……ビール!」

「却下」


 履き古したスニーカーに両足を突っ込み、わたしは最寄りのドラッグストアに向かった。


 こんなにもすぐに出かけ直すとは思わなかった。

 二泊三日の引率で疲れた身体に鞭を打って買い物に向かっている。別に決して不満はない。でも、少しは神様のひとりやふたり辺りに褒めてもらってもいいと思う。叶うならば、給料も上げて、その上で業務量が少なくなれば尚のこと良い。


 階段を下りる気分でもなかったのでエレベーターを使った。

 オートロックの「ひとりぐらしの女性の方でも安心」と謳われた玄関をカードキーで開錠し、エントランスの開き戸を押した。


 道路を挟んで丁度向かい側。何やらクジンの前が騒がしい。

 珍しく溢れ喧噪になるほど客が入っているのかな、と思いながらわたしはドラッグストアへと向かった。

 最寄りのドラッグストアは駅からは反対の方へと歩く。

 件のクジンを右目にだけ入れながら歩道を進み、すぐの交差点を渡らずに左折する。

 後は道なりだ。


 ものの五分程度で到着した。

 駅から離れている分敷地面積を確保しやすいのか、大型で品ぞろえが良い。

 無論電池も置いてある。我が家の体温計はボタン電池で駆動したはずだ。


 買い物かごの底に目的のものを放り込んで、わたしは店内を見渡した。

 酒は論外と思っていたが、案外良いかもしれない。少なくとも疲れたわたしには許しをあげるべきだ。あとは、食べ物は多く買っていってやろう。栄養をつけないといけないから。


 行きなれた勝手知ったる店だ。商品棚を違えることはない。

 ビニール袋が有料になったのでなんとなく気軽に行きにくい。


 そういえば、とふと思い出した。

 以前、有料化になってしばらくしたころ、同じ感想を愛華に言ったことがある。愛華はキョトンとして、


「ドラッグストアに気軽に行くことってある?」


 と言っていた。

 いま思うと、あれは多分に呆れを含んでいたのだと思う。

 心なしか今日の愛華にはそういった類のキレがなかった。庇護欲をそそるだけの愛華は物足りない。

 早く元気になってほしい。


 額に貼るタイプの熱冷ましをカゴに突っ込みながら、わたしは切にそう思った。


 帰り道、クジンの前の人だかりはますます大きくなっていた。




「ただいま」


 こんな短時間のうちに同じセリフを二度も言うとは思っていなかった。

 居間に愛華の様子を見に行くと、愛華はソファの上で綺麗に丸まって寝息をかいていた。

 寝顔は健康そのものに見える。


 わたしはほんの数十分前と同じようにコートをラックにかけると、再び洗面所に向かった。

 採光窓のない洗面所は、電気をつけなければ真っ暗だ。


 手洗いにうがい。

 歯ブラシやマウスウォッシュは買ってこなかったが、そういえば最近購入した記憶がない。愛華は基本的にこの部屋を出ないし、出てもそれこそ目と鼻の先のクジンまでだ。何か足りなくなっていないか見ておくべきだった。

 順番に手に持って重さをはかる。あれ、こんなに減っていたっけ。あれ、案外残っているな。


 そのうちのひとつに手を伸ばして、わたしの脳裏に電流が走った気がした。

 もしかしたら。

 多分、愛華の不調、というかその発端となった黒い痰のような何かの正体は。

 

 わたしは確信を持って愛華のいる居間に戻った。


 愛華は寝たままだった。

 わたしは愛華を少々乱暴に揺すり起こした。

 やはり疲れているのにおつかいさせられたのが癇に障っていたのかもしれない。


「ふぁ、おかえり~」

「ただいま。それはそうとねえ愛華。あなた、これ、使った?」

「?」


 愛華は寝ぼけ眼をこすって、わたしが手に持ったボトルに焦点を合わせた。


「うん。使ったと思う。喉がヘンだったから、いつもよりちゃんとした方がいいかなって」


 わたしが手に持っていたのは、うがい薬のボトルだ。

 普段は万事雑に済ませる癖に、妙な状況下では神経質な女だ。


「クジンで朝ご飯を食べたって言ってたわよね。和風朝食定食だったかしら。ワンコインの」

「499円(税込)だったよ」

「献立は憶えてる?」


 愛華は目を天井に向け、思い出している様子だった。

 しばらくしても思い出せないような様子だったので、わたしは溜息をひとつして言葉を続けた。


「確かあの店の和風朝食定食は、鮭の塩焼き、味噌汁、ごはん、お漬物だったと思うんだけど」

「ああ、そうだったね」


 愛華は先に答えを言われたことが少しショックだったようだ。


「すぐに思い出せなかった……。病気の兆候? 若年性の認知症かな」

「認知症の予防には、運動が効果的だそうよ」


 わたしは愛華の生活習慣を思い描きながら返答した。愛華は刹那苦笑いを浮かべた。


「ごはんを食べたでしょう? お米にはデンプンが含まれているの。そしてうがい薬」


 わたしはうがい薬の成分表を見ながら、生徒に教えるように抑揚をつけゆっくりとした口調で言った。


「うがい薬にはヨウ化カリウムが含まれているわ。これはヨウ素液──ええと、デンプンと反応する試薬ね──それの代わりとして使えるの。恐らくだけど、愛華はこれを水に薄めてうがいをした。ごはんを食べてすぐだったから、口の中にデンプンが残っていた。だから吐き出したら青紫色に変わっていたのよ」

「うーん。でも、あたしが見たのは黒かったよ?」

「洗面所の電気、消していたんじゃないの? 朝方だとまだ薄暗いけど見えるし。その中だったら、青紫色が黒く見えても仕方ないわ。デンプンが濃いと、青紫というよりも黒に近い色になることもあるし」

「なるほど〜」


 愛華は得心が言ったように起き上がった。


「さすが先生だ。中学校で理科を教えているだけあるね」


 賞賛としては微妙な内容の軽口を叩く。

 ウイルスやら病気の心配が無くなった途端に元気そうだ。「病は気から」とは言うが全く真理だなと思わされる。現金なものだ。


「ドラッグストアでいろいろ買ってきたわ。夕飯にしましょ。オードブルが売ってたから買ってきたの。あとお風呂も入りたいな」

「あ、お風呂は昨日のうちに洗っておいたよ」


 意外な答えに礼の言葉はいつになく素直に出た。


「あら、ありがとう」

「ふふっ。いえいえ、お互い様ですから」


 稼ぎ担当はわたしで主婦担当(自称ニート)は愛華。この生活スタイルになって一年余り。いまのところうまくやっている。


「先にごはんにする? お風呂にする? それとも、あ・た・し?」

「お風呂にしたいわ。疲れたし。……ああ、ねえアイ」


 わたしは一度言葉をきって、愛華から目線を逸らしながらおずおずと告げた。


「……お風呂、一緒に入らない?」

「……あら恵子けいこさん、珍しいこと」


 愛華は吹きそうな表情を何とか堪えているような、得も言われぬ表情を作った。

 自分の顔が赤くなっているのが分かって、それもまた嫌で気持ちの行き場が無くなった。止まらなくなったラジコンカーみたいにグルグルしている。

 愛華はそんなわたしの内情も推してひっくるめて笑って、足取り軽く湯船に湯を溜めに向かった。


 素直じゃないの、という声が聞こえた気がした。

 わたしはカバンからドラッグストアで買ってきた入浴剤を取り出そうとして、なんだか一層恥ずかしくなった。

 


 




 


 風呂を上がってルームウェアに着替え、夕飯を啄ばむ。


「たまにはこんな夕飯もいいわね」

「! 恵子さんっ! それはあたしの手料理が食べられないってことっ!?」

「あはは、誰のマネよ。怒るフリならもう少しちゃんとやりなさい。そんなんじゃ教師にはなれないわよ?」


 わたしは笑って缶ビールを呷った。


「むうっ。恵子、自分で思っているよりポーカーフェイスできてないよ。さっきの風呂入ろうって誘った時もそうだし、あとベッドのう──」

「はいちょっとストップ!」


 これ以上何か言わせてたまるか。

 わたしは神がかった速度でテレビのリモコンを取ると、ニュースでもバラエティでもなんでもいいからと電源をつけた。とにかく話題を変えたかった。


 テレビの中では、地元のテレビ局がローカルニュースを放映しているところだった。


 見覚えのある景色が映る。

 何のことは無い。このマンションの向かい側、レストラン・クジンだ。


「──本日午後、○○市△△町のレストランチェーン・クジン〇〇店で、この店の日替わり和風定食を食べた顧客が腹痛を訴えていることが分かりました。県は、同店の営業を一時停止し、原因の究明を急いでいます」


 わたしは愛華を見た。愛華もわたしを見ていた。ふたりの視線が交錯する。互いの顔色が変わっていた。頬を汗が伝ったのが分かった。


「あれ……、なんかやっぱり腹痛が……」

「そういえば愛華、最初にお腹痛いって言ってたわね……」


 病は気から、てっきり不安になっていたせいだと思っていた。


「一応念のため、病院に行っておいた方が……」

「この時間からやっている病院、あるかしら」


 時刻は午後十時になるところだった。

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ケイとアイ 佐藤山猫 @Yamaneko_Sato

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