第百一話 水泳競争
トレーニングが終わったあと、俺たちはプールにやってきた。水泳部が練習をしていたようだが、ホワイトボードにはもうすぐで午前の練習が終わりと書いてある。俺たちと入れ替わりになるのだろう。
「ねえ、あそこにいるのってどこの科の人?」
「運動部っぽいけど、あんな人いたっけ……」
「……待って、めっちゃいい身体してない?」
「ちょっ、何言ってんのいきなり……って、みんな見てるし……」
プールの向こう側にいる生徒たちは、俺に聞こえているとは思っていないのか色々話している――その距離でも分かるほど、俺は鍛えられている感じに見えるのだろうか。
『旧アストラルボーダー』内でもプレイ中に筋肉がついたように感じていたが、ログアウトしても鍛えられたままというのがなんとも不思議だ。脳の信号が筋肉に伝わっていたとか、原理的にはそういうことなのだろうか。
しかし見られていると落ち着かない――今から隠れたら聞こえているのが分かってしまうし、とりあえず屈伸などをして誤魔化すしかない。
――水に入るときは準備運動をしっかりしなきゃ駄目ですよ。
――心臓に遠いところから水をかけるんだったかな。
――水に濡れると雷撃弾が使えない。レイトも雷魔法を使うときは気をつけて。
『旧アストラルボーダー』では潜水が必要なダンジョンがあり、そのときは『アダプトグラム』という環境に適応する呪紋で対処ができた。『水中』だけでなく『高温』などの過酷な環境にも対応できる、特殊魔法レベル6の高位呪紋だ。
今の俺は固有スキルとして『スキル限界+3』を持っているので、スキルレベルの上限が軒並み上がっている。
レベル10が最高だった攻撃呪紋も、理論上はレベル13まで解放できる――自由にスキルポイントを振れていたらと改めて痛感するが、こればかりは仕方がない。
「レイ君、なーに考え事してるのっ……って、ビクともしないんですけど」
「っ……姉崎さんか。そう簡単には落とされてあげられないな」
姉崎さんは俺を軽く押しただけなので、本気でプールに落とそうとしたわけではないようだが――と思いつつ振り返ると。
「あ、意外そうな顔してる。あーし、こう見えても水泳得意だからね。中学のときは強化選手ってやつだったし。せつりんにスカウトされるだけのことはあるっしょ?」
人に歴史あり、というのか――それより何より、姉崎さんが競泳用の水着を着ていて、それが似合っていることに驚かされる。
「せつりんとこよちゃんも、昨日買ったっていう水着じゃなくてトレーニング用のやつだよ。揺子ちゃんは着替えるのためらってたけど、レイ君がいるからかな」
「そうなると俺は、どこかプールの隅にでもいるべきかな……」
「だーめ、お兄ちゃんは私と競争するの」
「じゃああーしが審判してあげよっか。こういう時のためにホイッスルとか持ってるし」
姉崎さんがいると、スポーツ関連のサポートが万全になる――あまりに頼りになりすぎるので、自然に尊敬の念が湧いてくる。
「レ、レイ君、あーしなんて大したことしてないんだから、そんな顔しないでよ。あーもう、マジ照れなんだけど」
「玲人、英愛さんと競争するの? 私も参加していいかしら」
「あ、あの、坂下さん、そんなに隠れなくても……」
坂下さんが黒栖さんの後ろに隠れてこちらにやってくる。しかし覚悟を決めたようにこちらに出てくる――清楚というか、シャープなラインというか。
「……こ、このような私でも、参加してよろしいでしょうか……その、競争に……」
何を遠慮しているのかというのは微妙に察してしまった。しかしスレンダーな体型ということが悪いなんてことは全くない、そう言い切れる。
「じゃあ一緒に泳ごうか。なんて言っておいて、そんなに泳ぎに自信はないんだけど」
「水泳を速くする魔法というものはないのね。魔法でスピードを上げた場合はどう?」
「そうか、その発想は無かったな。じゃあ全員『スピードルーン』をかけてみようか」
《神崎玲人が『スピードルーン』を発動 『マルチプルルーン』により全体化》
「この魔法は目に見えて身体が軽くなるわね……普段の生活でも使いたくなってしまいそう」
「お兄ちゃん、みんなにこうやって魔法を使ってるの……? お兄ちゃんの魔法なしでいられなくなっちゃったらどうするの」
「何の心配をしてるんだ……それより、普通に英愛にも魔法をかけたけど大丈夫か?」
「ゲームの中でかけてもらったときと似てるっていうか……ほとんどそのまま? って感じ」
「はーい、みんな位置についてー」
姉崎さんに促され、帽子を被ってゴーグルを装着し、飛び込み台に並ぶ。飛び込みについてはみんなやったことがあるようで、その点は問題なさそうだ。
「よーい!」
ピッ、と姉崎さんが笛を吹く。俺たちは一斉に飛び込む――水中でも『スピードルーン』は効果を発揮しており、水を掻き分けてグングン進んでいく。
(雪理も速いけど、坂下さん……そしてうちの妹がこんなに速いとは……!)
50メートルプールを泳ぎきり、壁にタッチする。ほぼ同着か、それとも――順位を確認する前に、何かプールサイドがざわついていることに気づく。
「えっ、今のタイムヤバくない? うちらより速い……?」
「あの男の人、もしかしてよそから来た選手だったり……?」
「ちょっとプールに寄って記録出してくとかヤバ……私らもエンジョイ勢とか言ってる場合じゃなくない?」
やってしまった――魔法を使ってこんなに速くなると思っていなかった。本職の水泳部より速くなってしまうとは。
「めっちゃいい勝負だったけど、揺子ちゃんが速かったかな」
「……水の抵抗が少ないので、私が有利であるというのは承知しております」
「や、それは言ってなくて……揺子ちゃん、沈まない沈まない」
「揺子、しばらく見ていないうちに速くなったわね」
「優さん、お兄ちゃんより私の方が速かったですか?」
「タッチの差って感じで、妹ちゃんのほうが速かったかな」
「負けたか……これは特訓が必要だな。姉崎さん、これからフォームのチェックとかできるかな?」
プールから上がりつつ聞いてみると、姉崎さんはなぜかとても嬉しそうにする。
「負けず嫌いなとこあるんだね、レイ君」
「い、いや……まあ、結構楽しかったからさ」
「私も負けず嫌いですが……と、横から口を挟んではいけませんね」
「揺子、玲人に勝ったらお願いしたいことがあると言っていたけれど……」
「っ……そ、それはいいのです、神崎様に事前にお伝えしておりませんでしたので」
昨日の訓練所の件の延長ということか。二つ隣のコースで、坂下さんが恥ずかしそうに半分くらい顔を水に沈めてしまう。
「俺から有効を取ったらって話なら、今の勝負も有効でいいんじゃないか」
「っ……そ、そのようなはからいをして頂いては、棚からぼた餅というか……」
「ぼた餅って美味しそうだけど、あーしは洋菓子の方が好きだなー」
「私も好きです。お兄ちゃん、また今度お買い物行こうね」
「い、いえ、スイーツ巡りをご一緒したいというわけではなく……」
「揺子には揺子のお願いがあると思うから、ゆっくり考えると良いわ」
こうして俺たちの勝負は爽やかな幕切れを迎えたわけだが――水泳部の面々がこちらにやってきて、何かみんな神妙な顔をしている。
「あの、皆さんってこれからもここのプールに練習に来るんですか? 良かったら私たちと一緒に……」
「皆さん凄いですね……あれ? そ、そこにいるのは……プリンセス……?」
「プリンセスって、討伐科の『姫』!? ど、どうしよう、あの、後でサインください!」
「……玲人」
雪理が意見を求めるように俺を見るが、如何ともしがたい。水泳部の関心は完全にプールに舞い降りたプリンセスに向かっている。
「ちょっと、置いていこうとしないで欲しいのだけど……薄情者」
「っ……え、えーと。ごめん、今はトレーニングの後のクーリングダウンで来てるから」
「あっ、す、すみません……」
「やっぱすごい良い筋肉……ねえ、どんなプロテイン飲んでるの?」
「何聞いてんのもー、あたしのサインのために大人しくしてなさい」
「まだ書くとは言っていないのだけど……玲人、代わりに書いてくれる?」
雪理が投げやり気味になっているのは珍しいが、こんな状況では無理もない。彼女も人気者ゆえの苦労があるのは想像に難くない。
とりあえず水泳部には撤退してもらい、後は自分たちのペースで水泳を楽しむ。筋力経験値は一日に獲得できる量に限界があるようで、筋力を短期間で大きく上げることは出来ない――そんなわけで、今後もこの学園内ジムに通うことになりそうだ。
◆◇◆
ミーティングカフェは土曜日も営業しているので、昼食を摂る場所には困らなかった。
「木の実を食べる姿は、魔物と言われても信じられないわ……本当にリスそのものね」
水泳の時間は更衣室で昼寝をしていたフワリだが、今は木の実をカリカリと食べている。
「この魔物と同種の魔物が現れたとき、戦うのは少し気が引けますが。そのような甘いことは言っていられないのでしょうね」
「大人しい個体もいるっていうか、結界で外部と遮断されたのが良かったってことなのかな。魔物ってのは、そういう性質があるんだ」
「特異領域の内部の魔物はすべて攻撃的だけれど、結界で遮断すれば……個人でそれをするのは難しそうだし、現実的ではないかしらね」
『
しかしダンジョンだというなら、そこには必ず『クリア』がある。風峰学園の管理下にある訓練用のゾーンでは問題がありそうだが、クリアしても問題ないゾーンなら踏破に挑んでみる価値はある。
「……あら、英愛さんはおねむみたいね。少し疲れてしまったかしら」
「大丈夫……です……」
「今日は疲れたよな。タクシーで帰った方がいいか」
「っ……だ、大丈夫だよ、お兄ちゃん。ちゃんと自転車で帰れるから」
「では、少し休んでいった方が良さそうですね。医務室のベッドなら借りられると思います」
「えっ……あ、あの、私そんなに……」
「で、でしたら……私も英愛さんに付き添います」
黒栖さんがそう申し出てくれて、英愛も一休みすれば大丈夫ということで了承する。姉崎さんもついていき、坂下さんは拳術部に顔を出すとのことで、俺と雪理だけになった。
「トレーニングの後の休憩……ってことでいいのかな。雪理は疲れてないか?」
「あなたの魔法ですごく元気だけど、眠気はそれとは関係ないのかもしれないわね。寝るのにも体力が必要だっていうし、英愛さんもよく休めると思うわ」
なるほど、と雪理の話を聞いて納得する。まあ寝る子は育つと言うし、特に心配することもないだろうか。
「合流するまで何をしていましょうか」
「ウィステリアに憑依していたデーモンを、使役してみようと思う。それができれば『特異現出』についての情報が得られるかもしれない」
「っ……そんなことが可能なの?」
「できるはずだけど……ちょっとこれは、他の人が立ち会わない方がいいかもしれない。相手は憑依型の魔物だからな、万一ってこともある」
「……あなたのことだから心配はないのでしょうけど。私も行ってはいけないの?」
雪理はじっとこちらを見る――少し瞳が潤んでいて、その目で見つめられると弱い。
「え、えーと……分かった、一緒に立ち会ってくれるかな。そうなったら安全は完全に保証するというか、危険だと感じたら使役はせずにそのまま封印するよ」
「……良かった。せっかく二人なのに、置いていかれたら寂しいもの」
「せ、雪理。他にもお客さんが……」
なにげなくテーブルに置いていた手を、隣に座っている雪理に取られる――こんなところを誰かに見られたら、と焦らざるをえない。
「お、お客様……お済みのお皿のほう、お下げしてもよろしいですか?」
「え、ええ、ありがとう……玲人、綺麗な爪をしているわね」
さすがに多少無理があったが、カフェ店員のメイドさんは何も見なかったふうを装ってくれる。雪理は顔を赤くして、少し外すと言って席を立った。
「姫が冒険科のカフェに来るの、やっぱり神崎に会いに来てんだな……」
「土曜日にも姫を見られるなんて眼福でしかないんだけど。ありがたやー」
「ああ、雪理お姉様……今日もお麗しい。お姉様がいつも座るあの椅子になりたい」
あの雪理を慕いすぎている女子生徒はどこにでも現れる気がするのだが、気のせいだろうか。そんなことを考えつつ、水で喉を潤した。
◆◇◆
「玲人、それでどこに行くの?」
「学園内の
「私をそんなところに連れていってどうするつもり? なんて、冗談を言っていてはいけないわね。使役のために、他の人がいない場所を使いたいのね」
「ああ。職員室に行って聞いてみようか」
「担任の先生に聞いてみるのはどうかしら」
「その手があったか。イズミ、クラスの連絡網に武蔵野先生のアドレスはあるか?」
《はい、登録されております》
イズミに頼んで番号を教えてもらい、スマートフォンで電話をかける――すると、しばらくコールしたあとにつながった。
「武蔵野先生、先程はお世話になりました。今回はまた違う用事なんですが……」
『はい、何でも言ってください。先生は嬉しいです、神崎君に頼ってもらえて』
「この学校に、魔法を使った儀式というか、そういうことに使う場所ってありますか?」
『そういった大掛かりな魔法を使う場合は、魔法実験棟を使いますね。主に呪いを解いたりする用途に使われます』
「そこは誰でも入る許可を得られますか?」
『はい、担当の先生に連絡しておきますね。今日の神崎君はすごく活動的ですね……それとも、いつもこんなふうに学園内を飛び回っているんですか?』
「今日は結構いろいろやってますね。さっきまでジムでトレーニングしてました」
『時間の使い方が上手なんですね、神崎君は。私はそういうのが下手なのでこの歳まで独り身で……』
「い、いや、先生は凄く立派な先生だと思ってます、俺は尊敬してます」
『……本当ですか? 神崎君ったらお世辞が上手なんですから』
何か先生がダークな方向に行きそうなので引き止めたかっただけなのだが――武蔵野先生は髪の色からして『陰属性』の魔力を持っているので、そういう人は闇落ちしがちという文字通りの特徴がある。
――あのNPCの人は、レイトさんのことが気に入っているんですね。
――どちらかと言えば、あれは依存してるってやつなのかな?
――あれは多分、ヤンデレ……? みたいな性格付けだと思う。
『やっぱり神崎君は度量が広いですね、先生より強くて大人だなんて、もうどちらが先生なのか……』
「いえ、そんなことは……と、とにかく先生、よろしくお願いします」
武蔵野先生の最初のイメージは生徒に対して厳しいところもあるというか、一癖ある先生という感じもしたが、今となっては甘くなりすぎて逆に駄目な気もする。先生と生徒、その関係性を立て直すにはどうすれば――と、考えている場合ではない。
「ちょっと受け答えに困っていたみたいね。何かあったの?」
「まあその……優しい先生ではあるんだけど」
「あなたは人たらしというか、そういうところがあるものね」
「す、凄い勘だな……」
「乙女の勘というのはこういう時に言うのかしらね。なんて、ごめんなさい」
「乙女の勘は第六感だからな……って、よく知らずに言ってみるけど」
「相手が先生でも、バディのあなたが何を話しているか気になるだけよ」
魔法実験棟の位置をイズミにガイドしてもらって歩く間も、雪理はしきりに話しかけてくる――とりとめのない話だが、それが心地良いと思う自分がいた。
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