第百四話 思い出話

 水澄先輩はまだご両親が心配しているからとのことで、少し歓談したあとで帰っていった――またアドレスを交換することになり、俺のアドレスデータがかつてない登録数になりつつある。


 帰りは校門前で解散し、英愛と一緒に自転車で帰ってきた。居間でのんびりしていると、妹も斜向かいのソファに座る。


「お兄ちゃん、びっくりするくらいどこに行っても人気あるよね」

「まあ、水澄先輩が挨拶に来てくれたのは予想外だったな」

「あ、ちょっと誤魔化してる。プールでも人気だったよね、お兄ちゃんの……えっと、身体が仕上がってるとか……」

「そ、それはまあ……筋肉とか好きなんじゃないか? 俺はそう筋肉質でもないけど」

「そうかな?二の腕とかカチカチだよ、私なんてほら、全然ぷにぷにしてる」


 英愛は俺の腕に触ってから、自分の二の腕を俺に触らせる。確かこの部分は、他の部分と柔らかさが同じだとか――と、頭に過ぎった考えを散らす。


「はあ、私ももう一年早く生まれてたら、お兄ちゃんと二年間高校に通えたのに」

「……中学の時は、一年間一緒だった……んだよな」


 俺にとってはログアウトした後に初めて会った妹。だが、彼女がこの家で生活してきたというなら、その分だけの過去が存在することになる――俺たち家族と一緒に過ごした記憶が。


「お兄ちゃん、中学の時は今と違ってたよね。私とあまり学校で話してくれなかったし、周りの人には妹なんていないって言ってたり……」

「……俺は、そんな酷い兄貴だったか?」


 記憶にないことでも、英愛の中で『そうなっている』のならば、謝らなければならない――俺は彼女を妹として受け入れたのだから。


「ううん、本当は優しいお兄ちゃんだって分かってたから。入院しちゃった時も、学校を休んでずっとついてたの」


 俺が『Dデバイス』をつけてデスゲームにログインしていた時間――その間も、英愛は傍にいたというのだろうか。しかし俺は目覚めた時にはデバイスをつけていなかったし、Dデバイスは元々存在しなかったはずのダイブビジョンに変わっていた。


 ログアウトした後の現実が、元の現実から変化している。魔物のいなかった『元の現実』に形だけ酷似している、別の世界に飛ばされてしまったかのように。


 並行世界――思い浮かべたのはそんな言葉だった。並行する二つの世界があり、俺はデスゲームにログインすること、そしてログアウトを通して、世界間を移動したのだとしたら。


(デスゲームからログアウトできたとして、ソウマたちが行き着くのは……この世界っていうことになるのか……?)


「……お兄ちゃん? 病院でのこと、思い出しちゃった?」

「……いや。何でもない、それで黙ったわけじゃないよ」

「そっか……ん、そろそろ夕ご飯の支度しなきゃ」

「ああ、俺も手伝うよ」

「いいの、お兄ちゃんは座ってて。ずっと動きっぱなしだから、休むときは休まなきゃ」


 英愛はエプロンをつけてキッチンに入っていく。俺は部屋の中を見回し、見えるものが記憶と一致していることを確認し――あるものに気づく。


 キャビネットの上に置かれた写真立て。家族写真――その中に、俺と妹が二人で映っているものがある。


《――警告 神崎玲人の感情バイオリズムが変動》


「っ……」


 ドクン、と脈打つような頭痛が走り、俺は写真に触れるのをやめる。


 ソファに座って息を整えるうちに、イズミの警告は止まった。


 それまでは知らなかったはずだった。ログアウトしてからしか存在しなかった英愛の記憶が、まるで前から存在していたかのように、俺の頭の中にあった。


(俺は……間違いなく一人なんだ。ログアウトする前も、デスゲームの中にいた間も、そしてここにいる俺も……それでも……)


 それが答えだとは限らない。それでも今分かるのは――ここが並行世界の類であったとして、元からこの世界にいた『俺』は、ここにいる俺と繋がっているということ。


 自分が経験していないはずの過去が、確かにこの世界にはある。それがどれだけの矛盾を生んでいるのか――自分という存在の足元が定まらなくなる、そんな不安に押し流されそうであっても。


「……あ、お兄ちゃん。いいって言ったのに……手伝ってくれるなら、お願いしちゃおうかな」

「ああ。タマネギの皮むきなんかは任せてくれ、俺も苦手だけどな」

「じゃあ水泳のときのゴーグルつけちゃえば? 持ってきてあげよっか」

「それは名案だな」


 妹と二人で写っていた写真。十歳くらいの俺と、英愛とが、はにかんだような顔で映っていた。


 存在しないはずのその写真を見た時に感じたのは、懐かしさ。


 そして、ありもしない記憶を本当のものだと受け入れようとする自分に対する違和感。


「……英愛と昔、写真撮ったよな。居間に置いてあるの、久しぶりに見たよ」

「あの頃って、まだお兄ちゃんと仲良くなれてなかったよね。お母さんが一緒に写りなさいって言って、お兄ちゃんしぶしぶ入ってくれたの」


 また一つ、変わっていく。ログアウトする前の俺と、今の俺が重ならなくなる。


 並行世界というのは一つの考え方で、変化したのは世界そのものなのかもしれない。俺が元とは違う、別の世界に移動したのかはまだ確定していない――確定できる材料が揃っていない。


 両親はこの世界でも変わらないままで、写真に映っていた。


 俺が守るべきものは確かに『この現実』にある――仲間たち、出会った人々、そして妹。


「あはは、お兄ちゃんゴーグルつけないから。しょうがないなー」


 妹がティッシュで俺の目元を押さえる。甲斐甲斐しくされて、照れ笑いをするしかない。


「……昔ね、私が公園で喧嘩して泣いてたとき、お兄ちゃんが助けてくれたの覚えてる?」

「ああ、英愛のことが気になってた男の子が意地悪言ったんだったか」

「お兄ちゃん、いつもぶっきらぼうだったのにあの時はね……かっこよかった。私、あのときお兄ちゃんが助けてくれなかったら、そのまま男の子が苦手になってたかも」

「そんな極端な……と言いたいが。あの時は、そうしたくなったんだろうな」

「あはは、だろうなってお兄ちゃん他人事みたい」


 今日のメニューは手作りハンバーグのようだ。妹の昔話に相槌を打ちながら、彼女に指示されるままに料理の助手をした。


   ◆◇◆


「ふう……」


 先に風呂に入れと言われたので、言われるがままに入っているが――妹の好みで入れられた入浴剤はフローラルな香りがする。これでは兄妹で同じ香気をまといかねないが、特に問題ないといえばない。


 ジムでのトレーニング、そして水泳の時間。そして魔法実験棟――メリュジーヌを受肉させた件については、やはり考えずにはいられない。


「魔女神……メフィオラ……」


 デスゲームの中で討伐したのは魔神アズラースだ。旧アストラルボーダーにおいては、それ以外に最終ボスがいるという情報は得られなかった。


 もし魔女神がアズラースと同等の力を持っていたら――それでなくても、俺一人で勝つことは困難だ。


 ソウマ、イオリ、ミア。三人がログアウトできて、俺と同じようにゲーム内で得た力をそのまま持っていれば――だが、メフィオラが現れるまでに、三人にもう一度会えるかは分からない。


(そして……アズラースとの戦いで、三人は命を落としている。そんな戦いにもう一度挑まなければならないとしたら……)


 あの絶望を二度と繰り返したくはない。仲間たちとまだ会えていない俺は、本当はまだ安堵などしてはならない――。


(エリュジーヌは俺の従僕になった……ならば、言っていることに嘘はない。魔女神メフィオラは存在していて、この世界に魔物を送り込んでいる。そういうことだ)


 『もしも』が本当に起きたときのために、準備が必要だ。可能な限り強くなり、強力な装備を手に入れ、協力できる仲間を増やす。


『お兄ちゃん、そろそろのぼせちゃわない?』

「ああ、そろそろ上がるよ」

『はーい、それじゃ私も……きゃっ……!?』

「っ……英愛、どうした!?」


 悲鳴が聞こえて浴室の扉を開ける――すると。


「フワリちゃん、ついてきちゃってたの? びっくりしたよー、もー」


 英愛の胸に抱かれて、フワリがわたわたと暴れている。姉崎さんが飼うことになったはずなので、こんなところにいたらかなり心配しているだろう――と。


 英愛の視線が俺の顔から、下にスッと移動していく。俺も同じ方向を見て――。


「……あ……」

「……失礼」


 できるだけさりげなく、俺は一歩下がってカラリと浴室の戸を閉めたが――。


『……お兄ちゃん、私気にしてないよ? えっと、昔も一緒にお風呂入ったことあるし』

「その気遣いはいいから、いったん外に出ててくれっ」

『あっ、はーいっ……フワリちゃん、おいたする子は一緒にお風呂で洗っちゃうからねっ』


 妹に裸を見られた――思いっきり。レベル100を超えたこの俺が、反射的に動くということを完全に忘れた。


 いや、これこそが油断だ。レベルやステータスに慢心するようなことがあってはいけない。


 改めて浴室を出て、脱衣所に出る。この落ち着かなさは――見られたのは俺なのに、やってしまったという思いにしばらく悩まされた。

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