第五十一話 ベータテスト

「お兄ちゃん、ありがとう。いつも乾かすの大変なの」

「確かに大変そうだな……こういうの、俺がやってもいいのか?」

「うん、適当に乾かしちゃっていいよ」


 風呂上がりに俺が髪を乾かしていると、妹がじっと見てきた――その意図をなんとなく察して、今はリビングで妹の髪を乾かしている。


 銀色の髪は乾くとサラサラになり、手触りが良い。ドライヤーの熱風を当てすぎないように最初は手間取ったが、そのうち慣れてきた。


(『アストラルボーダー』だと、マジックアイテムで乾かしてたな……)


 ミアとイオリが互いに髪を乾かし合っていたことを思い出す。男女で別の部屋を取っていたが、入浴後のミーティングは俺達の部屋で行うことが多かった。


「……お兄ちゃん?」

「ああ、悪い。ちょっと考え事をしてただけだ」

「なになに? 気になる。お兄ちゃんゲーム好きだから、ゲームのこと?」

「確かにゲームは好きだけどな……今はそうそうやる気にならないけど」


 そのうち『アストラルボーダー』の正式サービスが始まったら、一度はログインしなくてはいけない。


 しかし、あのヘッドギア型のデバイスを着けること自体にまだ抵抗がある。短時間つけるだけでも、気分はいいとは言えなかった。


「お兄ちゃん、入院する前にゲームをしてたんだよね……VRゲームが合わなくて、体調が悪くなっちゃったのかな」

「それで意識を失うってことは、普通ないと思うけどな。テストで問題が起きたってニュースが流れてないわけだし」

「自分のことなのに、そんなに落ち着いちゃって。損害賠償……? とか、そういうお話になってもおかしくないのに」

「そこまでは思い当たらなかったな……」


 俺が知っている『アストラルボーダー』と、これから正式サービスが始まるゲームは明らかに別物だ。正式サービス時に変更があることは珍しくないが、なんというか、手触りが違うと感じられる。


 テスト期間だけあのゲームがデスゲームだったとして、それが問題にならないわけもない。『俺がゲームにログインした当時の現実世界』と『俺がログアウトした現実世界』には、地理や文明の発達度合いなどは共通点が多いものの、やはり同一とは思えない。


 魔神アズラースを倒したあと、俺は叶えらえる願いとしてログアウトを希望せずに死んだはずだった。つまり、正規のログアウトではないからこんなことになっている――だとして、誰がそんなことを仕組んだのか。


 あの耳から離れない声。ガイドAI――もう一度ログインしても同じAIではないだろう。ガイドAIではなく、それを作った何者かが、全ての疑問の答えを持っている。


「……そうだな。ゲームの製作者に話を聞きたい……難しいかもしれないけど」

「私はお兄ちゃんに協力するよ。何かできることないかな?」


 髪を一通り乾かし終えてドライヤーのスイッチを切ると、英愛は自分で櫛を通し始める。そして、自分が座っているソファの隣をぽんぽんと叩く――座っていいということらしいので、言葉に甘えることにする。


「英愛はしっかりしてるから、相談できることは相談するよ」

「そういう言い方だと、私が子供っぽいみたいじゃない? 意外にしっかりしてるとか」

「意外ってことはないよ。目が覚めてから、ずっとお世話になりっぱなしだ」

「……だから、一緒にお風呂に入ってくれたの?」

「ま、まあそれは……今日は特別だぞ。俺が姉さんならいいけど、兄貴だからな」

「ありがとう、お兄ちゃん。のぼせちゃいそうで、スキル? っていうの使ってたよね」


 確かに隠してはなかったが、意外に注意深く見られているものだ。理由あって一緒に入りたかったとはいえ、やはり気にすることは気にするということか。


「私もスキルは使えるみたいなんだけど、まだ何ができるのか分かってないんだよね。職業ジョブを調べるって、どうしたらいいのかな」

「雪理……折倉さんに聞いてみるよ。俺も入学した時の記憶が飛んでるからな」

「あ……ご、ごめんなさい。そうだったんだ、お兄ちゃん、記憶が……」


 実は英愛のことも覚えていなかったんだ――とか、そんなことを言ったら、こうやって家族として過ごす時間が終わってしまいかねない。そうなったとして、この家を出ていくのは俺の方になるが。


「だからお兄ちゃん、私に対してちょっと遠慮してるの?」

「……正直を言うと、それもある。ごめん、英愛」

「ううん、気づかなかった私も悪いから。でも、お兄ちゃんがこの家に帰ってきてくれたら、私はそれだけで嬉しいよ」


 英愛が俺の方を見て微笑む――言葉通りに、心から嬉しそうで。


 助けられて良かったと改めて思う。もう二度と、彼女を危険な目には遭わせたくない。


「私もお兄ちゃんに教えてもらったら、強くなれるかな?」

職業ジョブがわかれば、教えられることはあると思う。ある程度自衛の手段はあったほうが安心できそうだ……本当は、討伐隊に任せられたらいいんだけどな」

「一度にいろんなところで魔物が出てきちゃうと、今日みたいなこともあるんだって。私、クラス委員だから、体育の時に騒ぎになって、みんなと一緒に逃げて……でも、裏庭のところで、急に……」


 英愛の表情が曇る。これ以上思い出させてはいけない――そう思い、『リラクルーン』を発動させて、気持ちを落ち着かせようとする。


「……大丈夫か? 今は思い出さなくていい、怖い思いをしたな」


 英愛は何も言わず、俺を見る――そして、隣に座る俺の肩に頭を預けてきた。


「ちょっとだけ、こうさせて。すぐ元気になるから……」

「……今日はもう、休んだほうがいい。それとも、何か気が紛れるようなことでも話そうか」

「ううん、大丈夫。そうだ、お兄ちゃんと同じゲーム機、もう届いてたんだった。早いよね、通販で頼んだらもう来ちゃうなんて」


 緊急警報が出ていても、荷物を届けてくれた配達員の人には頭が下がる。ダイブビジョン自体はそれなりに普及していて、ネットでいつでも購入できるが、評価は軒並み高く、事故があったというレビューもなかった。


「お兄ちゃんがやってた『アストラルボーダー』は……しないほうがいいかな?」

「そうだな……俺は、一度は触ってみようと思ってるけど」

「っ……それなら、私も一緒にやりたい。お兄ちゃんが一人でするのは心配だから」


 英愛が心配するのは分かるが、妹を巻き込むわけには――いや、もう十分巻き込んでしまっている。


「私のことなら心配しないで、こう見えてもゲームとか得意だから」

「……分かった。入院しておいてなんだけど、俺はダイブビジョンはただのゲーム機だし、『アストラルボーダー』にも問題はないんじゃないかと思ってる」

「そうなんだ……お兄ちゃんが続けたいなら、いいと思う」

「続けるというか、正式に始まったらどんな感じか見てみるだけだぞ?」

「うん、分かった。じゃあ、お兄ちゃんがもういいっていうところまで一緒にやりたい……あ、お兄ちゃん、スマホが鳴ってるよ」


 ダイニングテーブルの上に置いてあったスマホが振動している。取りに行って確かめてみると――そこには『アストラルボーダー』オープンβベータサーバーオープンのお知らせというメールが届いていた。

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