第二話 ブレイサー
朝になり、妹が呼んでくれたタクシーで自宅に戻ることになった。
入院期間は、記録上たった三日間でしかない。四日目朝に退院ということで、俺の荷物はほとんどない。ほとんど身一つで車に乗っている。
「お兄ちゃん、身体は大丈夫?」
「ああ……心配かけたな。それで、ええと……」
退院するときの書類にも、両親の代理として妹がサインしていた。普通は保護者がするものだろうが、自宅に不在のために来られないということで話が通っていたらしい。
つまり入院の手続きなど全てを彼女がやってくれたということになる。俺が昏睡しているうちに記憶を失ったわけでないのなら、間違いなく俺の妹であるというが――。
「なんでも聞いてくれていいよ。まだ起きたばかりで、分からないこともあると思うし」
「その……俺は、君のことをどうやって呼んでたのか、なんて聞くのも変だけど……」
「ううん、先生は一時的な記憶の喪失が起こることもあるっておっしゃってたから……思い出せないことがあったら、全部私が教えるね」
妹はそう言って、改めてというように仕切り直してから言った。
「お兄ちゃんは私のこと、エアって呼んでたよ。漢字はこうやって書くんだけど」
エア――外国人のような響きだが、妹が見せてくれた生徒手帳に『神崎英愛』と書かれていて納得できた。
「エア……」
「っ……な、なに……?」
「俺の名前は神崎玲人……でいいんだよな」
「な、なんだ……急に呼ばれたからびっくりした。うん、レイトお兄ちゃんだよ」
「ありがとう。でも英愛って、音だけ聞いたら外国の人みたいだな。その、髪の色も……」
「うん、それもあってる。この髪はお母さん譲りで、お兄ちゃんはお父さんの髪の色を継いでるの……どう、思い出した?」
教えてもらってようやく、母さんがロシアの血を引いていることを思い出す。妹が、その母さんによく似ていることも――いや、ここまで来てもまだ、俺には妹を妹として半分くらいしか認められていない。
「聞くのもなんだけど、制服で来てるってことは、今日のうちに学校に行くのか?」
「うん、私はお兄ちゃんの高校の附属に通ってるから、お昼からでも登校するって連絡してあるよ。お兄ちゃんは行けたらでいいから、無理しちゃだめだよ」
「……附属? 悪い、もう一度見せてもらっていいか?」
「う、うん……」
俺はエアの生徒手帳をもう一度見せてもらう。すると『風峰学園附属中学2年』と書いてある――つまり俺が通っている高校は、『風峰学園高校』ということになる。
(忘れてるだけで、正式名称はそうだった……のか? 俺が通ってた学校は、附属中学なんてものはない、普通科の学校だったはずだ……)
「……見るって、生徒手帳のこと?」
「ああ、ありがとう。ちょっと確かめたいことがあって……ど、どうした?」
いつの間にか、妹が頬を膨らませてこちらを見ている――何か機嫌を損ねるようなことをしてしまっただろうか。
「……そういうとこだよ、お兄ちゃん」
「ご、ごめん。俺、何かしたかな……生徒手帳を見すぎるのは良くないか」
「なんて、冗談。しょうがないなあ、お兄ちゃんは」
こうして見ると、改めて思うが――このエアという少女、俺の妹というのがやはり信じがたいくらいに美少女がすぎる。
銀色の髪は見ただけでわかるほどキューティクルが整っており、触れてみたいと思わせるものがある。ツーサイドアップというのか、こんな髪型で学校に行く女生徒はほとんどいないと思うが、それがあざとさもなく似合ってしまうくらいに二次元から飛び出してきたような容姿をしている。
「……あ、あの、改めて見て欲しいっていうわけじゃなくて……お兄ちゃん?」
「あ、ああいや。エアは可愛いな……俺の妹ながら」
「ひぁっ……!?」
思わず素直に言ってしまったが、妹は思い切りその場で跳ねて、ゼンマイ人形のようにぎこちなく前を向いてしまう。
「……運転手さん、そっちの道を右です」
「あっちの方は『E級現出』の警報が出てるので、迂回して行ってもいいですか。料金はその分差し引きますので」
「はい、お願いします。この辺りも、E級以上が出ちゃうことが増えましたね……」
「まあ、お役人がしっかりやってくれると信じてますよ、そのあたりはね。うちの市には、優秀な討伐隊もいることですし」
タクシー運転手の中年の男性とエアとのやり取りに、聞き逃がせないような単語が出てくる。
「E級……現出?」
「いつもなら、警報は街中ではあまり出ないんだけどね。でも、ちゃんと避けていけば危なくないから大丈夫だよ」
「……その警報っていうのは、何に対してのものなんだ?」
バックミラーに映る運転手が、怪訝な表情をする。
妹にとっては、俺が一部の記憶を失っているということで納得できるのかもしれない――しかし。
どれだけ違和感があり、俺の記憶とこの現実に齟齬があるとしても、許容できる範囲には限界がある。
だが、妹は何でもないことのように、『それ』を俺に告げた。
「魔物が出現する時に、この腕につけてるブレスレットが教えてくれるの」
――魔物。
『アストラルボーダー』の中でなら、無数の魔物を目にしてきた。経験値を稼ぐために何匹も倒してきたし、一目見ただけで震え上がるような、本能的な恐怖を呼び起こす外見の魔物も相手にしてきた。
しかし、それはあくまでもゲームの中での話だ。
ログアウトしたはずだ。それなのに、現実に魔物が出るようになっていて、それを人々が当たり前の日常として受け入れているように見える――そんなこと、到底受け入れられるわけがない。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。E級だったら、一分以内に警報が出てるところを離れたら、魔物は出てこないから」
妹が俺を落ち着かせるように言う。それに必死になって反論したとしても、きっと困らせてしまうだけだろう。
(これが夢じゃないとしたら……現実で、魔物に遭うこともあるってことなのか……?)
「お兄ちゃんたちの高等部からは、警報が出ても魔物を退治できるように訓練してる人もいるんだよね」
「魔物退治って、そんなことを学校で……?」
「風峰学園の学生さんは、卒業後に討伐隊に入ることも多いって話ですからねえ」
俺が通っていた高校とは、いよいよ違うものとしか思えなくなってきているが――今は、自分が置かれた状況を理解することに努めるしかない。
魔物が出るというのは未だに信じられないが、俺以外の誰もがそれを当たり前に過ごしているのなら受け入れるしかない――信じずに危険な目に遭うよりは、自分の常識を周囲に合わせて変えていく方がまだいい。
「……エア。俺も高等部ってことは、そういう訓練をすることもあるのか?」
「うん、実習があると思う。学校の授業だから、危ないことはないんじゃないかな」
「そう……なのか。じゃあ、やれるだけやってみるしかないな……」
訓練ということは、銃火器や武器なんかを使えるように訓練するんだろうか。さすがに訓練とはいえ、学生が銃を持てるというほど、俺の中での常識とこの現実がかけ離れていないとは思いたいが――ここまで来ると、何を見せられても受け入れる心の準備が必要だろう。
◆◇◆
幸いにと言うべきなのか、俺の家の周囲は思った以上に記憶との差異はなかった。
「……ただいま、って言うところかな」
「おかえり、お兄ちゃん」
タクシーから降り、妹に鍵を開けてもらって家に入る。父と母は仕事で家を空けている――海外で仕事をしているため、俺が入院してもすぐに帰国できず、帰ってくるのは少し先になるらしい。
「俺の部屋は、二階でいいんだよな」
「うん。私とお兄ちゃんの部屋と、あとはお父さんとお母さんの寝室だよ。あっ、階段大丈夫?」
「だ、大丈夫だ。目が覚めてから、急に元気になってるんだよな……」
エアが付き添って支えてくれようとするが、思い切り胸が当たっている。妹だからということかもしれないが、無防備すぎるのでこちらから適切な距離を取らないといけない。
「お兄ちゃんが元気になってよかった。私、学校に行く準備してるから、お兄ちゃんも行けそうなら言ってね」
「ああ、わかった。本当に色々ありがとうな」
「そんなの気にしなくていいの、たった二人の兄妹なんだから」
殺し文句のようなことを言って、妹は一階のダイニングに入っていった。すでに昼前なので、食事でもしてから行くのだろうか。
予想は当たっていたようで、台所で換気扇の回る音がする。妹がどんな料理を作るのかも興味はあるが、今はそれよりも優先しなければならないことがある――自室の状況の確認だ。
二階に上がり、自室のドアノブをひねる。入ってみると、そこは確かに俺の部屋だった。
家具やベッドの配置、置いてあるゲーム機やPCも、何も変わっては――そう、思いかけて。
「……Dデバイス……とは違う……なんなんだ、これは」
エアが言っていた、頭につけるタイプのゲーム機――しかしそれは、俺が知っているものとは全く違う形をしていた。
ヘッドギア型のデバイスではあるが、見た目が微細に異なっている。特徴的だった丸い宝石のような装飾もなくなっている。全体的に、簡素になっているのだ。
今はまだ、これを着けてゲームにダイブできるか試してみる気にはなれない。また出られなくなったらという思いがある――だが、同時に確信もある。
これはただのゲーム機だ。俺が『アストラルボーダー』に使った、あのゲーム機とは違う。見ただけで引き込まれるような、形容しがたいような魅力を感じない。
そして、もう一つ。机の上に置かれているケース――それを開けてみると、腕時計のようなものが入っていた。
「これは……」
俺がこのケースを開けることを見越していたようで、妹の書き置きも腕時計と一緒に入っていた。四つ折りにされたそれを開いてみる。
『お兄ちゃんの分のブレイサーです。高等部の生徒に支給される予定だったんだけど、お兄ちゃんが眠ってる間に届いたので、ここに置いておきます』
エアがつけていたブレスレットだが、正式な名前はブレイサーというらしい。
学園の生徒に必須のものだというなら、使い方くらい知っておいた方がいいだろうか。妹に聞く前に、俺はブレイサーを腕につけてみる。普通の腕時計と同じようにつけられたが、装飾性が高く、これの方が俺が知っているDデバイスに近いように思える。
――ユーザー識別完了 風峰学園冒険科1年生 生徒ID:5381 神崎玲人様と確認しました。
声が聞こえてくる――直接脳内に、というやつだ。どういう原理かわからないが、このブレイサーをつけていると聞こえてくるようだ。
オーバーテクノロジーというのか何なのか。ゲームの中とは違うが、どこからか声が響いてくるこの感覚は忌避したいものもあり、皮肉だが懐かしくもある。
『お兄ちゃん、どうする? 学校は行けそう?』
妹が二階に上がってきて、外から呼んでくる。
俺はいくらも迷わなかった――学校には何かいい思い出がない気がするのだが。
行かなくては始まらない。『冒険科』なんていう、すぐにでもその意味を確かめたいような単語が出てきてしまっているのだから。
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