第一話 目覚め
――眩しい。
そんなふうに感じるわけがない。意識があるというのは気のせいだ。
つまりここは天国だ。天国がこんなに現実に近いものなら、死ぬことはそれほど恐ろしいことでは無いのかもしれない。
こんなふうに、起こしに来た誰かが手を握ってくれている。そんな目覚めはとても久しぶりだ――『アストラルボーダー』をプレイしている時は男女別部屋だったし、起こしてくれる人がいるとしても宿屋の女将さんだった。
「……ちゃん……」
「……?」
ようやく光に目が慣れてきて、近くが見えるようになる。
俺の手を握りながらベッドの端に身体を預けて、誰かが眠っている。
「……お兄ちゃん……」
俺のことをそう呼ぶ少女がいたとして、それは妹でしかありえない。
俺は天国で妹に起こしてもらいたいと渇望していたのだろうか。目の前で起きていることが理解できないまま、そっと握られている手を外そうとする。
「っ……んぅ……」
起こしてしまった――気付かれないようにと細心の注意を払ったのに。
俺の妹らしい少女は、眠たそうに目をこすりながら伸びをする。
着ているのは学校の制服だろうか。もう三年六ヶ月も前のことなので記憶が曖昧だが、おそらくは俺が通っていた高校のものだと思う。伸びをするとよく分かるが、俺の妹というには年齢的にもあまりに発育が良すぎないだろうか――と、仮にも兄が思うことじゃない。
ここはどこかの病院のようだ。腕には点滴が打たれており、俺の状態が芳しくなかったであろうことは、脈などを取られていることから分かる。
何もかもが曖昧で、地に足が付かない。それでも、自分の家族構成を忘れるようなことは無いと思いたいのだが――正直に言って、戸惑っている。
「……あ……」
「……お、おはよう。ごめん、まず聞きたいんだけど、俺はどれくらい眠って……」
「――お兄ちゃんっ!」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
妹は飛び込むように、俺に抱きついてきた――瞬間的に触れた部分の感覚を遮断したくなるが、そんなスキルは現実にはない。無造作に押し付けられた柔らかい感触は、到底無視できなかった。
「お兄ちゃん、良かった……ずっと目を覚まさないから、このまま眠ったままなんじゃないかって……ほんとに良かった……っ」
「い、いや、あの……」
俺の意識の中では、ゲームの中で過ごした時間は三年六ヶ月だ。ゲームの中で死に、もう目覚めることはないと覚悟していた。
それなのに、身体が思い通りに動く。痩せてもいないし、感覚が麻痺している部分も無いようだ――妹の体温も、鼓動も感じ取れる。
しかし、異常なまでに身体が重い。泥のような疲労感が全身を包んでいるが、目覚めてから次第に良くなってきている。
(頭に着けてたはずのDデバイスも外れてる……)
VRMMOをプレイするために必要なヘッドギア型のハードは、プレイヤーの生命状態に直結しており、本来なら身体に異常が起こると強制終了される。
しかし『アストラルボーダー』はその機能が働かず、クリアするまで神経接続を切断できないという方法で、五千人のテストプレイヤーをデスゲームの箱に閉じ込めた。
ゲームクリアの報酬として、デバイスが外されたのか。しかし確かめようにも、あの淡々とした女性の声はもうどこからも聞こえてこない。
「……俺はどれくらい眠ってたんだ?」
「ごめんなさい、もうちょっとだけ……お兄ちゃん……」
妹はまだ俺から離れたくなさそうにしている。ゲームを始める前の記憶が定かではなくなっているように思うが、こんなに懐いている妹がいたら、さすがにゲームの中にいても思い出すことくらいはあっただろう。
(一体誰なんだ、この子……実は生き別れの妹がいたとか、そんなことあるか……?)
「……お兄ちゃん、三日間もずっと寝てたんだよ」
三日――それを聞いて、混乱を極めた思考回路が、一つの推論を導き出す。
『アストラルボーダー』のゲーム内時間と、現実の時間との間に大きな差があるのかもしれない。だが、体感時間で三年六ヶ月を実時間三日に圧縮できるなんて、そんな凄まじい技術が実際にあるものなのだろうか。
ベッド脇のチェストに置かれているデジタル時計が目に入り、今日がいつなのかが確認できた――4月19日、木曜日。
「高校が始まってからしばらくして、朝部屋から出てこなくて。起こしに行ったら、お兄ちゃんは机に向かったままで眠ってて、いくら声をかけても起きなくて……」
妹の言っていることと、今の日時には矛盾はないように思える。確かめたいことは幾つかあるが、逸る気持ちを抑えながら、一つずつ聞いていくしかない。
「俺が起きなくなる前に、何かゲームをしてたってことはなかったか?」
「うん、『アストラルボーダー』……だよね。お兄ちゃんテストの抽選に当たって、あの頭につけるゲーム機が送られてきて。でもその日、お兄ちゃんあんまり元気がなかったから、どうしたのかなって思ってて……こんなことなら、私もどんなゲームか見てれば良かったって……」
「っ……いや、あれには触らない方がいい。家にあるのか?」
「うん、置いてあるよ。テスト期間は終わっちゃったみたいだけど」
あれが原因で俺と同じような事態が五千件近くは起きているはずだ――テストに定員全員が参加したとも限らないが、ゲームの中には多くの人がいて、ほとんどが日本人プレイヤーだった。
「俺のことは、何か、その……ニュースとかで報道されたりとかは……」
「取材の人は来たけど、病院には入れなかったみたいで、それからはもう来てないよ。お医者様は、お兄ちゃんが退院するときは、そういう人たちに知られないようにするって」
――俺が言っているのは、そういうことじゃない。
「……俺以外の『アストラルボーダー』のプレイヤーの件は、ニュースになってないのか?
」
「え、えっと、お兄ちゃん、落ち着いて。私もそんなに見てないから分からないけど、ニュースとかでは見てないよ」
表沙汰になっていない、ということなのか。とんでもない話だが――あれを作った会社が、このまま何もなく安穏としているというのはありえないだろう。
ソウマ、ミア、イオリ。そしてゲームの中で知り合ったプレイヤーたちもまだ『アストラルボーダー』の中にいるはずだ。
本当に事件性がなく、俺がデバイスとの相性が悪くて昏睡に陥っただけだとしたら。考えたくないが、そういう可能性も完全には否定できない――駄目だ、急に頭が痛くなってきた。
「っ……お兄ちゃん、まだ無理しちゃだめ、安静にしてなきゃ……」
「ああ……俺は大丈夫。心配かけてごめん」
妹を安心させるために、横になって目を閉じる。深く呼吸をすると、頭痛も次第に気にならなくなった。
この時間経過で回復する感覚はゲームの中だけだと思っていたが、現実に戻っても案外変わらないものらしい。
どちらにせよ、まずは家に戻らないといけない。妹に相談し、自宅に戻れるように取り計らってもらう――あるいは、俺を診てくれている医者を呼んでもらって、直接話をしなくては。
◆◇◆
思っていたよりもずっとあっさりと退院が決まり、翌朝に家に戻れることになった。
――ゲームに集中しすぎて失神してしまったりというのは、珍しいけれど事例が無いわけではありません。
――これからVRゲームをプレイするときは、十分に体調を整えて、一日にプレイする時間を制限してください。
俺の母親くらいに見える女性の主治医が、そんなふうに説明してくれた。勿論、それで納得できるわけもない。
『アストラルボーダー』は危険だ。まだあのゲームに囚われている人が多くいると、すぐにでも訴えかけなければならない。
しかし信じがたいことに、妹が届けてくれたスマートフォンでネットの情報を確認すると、『アストラルボーダー』はテスト期間で大きなバグや問題が見つからず、オープンβテストに移行するという告知が出ていた。
(本当に、あれはゲームだったのか? 俺がゲームの中で過ごしたあの時間は、夢みたいなものだったのか……いや、違う。あの世界での出来事は、幻なんかじゃ……)
パーティの仲間たちが無事にログアウトしてくれていて、連絡を取ることができたら。しかしゲーム内では具体的な住所などのやりとりをすることはできなかった。そういった行為に制限がかかっていたからだ。
ネットでフルネームを入力して検索してみても、人物を特定することはできなかった。ミアとイオリに関しては何かの大会などで結果を残していて、俺と同年代で――という情報は出てくるのだが、それが俺の探している人物であるのか分からない。ソウマに関しては珍しい名前にも関わらず、検索で引っかかるような事項はなかった。
もしゲームをクリアしてログアウトした者が出たとき、俺と同じことを考える者が現れる。それを想定して禁止行為が設定されていたのだろう――考えるだけで歯噛みしたくなる。
「……ソウマ、ミア、イオリ……みんなはまだ、あの世界にいるのか……?」
『アストラルボーダー』での記憶は色褪せない。あの世界には、俺にとっての希望と絶望の全てがあった。
現実に戻れたことを喜ぶべきなのだろうが、明日学校に顔を出し、登校を再開すると担任に伝えなくてはいけないと妹に言われ、一気に目を覚めさせられた。
学校に戻って、果たして普通にやれるのだろうか。入学早々に三日も休んで、その原因がゲームかもしれないなんて――『アストラルボーダー』のことが社会問題になってでもいれば話は別だが、今の状況じゃ俺の言うことは信じてもらえない。
「……しかし、なんなんだこれは」
目覚めたばかりのときは、疲労感でベッドから降りることができなかった。しかし今は身体がやけに軽く、時間が経てば経つほど力が湧いてくる気がする。
病院食は質素なものだったが、何か元気になる薬でも入っているのか――ポーションなんて現実には無いので、回復力が我ながら凄いのだろうと納得するしかなかった。
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