第8話 タイタン族

 どうしよう!ハデス、見失っちゃった!


耀が焦って、廊下を走りまわっていると、曲がり角の向こうから、車輪の音が聞こえた。


ハデスが、キャリーケースを転がしてくる。


「耀くん?」と、ハデスが、立ちどまった。


ハデスの服装が、ラフな格好に変わっている。


さっきまで、きれいな刺繍ししゅうがほどこされた黒いローブを着ていたけど、今は、薄手のパーカーを着て、つば広の帽子までかぶっていた。


「その服装……。」と、耀は言った。


「着替えたよ。実家に帰るから。」と、ハデスが、帽子のつばをあげる。


「実家?」


「天界だよ。よかったら、耀くんも、遊びに来る?」


 ハデスが玄関を開けた途端、ケルベロスが走ってきた。


ケルベロスの3つの頭を、ハデスは、順番になでている。


「リー、ファイ、ロー。俺がおらんでも、ちゃんと、めし食べるんやぞ。」


ハデスが花の形のアミュレットを、門にかざす。


門扉のアラベスクの彫刻をたどった光が、門を縦に割った。


扉が、外側へ開いていく。向こう側の景色は、閃光にかき消されて見えなかった。


「冥界から急に向こうに行くと、目がくらむから気をつけてね。」と、ハデスが、先に行った。耀も、あとにつづく。



 日差しの強さに、耀は、目をつむった。


花の香りがする暖かい風が吹いている。


耀が立っていたのは、左右をハイビスカスの垣根で仕切られたレンガの道。


道の先には、色とりどりの花に囲まれた宮殿が建っていた。


宮殿の壁のアラベスクの金箔きんぱくが、太陽の光をまぶしく反射している。


光り輝く荘厳そうごんな宮殿を前にして、耀は、放心してしまった。


「耀くん?」と、ハデスがふり返る。耀は言った。


「冥界の館でさえ、すごいと思ってたのに……。」


「あれは、父さんの別荘だったものだから。オリンポス宮殿のスケールとは、比べ物にならないよ。」


 天界は、シャツ1枚で歩けるほど暖かかった。


サングラスが欲しいくらい日差しも強い。


ハデスが、大きな帽子をかぶっている理由がわかる。


途中に、噴水の庭園があった。庭というより、広さが公園。


向こうに果樹園があるよ!と、ハデスが歩きながら庭園の先を示す。


その時、渡り廊下を、大きなメロンを抱えた女の人が歩いてきた。


「ハデス!」と、女性が気づいて、ふりむいた。


編み込んだ銀髪に、花飾りをつけている。ハデスと同じくらい若いから、おねえさんか妹かなと、耀は思っていた。


「ただいま、母さん!」と、ハデスが言ったから、耀は、びっくりした。


「母さんなの!?」


ハデスに紹介されて、耀は、母親のレイアに挨拶した。


驚いている耀を見て、「神様は不老やからな。」と、レイアは笑っている。


「うち、こう見えて、孫がおるんやで。孫たち、キャンプに行っとるけど。」


「キャンプ?」と、ハデスは、がっかりしていた。


「せっかく帰ってきたのに。甥っ子たちも、耀くんに紹介したかったんだけど。」


「あの、そのメロンは?」耀は、レイアが抱える大きなメロンが気になっていた。


「うち、園芸が趣味でな。果樹園で、いろんなフルーツ育ててるんやで。このメロン、うちの魔力をたくさん浴びたみたいで、大きくなっちゃった。メロンを切っておくから、荷物を置いたら、ダイニングに来てな。」


そう言うと、レイアは、渡り廊下を歩いて行った。


「すごい、あんなメロン初めて見た……。」耀が、つぶやく。


「母さんは、大地の女神なんだよ。俺たちも行こう。玄関は、こっちだよ。」


ハデスにつづいて、耀も、宮殿の中へ入った。


高い天井に、シャンデリアが吊り下がっている。


大理石の階段には、土足であがっていいのか戸惑うくらいきれいな絨毯じゅうたんが敷かれていた。足を下ろすと、ふかふかだった。


 ハデスのキャリーケースを部屋に置いて、ダイニングに降りて行くと、紅茶とメロンが準備されていた。


果汁かじゅうを豊富に含んだメロンは、口に入れた瞬間、甘みが広がった。


ハデスも、幸せそうに食べている。


 メロンを食べた後、ハデスが言った。


「耀くん、風呂行こうよ。風呂で、いろいろ語りあおう。」


 大浴場は、リゾートホテルみたいにきれい。


大きな湯船には、花が浮かんでいて、お湯から花の香りがする。


「最高。こんなに立派な宮殿に住めるなら、俺もタイタン族に生まれたかった。」


という耀の一言に、「おすすめしないけどね。」と、ハデスは言った。


「タイタン族に生まれてたら、きっと、予言に翻弄ほんろうされる人生だったと思うよ。タイタン族は、運命の女神に呪われた一族だから。俺が冥界をくじで引いたのも、運命の女神に仕組しくまれてたのかも。」


「くじで引いた?」


「父さんがいなくなった後、誰がどこを治めるか、くじで決めたんだよ。俺が冥界を引いて。ポセイドンは、海。ゼウスは、天界。」


「そんな大事なこと、くじで決めちゃったの!?」


「てっとり早かったんだよ。話したところで、決まらんし。冥界なんか引かなければ、クロウに先輩面せんぱいづらされずに済んだのにな。あいつ、父さんの代から死神やってんねん。だから、たまに偉そうなんだよね。ムカつくことの方が多いけど……。俺が牢獄に閉じ込められた時、迎えに来てくれたのは、いつもクロウだったっけ。」


ハデスは、湯船に浮いているティアレの花をいじっている。


「子どもの頃。俺、父さんに、よく牢獄に放り込まれてたんだ。俺は、父さんに認めてもらいたい一心で、手に豆つくりながら、剣の稽古を頑張ってたけど。父さんは、気に入らないことがあると、急に怒りだして……。今になって考えてみると、俺が牢獄に放り込まれた理由なんて、けっこう理不尽な感じだったような。」


「牢獄って……もしかして、タルタロスにある牢獄のこと?」


「そうだよ。あの牢獄は、俺にとって、トラウマ的な場所でさ。真っ暗闇で、何も見えなくて。うめき声と、何かが這ってるような音が聞こえたっけ。俺、その時、まだ小さかったから、すごく怖かったよ。その時の事、たまに夢で見るし。あそこは、折檻せっかん部屋だったんだよ。だから、他人に、かってに開けられたくないんだよね。」


「それで、ロックを厳重にしたの?ていうか、そんなやばい所だったんだ、牢獄って。どうしよう。もしも俺が死んだ時、タルタロス堕ちが決まって………。」


と、想像して青ざめている耀を、ハデスは、笑っている。


「心配せんでも!ふつうに生きてれば、牢獄には、おくらないよ!」


「どんな罪を犯したら、牢獄に入れられるの?」


「俺が一番許せらんのは、自殺かな。せっかくの命を自分から粗末にするのは、よくないよね。与えられた命を最後まで、一生懸命、生きなくちゃいけない。耀くんは、死ぬまで生きなきゃだめだよ。」



 お風呂あがり、耀は、ソファーに座って、リビングの窓から見える海を眺めていた。


サーフィンしている人を、ぼーっと眺めていたら、砂浜を歩いている人の背中から、突然、翼が生えた。


「うわぁ!」


「どうしたの?」と、ピアノの椅子からハデスが、ふりかえった。


「海にいる人の背中に、急に翼が生えたから、びっくりして……。」


「海にいるのは、みんな天使だよ。翼を魔法でしまってるから、一見、人間みたいに見えるけど。こっちの世界じゃ、人間の耀くんの方が珍しいかもね。」


ぽーんと、ハデスが、ピアノの鍵盤けんばんを叩いた。


「ハデス、ピアノ弾けるの?」


「少しね。耀くん、ショパンは好き?一曲、弾いてあげる。」


そう言うと、ハデスは、弾き始めた。


聞いたことがある曲。確か、えっと………。


あ、そうだ!と、耀は、曲名を思い出した。曲が終わった後に言った。


「英雄ボロネーゼ!」


「耀くん、それじゃパスタ。」


「え??」


ポロネーズでしょ?と、戸口で、細身の男が笑っていた。


緩く結んだ金髪を左肩に流している。どこかで見たような気がする。


誰だっけ?と考えていたら、カルマを映す鏡で見た裁判官と、顔が重なった。


「ゼウス………。」と、耀は、つぶやいた。


裁判の時のゼウスは、白いローブ姿だった。


今は、シャツにチノパンというラフな服装だったから、耀は、一瞬、わからなかった。


「彼、ハデスの友達?」と、ゼウスが、リビングに入ってくる。


ハデスに紹介されて、ゼウスは、耀に手をさしだした。


「ゼウスです。よろしくね。」


ゼウスと握手していたら、男が、もうひとり、リビングに入ってきた。


「ハデス、帰ってたん?鳴らねぇピアノが聞こえると思ったら。」


そう言う男は、アロハシャツにハーフパンツ。銀髪に、青いメッシュが入っている。


「耀くん、よろしく。俺は、ポセイドン。」と、手をさしだされて、耀は、ポセイドンとも握手した。


「せっかく、耀くんが来てるんやし、どっか遊びに行こう?」


ゼウスの提案に、はい!と、ポセイドンが挙手をする。


「海がいいと思います!」


海?と、たちまち、ハデスが嫌そうな顔になった。


「海、嫌いなんだよね。日焼けするし。夜になったら、行ってもええけど。」


「ハデスが太陽苦手なのは、ずっと冥界にいるからでしょ。帰ってきた時くらい、日の光浴びた方がいいって。じゃなきゃ、もっと太陽嫌いになるよ。」


ゼウスが言ったけど、「俺は、いいや。」と、ハデスは、ピアノに向き直ってしまった。


ぽーんと、ピアノの鍵盤を叩くハデスを、ゼウスがいさめる。


「ほんま、よくないって。そんなふうに、ひとりで、うじうじしてたら、ますます気分ふさぐだけやし。どうせ、クロウと喧嘩したんでしょ?」


「じゃなきゃ、急に帰ってきたりせぇへんもんな。」と、ポセイドン。


「喧嘩のレベルちゃうぞ!反逆や!」と、ハデスがふり向いた。


「あの男、やばいぞ!『帰ってきてー!』って、クロウが泣きついてきたって、俺、絶対、帰らないもんね!少しは、痛い目みればええんや!」


まぁまぁ………と、ポセイドンもゼウスも、ハデスの話を聞きながしている。


海に行かないというハデスの気持ちは、変わらなかった。


「俺、ピアノの練習したいんやって。俺ぬきで行ってきて。汗かきたくないし。俺、風呂入ったんだよ。」


状況を見兼ねたポセイドンとゼウスが、ハデスの両脇に立った。


そのまま、つかんで、ハデスがわめこうがかまわず、強制連行した。


ハデスを引っぱりながら、ポセイドンが、耀をふり向いた。


「耀くん、おいで!すっごいもの見せてあげるから!」



 そうして、やってきたのは、ひとけのない入り江。


ポセイドンは、魔法をといて、指輪を三叉の矛に戻す。


指輪が光った直後、三叉の矛・トライデントが、ポセイドンの手に握られていた。


トライデントが、海に向けて振られると、


海面を直進した光が、遥か水平線の彼方まで、海を真っ二つに割った。


絶句する耀の反応がうれしくて、ポセイドンは、にやにやしている。


ハデスが呆れている。


「ポセイドン、海行きたいって、これ耀くんに見せたかっただけちゃうん?」


トライデントが、もう一度、海にかざされると、割れていた海が、磁石のように引き合った。


間欠泉のような水柱をあげて、海が衝突する。


耀は、昔、読んだ本を思い出した。


そういえば、こんなふうに、海を割った人がいた。


「モーセみたい………。」


モーセ?と、ポセイドンが懐かしがっている。


「懐かしいな。これ教えたの俺や。」


「えぇ!?」


不意に、突風が吹いた。ハデスの帽子が、飛ばされた。


海に落ちてしまった帽子を見て、あ!と、ハデスが叫ぶ。


その数秒後、今度は、耀が、あ!と、声を発した。


海面からジャンプしたイルカが、変わった色をしている。エメラルドグリーン。


「ルディ!」と、ポセイドンが、イルカがいる波打ち際へ走っていく。


青緑色のイルカが、ハデスの帽子をくわえて、泳いできた。


「ありがとう、ルディ。」と、ハデスは、イルカから帽子を受けとると、誰もいない方へ向いて、帽子が吸った水をきっていた。


ポセイドンが、イルカに、なにかささやいている。


なにしてるんだろう………と、耀が不思議に思っていると、ゼウスが言った。


「ポセイドンはね、動物とお話しできるんよ。」


また、海面からイルカがジャンプした。


今度は、青いイルカとピンクのイルカだった。


ポセイドンが言うには、ルディの両親らしい。


「耀くん、触ってみる?」と、ポセイドンに促されて、耀は、ルディへ手をのばした。


イルカの肌は、厚くて弾力があって、ゴムみたいな感触。


あつい……。ハデスは、限界だった。


「太陽、きつすぎ。もう我慢できない。俺、帰る。」


そう言って、かってに帰ろうとするハデスを、ポセイドンが追いかける。


耀も追いかけようとしたけど、ゼウスに呼び止められた。


「耀くん、乗馬は興味ある?乗馬っていっても、ここの乗馬は、ペガサスのことなんだけど。」


「ペガサス!?」


「乗ったことないでしょ、ペガサス。」


「でも、ハデスが………。」と、耀は、遠くのハデスへ、目を向けた。


「ほっとき。ハデスは、きっと、帰ってふて寝するだけやで。せっかく、天界来たんやし。ペガサス乗って行こ。」


ゼウスの指輪が光って、ラトニングボルトに変わった。


穂先の稲妻型の水晶から溢れた光が、宙に、空間転移魔法陣を描いた。


「行こう。乗馬、俺が教えてあげるから。」と、ゼウスは、耀を引っぱって、魔法陣をくぐり、乗馬クラブへ連れて行く。


 ゼウスに教えられながら、耀は、あぶみに足をかけた。


「生まれて初めて、白馬に乗ったよ。しかも、ペガサスなんて。」


「感動した?」と、ゼウスは笑っている。


「力を抜いて。コツは、重心をなるべく真ん中において、変に力を入れずに、ペガサスの動きに身を任せること。ここのは、みんな初心者向けに調教されてるから安心して。ふり落とされたりしないから。」


 ペガサスの乗馬は、癖になる疾走感。


太陽に手が届きそうなほど高いところから、いっきに急降下した時の風が、冷たくて心地いい。


「どう?」ゼウスが、滑空してきて、耀と並んだ。


「宙を漂う浮遊魔法とは、全然、感覚が違うでしょ?中には、スレイプニルって、音速で飛べるペガサスもおるんやで。」


「音速で飛んだら、もっと気持ちいいんだろうな。」


眼下には、光の町が広がっている。


白い壁から反射する日の光が眩しくて、建物自体が光っているように見えた。


「あそこが、俺の職場。」と、ゼウスが、ある神殿を示した。


神殿を見た時、耀の脳裏に、カルマを映す鏡で見た裁判が蘇った。


今、隣にいるのは、アザゼルの翼を焼いた人。


でも、ゼウスは、ひどいことをする人には見えない。


耀の戸惑いの視線を受けて、なに?と、ゼウスが、きょとんとしている。


アザゼルに………と、耀がつぶやいた。


「アザゼルに、どうして有罪判決を出したんですか。あんなに必死に、無実を訴えてたのに………。」


「どうにもできんかったんよ………。」つぶやくように、ゼウスは言った。


「俺は、私情で、どうにかできる立場じゃなくて。ただ、法のもとに裁きを下すだけの役目やし。あれは最高裁で、あれ以上、裁判を引き延ばすわけにいかなくて。ひどいやつって、別に、そう思ってくれても、かまわないよ。俺も、そう思っとるしね、自分のこと。」


「ごめんなさい。責めるつもりで、きいたわけじゃなくて………。」


「俺こそ、センチメンタルなこと話しちゃって、ごめんね。人間と遊ぶなんて、ほんま、久しぶりやし。ほんまは、緊張してんねんで。こうして耀くんと会えたのも、なにかの縁やし、思い出をつくりたくて。せっかく天界に来てくれたから、楽しかったって思って帰ってほしいんよね。」


宮殿の庭園に、ハデスとポセイドンが見えた。


「降りてみよっか。」ゼウスが言った。


下降のサインを受けて、ペガサスが、庭園に舞い降りる。


耀とゼウスは、ペガサスから降りて、ふたりがのぞいている池へ、歩いて行った。


ポセイドンの魔法で、水面になにか映っている。


「なに見てるん?」と、池に映る光景を見た途端、ゼウスが叫んだ。


「亡霊!?なんやこれ!?なにしたん!?」


耀も、悲鳴をあげた。池に映っていたのは、冥界だ。


黒いローブの群衆が、屋敷の家財を破壊している。


「ハデス、どこ行くん!?」ゼウスが、庭園を出ようとするハデスに叫ぶ。


「帰るんや、冥界に!クロウが、牢獄を開けやがった!」


「待って!」と、耀は、ハデスの腕をつかんだ。


「おねがい!見なかったことにして!」


「耀くん、なにか知ってんやろ。俺に、なに隠してるの?」


ハデスにきかれても、耀は話せなかった。ハデスが言う。


「今、牢獄が開いてるってことは、奈月くんが仮死状態になってるってことだよ。耀くんは、奈落の生贄がどういうものかわかってる?魂を引きはがされているあいだ、体に、ものすごい負担がかかる。放っておいたら最終的に、ふつうに生活できない体になるよ。奈月くんがそうなっても、かまわないの?」


「うそ。クロウは、そこまで言わなかった………。」


奈落の生贄の末路を知った以上、耀は、黙っていられなかった。


耀は、すべて白状した。


「クロノスが生きてたんだよ。奈月は、ハデスにつらい思いをさせないために、自分から生贄に。」


耀の話をきいて、ポセイドンとゼウスは、凍りついている。


ハデスは、右手の傷痕を見た。手のひらを縦に割っているのは、ティタノマキアの時、クロノスに剣で斬られた痕。


「父さんが、生きてる………。」



 一同は、すぐに冥界へ向かった。


亡霊が屋敷の外に逃げないように、魔物たちが奮闘している。


門前で、ケルベロスが、鼻にしわを寄せて、牙をむきだしていた。


マンティコアとグリフォンが、空から亡霊を追いたてて、一箇所に集めている。


フェンリルも、低い声でうなって、亡霊を威嚇していた。


横を通り過ぎる時、耀たちは、亡霊の集団に唾を吐かれた。


ハデスが、屋敷のドアを開けた瞬間、玄関にいた黒ローブたちが、一斉に、ふり向いた。


亡霊が、花がささったままの花瓶を投げる。


花瓶は、ハデスの衝撃派を受けて、粉々に砕けた。


「さがれ!!亡霊ども!!」


ハデスの剣幕に圧倒されて、亡霊は、物陰にひっこんでしまった。


 裁きの間から、真っ赤な光が射している。


大広間に、巨大な魔法陣が浮かんでいて、亡霊は、そこから溢れていた。


「耀!こっち!」神龍が叫んでいる。


大広間の片隅に、みんないる。倒れている奈月を囲んでいる。


「奈月!」と、走ってきた耀に、妃乃が言った。


「悲鳴あげながら、がんばってたよ、奈月くん。」


妃乃は、泣いていた。痛みに悶絶する男の絶叫が、ショックだった。


血の気がなくて、汗びっしょりな奈月を見て、耀は後悔した。


「ごめん、奈月。やっぱり、こんなの、やめさせればよかった。」


「俺も、そう思う。奈月は、優しすぎるよ。」神龍が言う。


圭が、奈月の手を握って、大丈夫だよと励ましている。


圭の腕は、奈月につかまれたあとが、あざになっていた。


大広間に入ってくるハデスに、アザゼルが気づいた。「ハデス!?」


しかし、ハデスは、アザゼルを無視して通り過ぎる。


そして、クロウをひっぱたいた。


「ハデス、待って!」と、スピリアが止めに入った。


「クロウは、ハデスを守るために!」


「俺のため?」ハデスが、スピリアをふり向く。


「俺のためなら、関係ない人がどうなってもいいってこと?おまえら、おかしいぞ!宝玉がないと、牢獄が開かないようにしたのは、誰かを生贄にしてまで、かってに開けるやつは、おらんと思ったからや!」


アザゼルが、ハデスの前に立った。


「ハデス、2日でいいんだ。奈月も、わかって協力してくれた。」


「だめだよ。2日も仮死状態にさせたら、奈月くんが壊れる。早く牢獄を閉じて。」


ハデス!?と、アザゼルが叫ぶ。


「今、亡霊をかえすなんて、飢えてるクロノスに、餌をやるようなもんだ!それだけは、だめ!すぐに、クロノスが覚醒して、冥府にあがってくる!」


「かまわないよ。俺が、なんとかする。」


「ばかハデス!」クロウがキレた。


「なんとかするって、どうする気なんだよ!なにも考えてないくせに!おまえがそういうやつだから、俺たちが影で動いてるんだろうが!クロノスが、なにしに冥府にあがってくると思う!おまえを、殺すためだよ!人間ひとり、どうなったっていいじゃん!牢獄を開けた以上、このまま続行するしかないんだよ!」


「ごめんね、クロウ。」


ハデスは膝をついて、うずくまるクロウと目線を合わせた。


「クロウにそんなこと言わせるくらい、つらい思いさせてたんやね。親友なのに、俺、クロウが悩んでるの気づけんかった。」


クロウは、絶句した。ハデスに、こんなことを言われるなんて思わなかった。


クロウが言葉を失っているあいだに、ハデスはつづける。


「俺も親父は怖いよ。ひとりで抱え込まないでよ、クロウ。俺たち、ふたりで乗り越えてきたじゃん。いっしょに戦おう、クロウ。」


その言葉をきいて、クロウの背負っていた重荷が消えた。


「ハデス………。」クロウの瞳から、涙がこぼれる。


俺が守らなくちゃって思ってた。ハデスは、いっしょに戦おうって言ってくれた。


「でも、お父さんに見せられた未来じゃ、おまえは、クロノスに殺されて……。」


「そんな未来、変えてやろうよ。未来なんて、まだ起こる前のことでしょ。クロウと俺なら、変えられるよ。死にぞこないの親父を、ぎゃふんと言わせてやろう。」


ハデスは、クロウに手をのばした。クロウは、ハデスの手をつかんで立ちあがる。


アザゼルは、やれやれと、ため息をついた。


結局、こうなるのか……。運命の女神の予言からは、誰も逃げられない。


ハデスがクロノスを倒すことが、予言されたことなら、どうあがいたって、結局、戦う方向になる。


だとしても、クロノスと直接対決することだけは、避けたかったのに。



 奈月が目を覚ました時、大広間には、亡霊はひとりもいなかった。


心臓をえぐられたような鋭い痛みは、もうない。もう、2日経ったの?


疲労困憊で、「おわったの……?」と、喘ぎながらきくのが、奈月は、やっとだった。


「本当に、ごめんね。つらい思いさせて。」


横で膝をつくハデスの手には、杖が握られている。


ハデスは、立ちあがって、魔道士たちから距離をとると、杖を水平にかまえた。


「やっと、地上へ帰れるよ。遅くなっちゃって、ごめんね。」


「ハデス、もう少し、奈月を休ませてやりたいんだけど。」


圭が言った。しかし、ハデスは、首を振る。


「冥界にいたら、戦いに巻き込んでしまう。ごめん、守ってあげられる保証はない。だから、一刻も早く、地上に帰ってほしい。」


「待って、ハデス。いきなり帰ってって言われても。」


圭が困っている。奈月は、なんのことだか、わからなかった。


「なに………クロノスは………終わったんじゃないの………?」


屋敷が震えるほどの咆哮が、外で轟いた。


来た!と、はっとして、ハデスは、いそいで杖を振る。


赤い光が宙で交差して、魔法陣ができあがった。


「さぁ、行って!」と、ハデスは、杖で魔法陣を示す。


「ハデス!」耀は、叫んだ。


「いっしょに逃げよう!殺されるかもしれないのに、冥界にいることないじゃん!」


「逃げ場なんてないよ。親父は、俺の首が胴体から離れるまで追ってくる。」


ハデスに、猶予している時間はなかった。


「ありがとう。みんなに会えてよかった。じゃ、元気で。」


風魔法をつかって、ハデスは、魔道士たちを強制的に、魔法陣へ吹き飛ばした。

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