第三十話 君の名は。
竹内の背中を見送った後、俺は足早に下駄箱がある昇降口へと向かった。
だが、そこには見慣れた後ろ姿が退屈そうに誰かを待っていた。壁に完全に体重を預けて背中を丸めている。
「誰を待ってんだ、菫乃」
また立ち止まることになるなと思いながら、その背中に問いかけた。
「あ~、テルくんおっそーい。彼女を待たせるなんて彼氏失格だよ?」
「誰がお前の彼氏なんかするか。芝居でもごめんだ」
「さすがに酷くない? 私と他のヒロインとの扱いが天と地ほどの差があるようだけれど?」
「まずお前をヒロインと認識していないんだが」
「そんなこと言って~、こういうキャラのヒロインも一人は必要よ?」
まあ確かに……。
相変わらずのにやけ顔だが、今日はやけに気分が良いみたいだ。
「ま、とりあえず色々と終わったみたいね。お疲れさま」
「そうだな。一応、万事解決だ」
「ん~?」
俺の言葉に菫乃は唇を尖らせて、うーんと不満そうに首を捻る。
でもその反応は、まるでそういう返事を待っていたかのようだ。
「それは聞き捨てならないね。万事解決?」
「なんだ? 他に何かあるのか?」
「あれれ、テルくんズルいな~、ズルいのはいけないよ?」
菫乃が俺の目を覗き込む。
「自分でもまだ解決してないことがあるって分かってるくせにさ、私に言われるまで待つなんて。それはズルいよ」
目線がずっとついてくるだまし絵のように、逃げ場がない。
「ま、テルくんはそんなズルをするんだろうと思ったから待ってたんだけどね」
菫乃の瞳に逃がさないと語られている気がして、俺の瞳も吸い込まれるようにその視線から逸らすことが出来ない。
「テルくん、本当は自分の初恋相手が誰だか分かってるんでしょ?」
「――っ」
その言葉に俺の心臓がぐっと掴まれる。
この場に居たくないのに、その喰らいついたら離れない眼光と、じりじりと近づいてくるすり足に俺は下駄箱の前で静止してしまった。
「あのショートカットの女の子に、テルくんはさ、お礼を言いたいんじゃなかったっけ……? あの子はずっと待ってると思うよ?」
菫乃は俺の背後に回って、首に吐息が掛かるような距離で囁く。
「ああ、お礼は言いたい」
「じゃあなんで言わないのよ」
「それはだって……誰か分からないだろ」
「ふ~ん。そう、それならしょうがない」
菫乃は俺の前に立つと、切れ目をさらに鋭く細めて、にやりと笑った。
「そんなに逃げるなら私がヒントをあげる」
「……おい、何も言うな。生憎、今の俺は何も聞きたくないんだ」
「まずは一つ目のヒントね」
「おい、人の話聞いてんのかよ」
「テルくんはさ、人見知りだからあんまり他人を下の名前で呼べないけど、一人だけは出会ってすぐに下の名前で呼んでなかったっけ? あれってどうしてかなぁ……?」
「…………だから何も言うなって」
俺の言葉は菫乃には届かない。
「二つ目。思い出してみてよ、二人で乗った電車。なーんか自分の昔のことにやたら興味あるなって思わなかった……?」
「だからそれ以上は……」
「それと三つ目。『首切り女の血だらけの家』でさ、あの子は案内のお姉さんを振り切って、お化け屋敷へと遥香を探しに行った。まるであの時――テルくんが神社で迷子になった時みたいに」
「…………言うなって言ってんだろ」
「四つ目。河川敷と竹内くんの教室の前で『弱くても戦えるよ』ってテルくんに言ってくれたのは誰かな……?」
「…………聞こえねーのか」
「五つ目。竹内くんにビンタしたのは、あれはなんでなんだろうね。もしかして、テルくんへの私だよって言うヒントだったんじゃない?」
「やめろって言ってんだろ‼」
菫乃の言葉に、7月の終わりにあった終業式――首切り女の血だらけの家――竹内の告白動画の騒動まで、一連の出来事や景色が頭の中に蘇る。
菫乃の瞳が蛇のように絡みついて気が付くと壁際に追い込まれていた。
「これでもまだズルするのかな?」
ハンドボールくらい小さい顔。茶色の瞳に良く似合うミディアムヘア。透き通るような白い肌。くりんと長いまつげ。ほんのり赤い唇。
あの無邪気で小悪魔のような笑顔。ウサギのような小動物的愛くるしさ。怒るとぷくっと膨らませる頬。たまに照れて赤らめる顔。
――そして、本気でキレた時に見せるアザトカワイイだけじゃない、目つきや表情。
彼女の今まで俺に見せた表情や仕草が、一つ一つ蘇ってくる。
「ほら、自分から逃げないで」
「…………」
「ほら、行っておいで。あの公園に、あの思い出の公園にいるって言ってたから、そこに行けばきっと会えるはずだよ」
菫乃が俺の背中を軽く叩いた。振り返ると、菫乃にしてはあどけない笑顔を俺に向けていた。
そうだ。本当は、ずっと気づいてたんだ。
「なあ、その公園ってここから何分だっけ?」
「ん~、十五分とか?」
「走ったら?」
「十分とかかな?」
「なら、五分で着くって伝えといてくれ」
俺は急いで下駄箱の靴に履き替えると、飛び出すように昇降口を出た。
ずっと気づいてた。
俺の初恋でもあり、尊敬する人でもある――あのショートカットの女の子が、俺のすぐそばにいるって。彼女だって、ずっと俺にヒントを与えてくれていた。
それなのに俺はずっと気づかない振りをしていたんだ。
「俺、逃げないよ」
マンションの駐車場をショートカットして、歩道橋を今までにないトップギアで上昇し、トップスピードで下降する。散歩をしている人がすれ違う時、二度見するほど呼吸が荒くなって、喉が渇いて、とにかく肺と脇腹の辺りが苦しい。
でも走らなきゃいけない。
思い出の公園は、あそこにある。本当は最初から全部繋がっていたんだ。
彼女が迷子になった俺を探してくれた神社が隣接されていた公園も、
俺が終業式の朝、彼女を見つけた公園も、
全部――あの公園。
俺はいつの間にか名前を思い出していた。でも思い出せないふりをしていた。
だって怖かったから。
彼女は俺を忘れているかもしれないし、もしかしたら関係を変えてしまう可能性だってあった。でも、今はそんなことどうでもいい。
俺は名前を思い出した。なら、あの時のありがとうを……。
俺は彼女に、感謝を伝えなきゃいけないんだ!
そして、俺は、俺は。
「はぁはぁ…………」
公園に到着した。これほどまでに全力疾走したことが無かったから、息切れが半端ない。
スマホの時計を見ると、六分で着いた。これは誤差の範疇だよね?
「あれ、輝彦師匠?」
俺の初恋でもあり、尊敬する元ショートカットの女の子はスマホを片手に、ブランコに一人座っていた。
俺は震える足を踏み出して、ブランコの前に立つ。
『ごめんね、みづきちゃん』
神社で俺が迷子になった時、助けに来てくれたショートカットの女の子に俺はそう言った。
――そう、ショートカットの女の子の名前は、みづき。闇路美月だ。
「美月、ずっと言えなくてごめんっ!」
俺はその名前をはっきり呼んだ。
「本当は、本当は美月があの子だってずっと気付いてたんだ……。電車で、俺が迷子になった時の話を聞きたがったこと。竹内の教室の前で俺に『弱くても戦えるよ』って言ってくれたこと。きっと河川敷で不良にリンチされてた時も、俺に『弱くても戦えるよ』って言ってくれたのは美月だったんだよな……。あと、竹内のことをビンタしたこと。全部俺に気づいてほしかったんだって今ならわかる――」
俺はぐっと拳を握って、大きく息を吸うと、もう一度目を見開いた。
「美月! 保育園の頃、俺を助けてくれてありがとう!」
俺は全身全霊で気持ちを言葉にした。
やっと言えた。
やっと、ありがとうって言えたんだ。
「ねえ輝彦師匠、あのさ」
「ん?」
「なんの話?」
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