第二十六話 ショートカットの女の子

 

 保育園に通っていた頃。


 俺は、みんなと混ざって行動するのが苦手だった。誰かと一緒にかけっこをしたり、おにごっこをしたり、とにかく複数人で体を動かして遊ぶのが嫌いだった。


 自分は運動神経が悪くてどんくさいという自覚はあったから、みんなに自分のコンプレックスを露呈させるのも、馬鹿にされるのも怖かったのだ。だから保育園ではみんなといるとき好きでもない絵本を部屋の隅で繰り返し読んでいることが多かった。


「その本好きなの? ずっと読んでるけど」


 そんな俺に話しかけてきたのが、遥香だった。

 遥香とはすぐに打ち解けた。お互い室内で遊ぶ方が好きだったから、同じ空間にいるうちにお互い心を許せるようになれたし、遥香も今と違って人見知りを発揮する前だった。

 

 遥香は俺が話すことに何でも笑ってくれたし、俺が運動会のリレーで無様にずっこけたところで笑う人間でもなかった。常に微笑んで見守ってくれていた。

 

 俺の初恋でもあり尊敬する人である、ショートカットの元気な女の子は、遥香を通じて話すようになったという記憶がある。ショートカットの女の子はよく俺たちが遊ぶ公園に来ていて、最初は別々に遊んでいたが、いつからか一緒に遊ぶようになっていた。

 

 二人は俺のどんくさい部分や、女々しい部分も笑う人では無かったから、その二人とは遊んでいても楽しかった。


 公園では俺たちは三角に広がって、柔らかいゴム製のボールでよくキャッチボールをした。ショートカットの女の子は公園でも人気があって、俺たちがボールで遊んでいると、いれてー、と言って女子が混ざってくることも頻繁にあったと思う。


 他から見たら、女子複数人と男子一人で遊んでいるという構図。


 俺はその時、男女なんてほとんど意識していなかったから、普通のことだと思っていたけど周りの男子たちは違ったみたいだ。


 俺以外の男子たちも本当はずっと遥香や他の女子がいる輪に入りたかったのだろう。けれど、恥ずかしさもあって自ら仲間に入ってこなかったのだ。

  

 ――すると、嫉妬のせいか俺にあだ名がつけられた。


「おーい、おんなおとこ」

 保育園で大将のような存在であった恰幅の良い同級生が公園に来て、俺を最初にそう呼んだ。みんなその男の子を大将と呼んでいて、彼もそれを気に入っていた。

 保育園ではよく喧嘩が起こるものだが、大将は負けなしの最強園児で、誰も大将とまともに相手できる者はいなかった。


 幼い俺にとっては、おんなおとこという不名誉なあだ名をつけられて、死ぬほど悔しい気分だったけれど、俺が大将に勝てるはずもなく全く言い返せない日々が続いた。


「おんなおとこが泣いてるよ~」


 男子たちが大将に倣って俺のことをあだ名で呼ぶ。

 ある日、俺はついに泣いてしまった。

 公園の砂場でお城を作って遊んでいる時に、近寄ってきた大将一味にそれを思い切り破壊され、俺は砂場に押し倒された。俺が泣くと、大将たちは俺を囲うようにしてさらに笑い、それが本当に悔しかった。


「ちょっとあんたたち! 何してるのっ!」


 そこにショートカットの女の子が現れた。腰に手を当てて仁王立ちしている姿が、砂場の日陰から見ると、太陽に照らされてとてもカッコよかった。

 ショートカットの女の子は俺の方へ歩いてくる。

 俺はああ、助かったと心の中で思った。ショートカットの女の子は正義感が強くて、思ったことは誰にでもはっきり言った。大将を含め男子たちもショートカットの女の子には手を上げられなかったし、彼女は喧嘩も強かった。

 ショートカットの女の子は大将を通り過ぎて、俺の目の前に立つ。そして、砂場に座りこむ俺に手を伸ばした。俺はその手を握って、砂場から腰を上げた。

 この子が俺を助けてくれる。

  


 ――パチンッ!



「……え?」



 音が鳴って、頬がひりひりする……。

 

 叩かれた? 今、叩かれたの?

 

 俺は熱くて痛い頬を押さえるが、呆然としてその場から動けなかった。

 てっきり助けてもらえると思っていた。でも、それは違った。俺はショートカットの女の子に頬をビンタされたのだ。どうして俺が叩かれたのか、全く理解できない。俺は何も悪いことをしてないのに。


「おい、なんだよあいつ。行こうぜ」

 

 まさか俺をビンタするなんて思っていなかっただろう大将たちは驚いた顔をして、関わりたくないと、その場から去ってゆく。


「ねぇ、なんでやり返さないの」

「えっと……君に?」

「違う。あいつら! あの男子たち!」

「それは……えっと」

「それは?」

「……怖いから」

 俺は素直に答えた。女の子前で怖いなんて直接言うのは恥ずかしかった。

「なんで怖いの?」

「だって……大将強いんだもん」

「じゃあ、強くなきゃ戦えないの?」

 吸い込まれるような不思議な目力に、俺は目線を逸らすことが出来ない。

「ふん。もういい」

 何も言わない俺に、ショートカットの女の子は拗ねたようにそっぽを向いた。


「私がいなくなったらどうするの……」


 女の子はぽつりと呟くと、俺に背を向けてどこかへ消えていった。何を言ったかは聞こえなかった。俺は引き留めることも、去り際を目で追うことも出来ず、唇を噛んで、壊れた砂のお城を馬鹿みたいに踏んずけた。


 それから数日が経過した。


 俺とショートカットの女の子には微妙な距離感が生まれて、以前のように上手く話しかけられなくなっていた。それよりも変わったことは、大将が俺にちょっかいをかけなくなったことだ。


「ねえはるかちゃん遊ぼうよ」


 今度は俺ではなく、遥香が大将にしつこく話しかけられるようになった。菫乃によると大将はその頃、遥香が好きになったらしく、嫌いな俺より好きな遥香にしつこく付き纏った。


「私一人でブランコ乗るから後でね……?」

 遥香は、大将の誘いを頑なに断り続けた。

「えーきてってば! きてって!」 

 初めは大将の方もすぐに引き下がっていたけど、自分に全く興味のない遥香に苛立ったのか、遥香のことを強引に引っ張たりするようになった。


「ねえやめて! はなして!」

「いいじゃん! ちょっと遊ぶだけだから!」

「いや!」

「ほら! きてよ!」


 遥香のか細い腕が、ムチムチの肉付きの良い大将の腕に引っ張られる。

 大切な友達である遥香が、大将に無理やり腕を引っ張られている光景に、俺の心臓がぐっと小さくなる感覚に襲われる。小さな拳は自然と握られていた。

 

 でも、


「ねえ、いたいってば!」


 でも、でも、でも、


「じゃあついてきてって!」


 でも、肝心な一歩が踏み出せない。離せ! という一言が言えない。


「ねえ、いいの? そのままで」


 立ち上がったまま、傍から見るだけの俺にショートカットの女の子が近づいてきた。頼りない俺の両肩が、がっと掴まれる。


「はるかちゃんのこと大事なんじゃないの?」


「うん……大事だよ」

 大事だ。そんなの当たり前じゃないか。

「じゃあなんで動かないの?」

 動かないんじゃない。動けないんだ。

「俺は弱いから……」

 俺は弱いから何も出来ない。自分ひとりじゃ、なにもできないんだ。

「ねえ、知ってる?」

 ショートカットの女の子は俺の目を見つめて言った。

「人にはね、勝てなくてもやらなくちゃいけない戦いがあるんだよ。それはね、自分のためじゃない。誰かのためにする戦い。誰かを守るための戦いだよ」


 俺にそんなことできるのだろうか。誰かを守ることができるのだろうか。


「てるひこくん、弱くても戦えるよ」


 ショトーカットの女の子はそう言うと、俺の背中をぽんと優しく押した。

 優しい力で、俺の右足が前に出る。

 そうだ。ずっと逃げっぱなしでどうする。はるかが……嫌がってるんだ。

 今度の左足は、自分の力で前に出した。

 おれは弱いかもしれない。でも弱いから戦えないんじゃない。

 弱くても関係ない。俺がはるかを助けるんだよ。

 弱くても戦えるんだよっ!


「離せ――っ!」


 俺が出せる全力で、大将の方へと全速力で、強い力で、踏み出した。

 大将は遥香の腕を掴んで引っ張ることに夢中で、俺の方に気づいていない。

 いまなら後ろから体当たりできる。


 ――と思った瞬間、つま先で何かを踏んだ感覚がした。そして、俺は足を滑らせてしまった。その辺りに落ちている石につまずいてしまったらしい。


 このままいくと大将に届かない。

 咄嗟に右腕を伸ばす。あと少し……あと少しで手が届く。

 俺の指先はなんとか大将の腰辺りに触れたが、俺はそのまま床に倒れてしまった。なんでこういう時に限って石につまずくんだ。


 俺が床にこけたとほぼ同時に「きゃー!」「へんたーい!」などと、女の子の悲鳴が公園中に飛び交った。俺はこけた自分が馬鹿にされているのだと思って、恐る恐る顔をあげると、


 ……なんだ?

 目の前には、真っ白の生地が……。


「あ。ぱんつだ」


 俺の届いた手は大将のズボンに引っかかり、俺が倒れる勢いでそのままズボンが脱げてしまったのだ。後ろから見ると、ピンク色の可愛らしいお尻が半分顔を出している。


 大将は自分の姿に気づくと、だんだん顔が赤くなってゆき、顎をぷるぷるさせた。


「う………うぅ……うええええええええん」

 大将は遥香の腕を離し、その場でうずくまって泣き出してしまった。


「ご、ごめん、そんなつもりは……」

 本当は体当たりしようと思ってたんだけど……。

「ねえあんた!」

 後ろからショートカットの女の子が近づいてきた。

 俺は、またビンタをされると思って反射的に目を伏せた。


「これで泣く人の気持ち、分かった……?」


 頬に痛みがない。俺はゆっくり目を開けると、ショートカット女の子はしゃがみ込んで対象の背中に優しく手を置いていた。泣きながら大将はうんうんと頷く。


「じゃあ、ズボンはいてはるかちゃんとてるひこくんに謝ったら?」

「うん……」


 大将はズボンを持ち上げながら立ち上がると、俺と遥香に涙が溢れる目を擦りながら謝った。

 大将の素直な姿に、俺と遥香はお互いに目を合わせて、少しだけ微笑んだ。

 これをきっかけに大将は、誰かを無理やり引っ張って連れ出そうとしたり、人が大切に作ったものを壊すことはなくなって、何故かその場にいなかった園児たちには、俺が大将に喧嘩で圧勝したという噂も流れた。


 その後、俺はみんなと外で遊ぶのが好きになった。でも、一番一緒に遊びたかったショートカットの女の子は突然俺の前から姿を消した。


 俺は寂しかったけど泣かなかった。ショートカットの女の子が俺にビンタをしてくれたのは、きっと本当の優しさだった。

 俺はそれまで神社で迷子になった時、ショートカットの女の子に見つけて助けてもらったり、他にも沢山助けてもらうことがあった。

 でも、助けられているだけじゃ、俺はいつまで経っても誰も守ることも、助けることもできない。


 だからショートカットの女の子は、自分が居なくなったって誰かを守るべき時が来たときは、たとえ弱くても戦える人になってほしかったんだと思う。

 あのまま助けられているだけだったら、それ以降の人生で、大事な人のピンチに立ち向かうことも出来ず、ちっとも強くなれなかったかもしれない。


 本物の強さと優しさを教えてくれたのは、俺の初恋でもあり、尊敬する人でもあるあのショートカットの女の子だった。


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