第十八話 不幸は前触れが無い
朝食を食べ終えたあと、身支度をして俺と美月は家を出た。
起床の時間は普段より早かったはずなのだが、朝食を食べながら美月とあーだこーだ言い合ったり、俺が顔を洗っている時に美月が背後からくすぐってきて同棲カップルのいちゃいちゃモーニングみたいになってしまい、それを真由に見られて言い訳していたりと、結局は時間が大幅にかかってしまい……学校に遅刻した。
不運にも一限目は校内でも最も厳しいと有名な先生が担当する授業だったので、二人して怒られてしまった。怒られている俺を横目でちらちら見ながら、くすりと笑う美月の仕草も毎度のことのようにあざとかったが、怒られてる時はやめてほしい。
何笑ってんだってお前、って怒られたからさ。
憂鬱な連続の午前だったが、やっとのことで昼休みになった。
俺、遥香、美月、涼太の四人は机をくっつけて昼食タイムだ。
涼太は普段バスケ部の仲間で食べることも多いけど、今日は俺達と一緒に昼飯を食べるらしい。涼太はグループとかそういったものを気にしない男で、周りに左右されない器の大きい人間なんだ。
もちろん褒めているわけでは無く、嫌味を言っている。
「ほんと朝から遅刻とは不運だったよね~まあ仕方ないか~隣には誕生月占い最下位の輝彦さんがいらっしゃるもんね~」
紙パックのオレンジジュースを両手で持ちながら、ストローを吸う美月がまるで全ての不幸が俺のせいにしてきた。しかし今回は負けん。
「他人事だな。美月だって十一位だったじゃんかよ」
「十一位と最下位には大きな差があるもん」
「ふん、いいだろう。百歩譲って大きな差があるとしよう。しかし! 『7月が誕生月であるあなた! 今日はうっかりして時間を忘れちゃうかも。遅刻には気を付けましょう』ってしっかり言われてたぞ。ほら、遅刻は美月のせいだね!」
「違います~。最初に占いを見てから学校に行こうって言ったのは輝彦師匠だし、占いなんて見てなかったら遅刻寸前になってません~」
「は~? 時間無いからやっぱりもう行こうって言ったのに『まだ美月の誕生月でてないから待って』ってソファから立たなかったのはあなたです~」
「ま、じゃあそういうことでいいよ」
「おい、俺が鬱陶しい奴みたいになるから急に呆れたような態度にするのやめろ!」
「なに輝彦師匠、美月と張り合うつもりなの?」
「やってやろうじゃんか!」
今日こそは日頃の鬱憤晴らしてやる。かかってこいや美月ぃ!
でも手加減はしてくれ。
「ほらほら、二人とも座って座って」
スマホをいじっている涼太が、今日は珍しく二人の間に入った。
「……なんだ涼太珍しいな。お前が仲裁するなんて」
「ちょっと三人に聞きたいことがあって」
いつもの女子からのラインをむかつく顔でひたすらに返している普段の涼太と、今日はどうも表情が違う。
「みんなさ、あの動画見た?」
「ん? あの動画って?」
涼太の異変に気づいたのか、遥香が低めのトーンで返す。
「輝彦と美月ちゃんは?」
「あの動画? ちょっとわからないな」
「美月もわかんないかも」
「たぶんそれを言って分からないなら、知らない可能性が高い……」
涼太の真剣な表情は体育と部活の時以外ではめったに見ないから、今話題のあの動画とは何のことか尚更気になる。声のトーンから明るい話ではないことが予想できる。
「なぁ、その動画って何の話なんだよ?」
「これなんだけどさ」
「なんだ?」
涼太はみんなに見えるようにスマホの画面を向けた。
隣に座っていた俺も身を乗りだしてそれを覗き込む。
スマホはYouTubeが開かれていて、その画面に広がるのは公園らしき場所。
そこにぽつんと金が城高校の制服を着た坊主頭の男子が一人で映っている。動画では男子の横顔しか見えない。
しかし俺はその公園にも、男子高校生にも見覚えがあった。
「これって竹内くんじゃない……?」
「姫野の知り合い?」
「う、うん。アルバイトの後輩なの。輝彦も美月を知ってるよ」
「そうなのか。とりあえず続きを見てくれ」
涼太がスマホをタップすると、画面が浮き上がって動画が始まった。
動画は早送りで再生され、何度瞬きをしても、やはりそこには竹内の姿がはっきり映っていた。動画に映る男子高校生は竹内で間違いない。
竹内は、時々ポケットからスマホを取り出して何かを気にしていて、公園の出口を見まわしたり、そわそわと微妙に動いている。
動画が進むと、竹内が時々後ろの方を振り返る瞬間や、竹内の深呼吸する姿、竹内の不安そうな顔も横からのズームで次から次へと映し出されていく。
「誰が撮ったんだこれ……」
口から不意に言葉が零れ落ちた。
こんなの――竹内が北原しずくさんに告白した日以外にありえない。
公園にいたのは竹内、俺、遥香、美月の四人だったはず、そう思っていた。遥香と美月は隣にいたし、この動画を撮れるわけがない。まず、撮影されている視点が違う。俺達は竹内を後ろから見ていたが、この動画は横から撮られている。
――となると、他にあの公園に誰かがいたということ。
竹内の姿に集中していて、その存在に全く気付かなかった。
秒数が進むと、北原しずくさんが現れた。北原さんは顔がモザイクで隠されているが、服装からして北原さんで間違いない。今度はそちらにズームが寄る。
早送りが終了されたのだろう、動きがスムーズになる。
北原しずくさんが公園にやってきたということは、この後竹内の告白が行われるということだ。
「し、しずくちゃん……」
「ご、ごめんね待たせちゃって」
「ううん、全然。俺も今来たところだよ」
「い、忙しかった?」
「う、うん。ちょっと道に迷っちゃって」
「そ、そっかそっか。それは大変だ!」
「うん」
小音ではあるが、動画の中には竹内と北原しずくさんの会話が録音されている。
――そして、
「俺! しずくちゃんのことがずっと前から好きでしたっ! もしよければ、俺と付き合って下さいっ!」
――竹内の口から告白の言葉が出た。
「……ごめんなさい」
その後、二人の間でほんの少し会話が行われると、画角から北原しずくさんがフェードアウトし、動画は竹内の涙ぐむ様子がアップで映し出されて終わった。涼太が見せてくれた動画には、竹内が北原しずくさんに振られるまでの一部始終が収められていた。
さっきまでの楽しい雰囲気みたいなものが一瞬で重苦しいものに変わる。
まさに青天の霹靂だった。
「俺も昨日知ったんだけど、この動画、金が城高校で最近バズってるらしいんだよ。一部ではこんな動画消した方が良いって意見もあるんだけどさ」
涼太はスマホの画面を消して、机に置いた。
「なんか、女の子はすげぇ嫌がってたのに、無理やり呼び出されて告白されたって噂が流れてるんだよ。俺はよく知らないけど、男の方は結構なヤンチャしてるとも聞くし――」
涼太は今、竹内が無理やり北原しずくさんを呼び出して告白したって言ったのか……?
そんなはずは……。
「輝彦、知り合いならその辺りどうなんだ?」
「……確かに、ちょっと前まで竹内は不良じみた行動してたかもしれない。でも今は見ず知らずのおばあちゃんの荷物を、自分から持ってあげるくらい優しい事が出来るやつになったんだ」
「じゃあこの一連の告白は無理やり呼び出したわけでもないんだな?」
「ああ。俺が保証する」
俺は涼太の目をしっかり見つめて言った。
「じゃあ今流れてる噂は全部嘘ってわけだ。輝彦が言うなら間違いないな」
「ああ。……でも誰がこんな動画上げたんだ? 涼太、それは分からないのか?」
「どうだろう。最初に匿名でYouTube投稿されて、そこから拡散された感じだから、最初に動画を晒した奴は……俺たちだけで調べても分からないと思う」
「そうなのか」
「でもやばいと思うぞ、その竹内くんだっけ? コメント欄で結構バッシングされてるぞ」
「え? ちょ、もう一回見せてくれ」
俺は涼太から半ば取り上げる形でスマホを受け取って、竹内の告白動画のコメント欄をスクロールした。そこには動画に対していくつかコメントがされており、中には目を疑いたくなるようなコメントがあった。
『こいつうるさくて、教室ですっげー迷惑なんだよね』
『ヤンキーかぶれの癖に、女々しくて草』
『うわ、女子の方めっちゃ目死んでる。相当嫌だったんだろうな』
『まず顔がむかつくわ、あと、しっかり振られててワロタ』
『ちょっと前まで肩で風切って歩いてたのに、最近へこへこして話しかけてくるのほんとキモイ』
『顔が嫌い(笑)』
「なんだこれ……」
金が城高校は自称でも肩書は進学校で、普通そういう類の学校に不良はいない。理由は知らないが、それでも竹内はこの金が城高校で一人だけ不良じみた行動をとっていた。
学年が違うせいか、竹内がこんなにも煙たがられて嫌われていたなんて知らなかったけど、竹内がつるんでいた不良連中もたしか他校の生徒だったはず……。
というとこは、もしかすると、この金が城高校に竹内が自信をもって友達と呼べるような人はいない可能性がある。
となると、今竹内は……。
「ちょっと行ってくる」
動画を見ても無言を貫いていた美月が、席から立ちあがって一心不乱に廊下の方へと走り出した。
「待て! 俺も行く!」
俺も反射的に立ち上がって、無造作に並べられたクラスメイト机にぶつかりながら、美月の後ろ姿を追いかける。
「なあ竹内のクラス分かるのか⁉」
「…………」
「おい、美月⁉」
「…………」
廊下を曲がって、スカートを風に揺らしながら階段を駆け上がる美月は、俺の声が全く届いていない。河川敷で俺がリンチされた時と同じ状態だ。後ろからだから表情が見えないが俺には分かる。美月は間違いなくキレている。
二年生の教室が並ぶ二階から、一年生の教室が並ぶ三階に登りきると、美月は教室の窓からクラスを一瞬だけ覗いて、次の教室の窓へと移る。竹内のクラスがどこかは美月も知らないみたいだが、たったの一瞬見ただけで教室に竹内が存在しているかどうか判断しているとすれば、計り知れない動体視力だ。
そして一年三組の前で、美月の足が急ブレーキで止まり、俺もぶつかりそうになりながら何とか停止した。
俺も窓から教室を覗くと、教室の真ん中辺りの机に坊主頭の姿があった。
竹内だ。
竹内の周囲にはクラス大半の男子が集まっていて、竹内は自分の席であろうと思われる椅子に座っている。他の男子は別の机にもたれ掛ったり、竹内の机に尻を置いたり、少し距離が離れた場所から会話に参加している。
会話の内容は全く聞こえないが、誰かの席にみんなで集まってくだらないことを話し合うというのは、よく見る男子の休み時間の過ごし方だ。
しかもクラスメイトの男子は、竹内の机に集まっている。
「……なんだ、心配して損したな」
YouTubeのコメント欄を見て、勝手に心配した俺が恥ずかしいよ。
「ちょ、ちょっと早いよ二人とも……」
出遅れた遥香が、三階にようやくたどり着いて膝に手をついた。
「遥香、疲れてるところ悪いけど、教室に戻るぞ」
「えっ? 竹内くんは?」
「ああ、それなら大丈夫みたいだ。今も楽しそうにクラスメイトと話してるよ」
「ほんと! それなら良かった……」
息を整えた遥香は、上体を起こして安堵の表情を浮かべた。階段を駆け上がるのって、部活動をしてない人からしたら辛いからな。
「ねぇ輝彦師匠、よく見てよ」
「ん? どうした美月」
「ちゃんと見て」
「なんだ? 普通に談笑してるだけだろ?」
「違うよ」
教室内を覗く美月の眼差しは鋭く、何かを観察するような目をしていた。俺もその姿を見て美月の横顔から教室へと視線を戻した。やはり、状況は変わらない。竹内がクラスメイトに囲まれる形で話をしているようにしか見えない。
「何かおかしいのか?」
「ちゃんとおたけを見てあげて」
竹内をちゃんと見る……?
竹内は椅子に座った状態で、クラスメイトが話しかける方に顔を向けて微笑んでいる。窓にもたれ掛ったクラスメイトが話しを振られたら、そちらを向いて会話をする。竹内の机に座るクラスメイトに話しを振られたら、そちらを向いて相槌をしたりしている。
その光景には何も可笑しな場面はない。
でも何かが引っ掛かるような……何かがおかしいような……そんな気はする。
ん~、俺が知っている竹内はもっと、素直な感じで笑う人だった。
言葉ではうまく説明できないけど、クラスメイトと会話をしている竹内は、何か周りに気を使って口角を上げている感じがする。微笑んでいるというか、苦笑いに近い。微妙な顔をしてその場に立っているだけの男子もいるが、竹内の周りにいる多数の男子たちは心から楽しそうに笑っている。
「どう? 分かった?」
「ああ、でもこれって……」
その言葉の続きは俺が最も恐れていたこと。だから俺は、それを口にするのも躊躇った。
「あ、輝彦! 竹内くんこっち来るよ!」
遥香が言ってその場にかがむ。
男子の集団の中から、抜け出すように竹内が立ち上がった。そして頭を掻いて自分を囲む男子たちに軽く会釈しながら、小走りでこちらに向かってくる。竹内の視線は床の方を向いているから、俺たちに気づいているわけではないだろうが、廊下を目指して接近してくる。
「やべっ、ばれる。遥香、美月、隠れるぞ! こっちだ」
「う、うん!」
悪いことをしている訳でもないのに、パトカーから逃げたくなるような心理が働いて俺は咄嗟に竹内から隠れる場所を探す。だが、当たり前のように廊下には隠れるような場所が無い。
「ど、どうしよう輝彦!」
「仕方ない! 窓から外を眺めるふりをするしかない! ほら、美月もこっちこい!」
美月は扉の前に立って動かない。
「美月!」
だめだ、美月には全く声が届いていない。俺と遥香は窓から外を見るふりして、竹内が出てくる教室の方に背を向けた。
「美月っ、そんなところに居たらバレる! どうやって俺たちが一年生の階にいる言い訳するんだよ!」
ガラガラッと教室の後ろ扉が開く。
「はぁ」と、ため息交じりの竹内が肩を落として、足元に視線を向けたまま廊下に出てきた。竹内が振り返らずに、後ろ手で扉を閉め切ると、教室の中の喧騒が聞こえなくなる。
「よっおたけ」
「うおっ⁉」
目の前で仁王立ちしている美月にようやく気づくと、竹内は跳ね退いて扉に背中をぶつけた。
「び、びっくりしたぁ! 美月姐さんこんなところで何してんすか⁉」
俺は窓の外を眺めるふりをしながら横目でその様子を見る。
「そこに輝彦師匠と遥香もいるよ」
「ええ⁉ ってほんとだ! 輝彦兄貴と遥香さんもそんなところで何してんすか⁉」
おい、美月……せっかく隠れたのに何でいうんだよ!
どうやって竹内に声を掛ければいいか全くわからないから会わないようにしたのに。
「お、おう竹内。久しぶりだな」
「こ、こんにちは竹内くん」
見つかったらしょうがないので、俺と遥香は窓から離れて、竹内の元へ歩み寄る。なんだか竹内へ近づく一歩が、階段を駆け上った時と同じ足とは思えないほど鎖を繋がれたように重い感覚がある。えーっとこういう時って何を話せばいいんだっけ。
「ねえ、おたけ。最近どう?」
前ぶりも何もない美月の質問。
「お、おい美月……」
「さ、最近っすか? えっーと特には何にも……」
「変わったこととかは?」
「変わった事っすか? ん~、バイトの給料が五十円上がったことくらいすかね」
「学校では何かない?」
美月が一歩踏み出して、竹内に近づく。
「え~次のテストがやばそうってことくらいっすかね。それ以外はいつも通りっすよ」
竹内は、教室の扉に背中が張り付いて逃げ場を無くした状態で耳まで真っ赤にしている。
美月のような美少女と至近距離で話すのは、いくら共学の男子高校生でもハードルが高いはずだ。
「そっか」
美月はその答えを聞くと、一歩後ろに下がった。
「なんすか急に皆さん浮かない顔しちゃって! あ! お金の相談ならやめてくださいよ! 俺も貯金無いんすかなら!」
竹内は大阪のおばちゃんみたいに、手をひょいとやって冗談ぽく笑っているが、二週間前に会った竹内より確実に頬がこけて、顔色も優れていないのが分かってしまう。
「あ、すいません。俺、ちょっと漏れそうなんでトイレ行ってきますね!」
竹内はこの場から早く逃げだしたいという感じで、トイレの方へ歩き出した。
俺はその後ろ姿を目で追った。
――ただ、その刹那。
竹内の背中を見て、俺の目に飛び込んできたのは予想外のものだった。
瞬間的に、俺の頭の中で何か大切なリミッターのようなものがぶちっと切れた。
――なんでだ、どうしてこんなことが起きるんだ。
――ぐらんと視界が歪んで、沸騰したお湯みたいに熱いものが腹の底から込み上げる。
――こんなの絶対おかしいじゃないか。
それが怒りなのか、何なのかすら自分でも分からない。
勝手に足が動いて、竹内の背中へと俺の手が伸びてゆく。
しかし、俺の手が届く前に、横から伸びてきた手が、竹内の背中にたどり着いた。
そして、スローモーションの視界の中。制服のシャツがびりびりっと引き裂かれた音が俺の鼓膜を震わせ、白い布の繊維と、小さな破片が宙に舞う。
隣を見ると、美月の拳にはくしゃくしゃになったシャツが握られていた。
俺の手が竹内の背中に届く前に美月の手が届き、竹内のシャツを破り取ったのだ。
「ちょ、ちょちょ! 何すんすかいきなり! なんでシャツ破るんすか⁉」
竹内が必死に首を後ろに向けて、破れた背中の部分を手で触って確認している。でもそこには軽く日に焼けた茶色の肌が露出しているだけだ。
「だ、大丈夫。保健室に行けば、替えのシャツを貸してくれるはずだから!」
動揺気味の遥香ではあったが、瞬時に頭を切り替えると、俺の隣から飛び出して竹内を反転させた。
「ほ、ほら、行って! 弁償なら必ずするから!」
「え、ええ、ちょっと!」
「私もついて行くから!」
焦る竹内を、遥香が背中を隠すように後ろに立って、半ば強引に保健室の方へ向かわせる。遥香は一瞬だけ俺と美月の方へ目配せして、伏し目がちに小さく頷いた。そして何とも言えない表情で竹内の肩を持つと、その背中を隠すように歩き出した。
美月は破り取ったシャツを、背中の後ろに持って強く握り締めている。腕は震えて、下唇を噛む美月の姿は、あざと可愛い普段の姿ではない。
「美月、それを見せてくれ」
「うん」
美月は少し躊躇った様子で、破り取ったシャツが握られている右手を差し出した。
竹内のシャツ。このシャツの破片を広げてしまえば、俺の何かが壊れそうで怖い。自分が何をするか分からない。もしかしたら、さっきのは見間違えで、竹内の背中には何も無かったんじゃないか。俺はパンドラの箱を開くような気持ちで、シャツを広げた。
『僕は女の子を寝取ろうとしたクズ野郎です(笑)』
美月が竹内の背中から破り取ったシャツには、セロハンテープでそんな張り紙がしてあった。
「輝彦師匠待って!」
「離せ美月!」
だれだ、こんな馬鹿みたいな幼稚なことをしたやつは。
俺の中で、確信に変わった。
――竹内はクラスでいじめられている。
一時間も雨の中で、好きな人を待って、ただ真剣に想いを伝えただけなのに、根も葉もない噂と悪意に満ちた動画が拡散され、しまいにはこんなクソみたいな言葉が並べられた紙を背中に張られた。竹内はこんな紙を張られたことも、きっと気づいていなかったはずだ。それを見てクラスの連中は笑ってたんだ。竹内を囲んでいたクラスの男子たちは、仲良く談笑してたわけでもない。わざわざ竹内の周りに集まって、ほくそ笑んでたんだ。
許せない。
俺の足はいつの間にか、教室に向かっていた。
「待って! 輝彦師匠落ち着いて!」
「落ち着いてられっかよ! こんな最低なことしやがって! 俺がタダじゃおかねえ、見つけ出してそいつをぶん殴ってやる!」
廊下にいる一年生の女子達が、手で口を隠しながらこちらを見てひそひそ話をしている。
「そんなことしても何の解決にもならないよ!」
「じゃあどうすればいいって言うんだよ!」
「今この教室に乗り込んだら、状況が良くなるどころか悪化する! 何も考えずに中途半端に行動して、直接的な嫌がらせが無くなったとしても、おたけは周りから距離を置かれて、卒業まで友達どころか、話せる相手まで居なくなっちゃうかもしれないよっ!」
美月は俺の手をぐっと力強く掴んで離さない。
「くっ……」
美月の言うとおりだ。今、俺が教室に飛び込んで、竹内のシャツに紙を張った犯人を捜していても、クラスメイトが口裏を合わせていれば、犯人を見つけられない。もし見つけられたとしても、竹内の後ろには先輩がついていると思われたり、告げ口をしたと思われれば、ますます竹内がクラスメイトから疎遠になるのは間違いないし、いじめが悪化する可能性だってある。
「でも、他にどうすれば……」
「だから、まずは考えないといけない。どうすれば、おたけへの嫌がらせを無くして、友達との関係を修復させられるか」
「そんなことできるのか? 両方選ぶなんて」
そんなうまい話存在するのだろうか。いじめを無くす上に、竹内とクラスメイトとの関係を修復させるなんて、普通に考えて無理じゃないのだろうか。
「出来ない事なんかないよ。だって――」
俺の肩にぽんと手が置かれた。そして俺が顔をあげると、美月はいつも通りの笑顔でにっこり微笑んだ。
「――弱くても戦えるんだから」
その美月の言葉に俺は息をのんだ。
弱くても戦える――それは俺が尊敬する、俺の初恋の、あのショートカットの女の子が俺に言ってくれた言葉だったから。俺の鼓動が一気に加速する。俺の肩に置かれた美月の手は、夏服のシャツを通しても、温かくて柔らかくて、そして強い。
「ほら、輝彦師匠。授業に遅れちゃう」
「お、おう」
美月が俺の背中を階段の方へどんと押した。
思考が停止していた俺は、不意に美月の方を振り返る。もしかして。
「どうしたの……?」
「あ、いや、なんでもない」
俺は何をどう聞けばいいかわからず、美月の目から視線を逸らした。
「行くよ輝彦師匠」
「お、おう、すぐ行く」
階段を上る美月の後ろ姿を眺める。もしかしたら……いや、そんなはずはないか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます