第十七話 love
あれから数日が過ぎた。
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ……
この世界で最も嫌いな音が俺の鼓膜を刺激する。
日曜日の終わりをお知らせする海鮮一家ドタバタ劇のオープニング曲と、朝の始まりをお知らせする携帯のアラームは同じくらい俺のテンションをどん底まで下げる。
「はぁ」
眠たい目を擦りながら、携帯のアラームを解除する。
そして、もう一度5分後にアラームをセットする。
「たったの五分、されど五分」
俺は薄い掛布団を、頭が隠れるまでぐいっと持ち上げて目を閉じた。二度寝の時間はもう俺の体に不可欠となっている。カーテンを閉め切った暗い部屋で現実逃避をするこの時間こそが永遠と続いてほしい。
しかし、そんな俺の願いは永遠どころか一瞬で破り捨てられた。
「はーい、もう起きる!」
ザバッという音とともに布団をはぎ取られ、シュパッという音ともにカーテンが開かれると、眩しすぎるほどの太陽光が俺の部屋に差し込む。
「や、やめてくれ……目、目があぁぁ」
「兄ちゃん、吸血鬼ごっこはもういいから早く起きて」
ベッドの前に仁王立ちし、呆れたようにはぁ、とため息をつく少女。
「真由よ、これはごっこなどではない。目覚めたてのこの瞬間だけは誰しもが吸血鬼と同じように日光に弱くなるんだぞ」
「はいはい、早く起きて。昨日起こしてくれって言ったの兄ちゃんじゃん」
中学三年生の妹の真由はめんどくさいと言いながらも、毎日俺を起こしに来てくれる。
兄とは似つかず、学校ではイケイケグループ所属らしい。妹の携帯からはLINEのメッセージやらインスタのディーエム?やらとかの通知音が常に鳴りやまない。俺からしたら害悪でしかないその不協和音をどうにか止めさせようと対策を検討中である。
「確かに起こしてほしいとは言ったが、俺は五分の二度寝中だったんだ。もう五分後に来てくれ…………ぐぁっ」
「おらガタガタ言わずにはよ起きろや」
かかと落とし蹴りが俺の脇腹に直撃する。妹が毎朝起こしに来てくれる理由として、俺を合法的に蹴ることでストレスを発散できるからだとか。
「うぅ……この痛さを感じると朝が来た感じがするな」
「なに、兄ちゃんドMなの? ド変態なの? キモすぎるんだけど」
朝一の日光浴の代わりに妹からの蔑みの視線を浴びて俺の朝は始まった。
重い体をベッドから起こして一階に降り、まず洗面台で顔を洗う。
そして扉を開けてダイニングに入ると、バターが塗られた美味しそうな厚切りトーストがテーブルに置かれていた。キッチンでは母さんがスクランブルエッグを作っており、お皿には香ばしくカリッと焼かれたベーコンがすでに盛り付けてある……。
「珍しいことでもあるんだな……母さんが朝から料理なんて」
面倒くさいという理由でいつもなら母さんは朝食を作ってくれない。特に平日の朝は、自分でトーストを焼くか、バナナで手早く朝食を済ませるのに、今日はちゃっかりエプロンまで身に着けている。
「あら輝彦おはよう。そんな冗談はいいから早く席に着きなさい」
あら? あらなんて上級市民の言葉を母さんから初めて聞いたぞ。しかもにっこり笑顔で微笑んでくる。なんだここは……母親が優しい世界線に迷い込んでしまったのか?
「ほらいいから座ってよ兄ちゃん」
「お、おう」
心なしか真由も機嫌がいい。何だこの違和感は……。まあいいかと席に着く。
「じゃあお先に頂きま……」
違和感は拭いきれないが、何かの思い違いだろうと俺がトーストに手を伸ばした瞬間、あることに気づく。なぜかテーブルには三人分のお皿が用意されているのだ。母さんは昔から朝食を食べない派だからおかしい。トーストも俺と妹の分だけではない。
――そして廊下の方で誰かの足音が聞こえた。
父さんはこの時間には家を出て、職場へ向かっているはず……。
軽い足音がこちらへ段々と近づいてくる。
すごく悪い予感が俺の胸をよぎる。
「あ、輝彦師匠おはよ~。朝から輝彦師匠に会えて嬉しいな。なんてねっ」
廊下から入ってきた美月に、さり気ないウインクをお見舞いされた。
「やっぱりお前だったか……」
「あれ、驚かないね」
美月は俺の反応に不満があるらしく、頬を膨らませた。
「驚いてはいるが……それよりもまず、なんで俺の家にいるんだよ。しかも朝から!」
「美月も悪いなーと思ったんだけど、家の前で立ってたら、真由ちゃんとお義母さんが招いてくれて、私の分の朝食も作ってくれたんだよね」
「今『ぎぼ』って意味のおかあさん使っただろ」
「あ、すいませんお義母さん。お手洗いお借りしました~」
「無視か⁉ 今またお義母さんって言ったよね⁉」
「いえいえ全然。美月ちゃんも座って座って~」
「はい。ありがとうございますっ」
美月はごく当たり前のように俺の隣に座る。
「はい。じゃあこれ食べてね~」
母さんが出来上がったスクランブルエッグをテーブルに置き、夏目家では珍しい母の朝食が全てテーブルに並んだ。こんな上機嫌な母さんは久しぶりに見た……。
「じゃあいただきまーす」
「いただきますっ!」
「い、いただきます」
ありふれた日常であるかのように振舞う真由と、普通に夏目家に馴染む美月に気後れしながらも、俺も朝食に手を伸ばす。もしかしたらこんな朝をこれまでも過ごしていたのか?
「真由ちゃん次ケチャップちょーだいっ」
テーブルを囲む皆でスクランブルエッグにかけるケチャップを回していく。
「はい、美月さん。どーぞっ」
「じゃあ美月、次俺にくれ」
「あ、輝彦師匠は美月がかけてあげるよ」
おい、妹の前ではやめてくれ。
「ほーらできた!」
止めようと思ったころには俺のスクランブルエッグに『love』という字がケチャップで描かれていた。いや、さらにやめてくれ。そしてなぜ小文字だ。
「じゃあ、お母さん着替えてくるから。あ。美月ちゃんは食べ終わったらそのまま置いておいていいからね」
「分かりました! あ、お義母さん、本当にこのスクランブルエッグ美味しいですぅ!」
美月が天使のような笑顔で俺の母さんに微笑む。だからお義母さんって呼ぶな!
「あ~美月さんの笑顔可愛いです~! 最高です~!」
「きゃ~、お義母さん、美月ちゃんにそんなこと言われたら照れちゃう~」
真由も美月にメロメロだ。お義母さんってもう自分で使っちゃってるし!
ここは地獄か。
すっかりこの家に馴染んでやがる。真由も普段の「兄ちゃんそこ邪魔なんdeathけど」とか言ってくる表情と全然違うし、なんか媚びてるし。通りで母さんの様子もおかしかったわけだ。
「輝彦…ちょっとこっちにきなさい」
母さんが廊下に出ると、扉から少しだけ顔を出して手招きをする。
「な、なに?」
トーストを皿に置いて恐る恐る席を立って廊下に出ると、母さんの手から俺の手に封筒がとんと置かれた。
「なにこれ?」
「良かったわねぇてるひこぉぉ……」
母さんの顔が涙でぐちゃぐちゃになっている。
「母さん本当にうれしいの。あんたみたいな野暮ったい男と美月ちゃんみたいな美女が仲良くしてくれるなんて……。このへそく……お金使いなさい。全部使ってでも美月ちゃんを手放したらだめよ!」
今へそくりって言ったよね? 完全に言ったよね?
なにこの世界の人はごまかすの下手なの?
「ちょっと耳貸しなさい」
「なに急に」
「あのね。お母さん、真由と協力してそれとなく『美月ちゃんは輝彦の事好きなの?』って聞いてみたの」
「母さんそれとなくの意味間違ってない?」
「そしたらね」
「そしたら?」
「『大好きです』という返事が返ってきたの」
「うごぉっほぉ‼」
通常の人間ではありえない声が俺の声帯から飛び出した。
美月さん何言ってんのかな? 絶対からかって遊んでるよね?
学校じゃなくて家でまで引っ掻き回すのやめてもらえますか?
「という事だから絶対手放しちゃだめよ‼」
涙目の母さんが俺の手を強く握ってくる。だめだ、闇路美月に洗脳されてる。
この場合何を言っても通じないのはクラスでの経験をもとに俺は知っている。
「輝彦師匠~、早く食べないと遅刻しちゃうよぉ?」
にやにやした顔つきで美月が扉からぴょこんと顔を出してきた。目元が完全に笑ってる。
このやろう、絶対後でしめてやる……という妄想をする。
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