第一話 転校生ヒロインがアザトカワイイ
9月の始まり。
そして今日は始業式明けの金曜日。
短かった夏休みが終わり、また学校が始まってしまった……。
だが、悪いことばかりではない。
公園で血(返り血)だらけの女の子と出会った一学期の終業式の朝から、一か月以上が経過した。警察がわいせつ罪で俺を捕まえに来ることもなく、現在は平和な日々を送れている。
(大丈夫。もう一か月経ったんだ。あの日の朝のことは忘れていいだろう。)
無事に俺が通う高校――金が城高校へ到着。
ちなみに、金が城高校は、中高一貫の私立学校であるが、俺のように半数ほどの生徒は他の中学校から受験をして、金が城高校に入学している。
んなのはどーでもいいことだけど。
「輝彦っ! 遅いってば、何してたんだよっ!」
教室の後ろの扉を開けると、抱き着く勢いで長身のデカブツが飛んできた。この表現だと頭痛が痛いみたいな重言になっているが、これは俺なりの嫌味だ。
「いつも俺はこの時間にしか来ねーよ。あーあ、今日も身長が高いこったな、バスケ部のエースさんはよ」
「百八十五センチもあると試合始まる前からマークされて大変なんだぜ」
「お前はいくつ俺への嫌味を重ねれば気が済むんだ、涼太」
ホワイトニングしてんのかってくらい白い歯に、眩しすぎるほどの笑顔が似合う、朝から元気一杯の爽やか系イケメン男子。
こいつの隣にいると「輝」という漢字が名前に入ってるのに全然輝いていない俺が心底恥ずかしくなる。最強のモデル体型で、スポーツをやらせても右に出るものはいない、言わずと知れたバスケ部のエース。そいつこそが、豊田涼太だ。
入学式の日、突然なぜか話しかけられて、俺は涼太といつの間にか仲良くなっていた。
「そんなことよりあれ見ろよ!」
興奮気味の涼太が指さす方向を見てみると、そこには俺の机と椅子が置いてあるだけ。
「なんだ? 俺の机がどうかしたか?」
「ちげーよ! その隣だよ」
視線を窓際の列の真ん中にある俺の席からその隣へとずらす。
「あ、なんか新しい机が増えてる」
「そうなんだよ! これって転校生だよな? な?」
赤い旗を目前にした闘牛のような興奮状態の涼太の顔がぐいぐいと近づいてくる。
「ばか、顔がちけーよ。そうなんじゃねーのか」
むさ苦しいのに、無駄に顔が良いおかげで涼太は爽やかに見えてしまう。
解せん。
「やっぱりそうだよな!」
さらに追い打ちをかけるようにぐいっと顔を寄せる涼太。まじで近いから。パーソナルスペース侵略しちゃってるから。
「でも、涼太ってたしか年上しか興味ないんだろ? なんでお前がそこまで興奮するんだよ」
「ばっか! 俺は年上が好きなんじゃなくて、年上系が好きなんだよ!」
「なんだよ年上系って」
「だから同級生でも年上っぽい雰囲気とか、お姉さんぽいエロさみたいなもんがあれば俺のストライクゾーンには入るんだよ!」
涼太は俺の肩に腕を回して、あーだこーだ力説してくる。基本的に涼太は人との距離感が分かっていない。イケメンなのに人との距離が近いから、よく女子を勘違いさせて泣かせている。
「でもさ、転校生が女子に決まったわけじゃないだろ?」
「――なっ! たしかに」
なんで核心を突かれたような顔をしてるんだこいつは。考えればわかるだろ……。
「じゃあ、自分の席いくわ」
俺は涼太の腕から抜け出して自分の席へと歩く。
涼太は背が高くてイケメンでスポーツも出来て、本当に嫌味なやつだけど、涼太のおかげで助かってることは滅茶苦茶ある。
実際、今だってクラスのバスケ部グループから抜け出して俺に話しかけに来てくれた。友達の少ない俺を気遣ってくれてのことだ。俺はそんな涼太と友達になれて良かったと心の底から思う。
「あ、輝彦おはよう。みんな転校生の話で持ちきりだね」
席に着くと、前の席に座る女の子が振り返った。
名前は姫野遥香。保育園の時からの付き合いで、幼馴染だ。
「おはよう遥香。今日はやけに賑やかだもんな」
「そうだね。特に男子なんてすごいみんな盛り上がってるよ」
「ああ、女子もうきうきだけどな(どーせ、かっこいい男子が来るとか妄想してんだろ。残念、来ないよ。俺の経験則からして転校生ってのは何年か経ってから卒アル見て、『あ、こんなやついたなぁ』くらいの奴しか来ないんだよ)。」
心の中では可愛い女の子来ないかな、隣の席とか運命じゃん!と興奮気味の自分をひた隠しながらクラスを冷たい目で見まわす俺とは対照的に、遥香ははしゃぐ子供を見守るように微笑んでいる。
遥香は学校の誰もが知る超絶美人で、さらに勉強もできるという最強の才色兼備。
光に照らされると薄紫色に見えるロングヘアに、ぱっちりとした色素の薄い瞳がマッチしていて、傷一つないやわかそうな肌がしっとりとした上品さを感じさせる。
そして上品さの中に秘めた、たわわわわわな胸(おっと失礼『わ』が多すぎた)が俺の目をあらぬ方向へとミスディレクションさせてきやがる。
「輝彦大丈夫……? なんか顔赤いよ?」
「んっ⁉ え? いや、なんでもないぞ?」
なんつー古典的な反応してんだよ俺は。
遥香はそのとんでもなく整った顔に、静かでちょっぴりドジ気質な性格が女子からも男子からも絶大な人気を得ており、彼女のことを遥香姫と呼ぶ「遥香姫護衛隊」とかいうファンクラブもあるらしい。
しかも、会員は女子が過半数を占めてるほどとか。
(なんで男の俺じゃなくて女の遥香がモテてんだ!)
「まあでもさ、転校生といったら一大イベント並みの盛り上がりに一瞬だけなるもんな」
男子たちは可愛い女の子を期待し、女子たちはイケメンの男子を期待している。
当たり前のことだ。
「輝彦も興味ないって顔してるけど、本当は興味あったり……する?」
「残念。俺はそんなものに興味なんてありません」
ホントダヨ?
「へぇ~……ほんとかなぁ?」
俯きがちに髪を手櫛で撫でる遥香は、それはもうとんでもなく可愛い。
「でもどうなんだ? かっこいい男子が来たら席も近いし、カップルになる可能性だってあるだろ?」
普通ならこんな可愛い顔をした女の子、彼氏の一人や二人できないはずもないのだが、遥香は『遥香姫護衛隊』のせいか、アイドル的な扱いで男子が全然寄ってこない。
遥香に近づいたり、不要に話しかけたりする者はこの世から消されるらしいとか……。
幼馴染ということもあり遥香とはよく話すが、学校帰りに時々上から花壇が落ちてくるのはそのせい?
「私は彼氏なんていらないよ?」
「え? そうなの?」
「う……うん」
「そういえば、遥香の好きな人なんて聞いたこともないもんなぁ。好きな人はいないのか?」
「まぁいないってゆうか……なんとゆうか……って……えっと、あぁもう! やっぱり何でもない! 前向く!」
「お、おう」
遥香はちらっと俺の顔を見ると、慌ただしく自分の顔を手で覆い隠して前を向いた。なんか怒られたし、幼馴染とは言え、女というものはやっぱりよくわからん。
はぁ、しかしまあどうして俺の数少ない友達は皆、美男美女なんだ。
俺だって別に顔が悪いわけじゃない。
けれど周りの顔面が強すぎて、相対的に俺の顔面が弱くなっている。相対的に。
「はぁ。世の中理不尽だよ」
「ん? なーにが理不尽だって? テルくん」
「馬鹿。なんでもねーよ、独り言だ」
「ふーん、この菫乃奏様にはテルくんの考えてることはぜーんぶお見通しなんだよ?」
突然、窓際に現れた女子。名前は菫乃奏。
「なんでいっつもお前は突っかかってくるのかね」
「そりゃ、テルくんが面白いからでしょ?」
菫乃とも保育園からの付き合いで、一応幼馴染というやつだ。こいつは一応。
ピンク色の髪にポニーテールで、切れた鋭い目が特徴的な菫乃は、俺のやることなすこと全部突っかかってくる。
小さい頃は何とも思わなかったけど、今はそれが鬱陶しく感じてしまう時が多い。
認めたくないのだが……不覚にも顔は整っていて男子人気が高い。
「ちょっと耳貸しな」
「あ? なんだ?」
すると、菫乃は俺の耳へと口元を寄せて、囁く。
「テルくん別に顔も……そんなだよ?」
ガビン……俺の中で何かが崩れた音がした。ふぅ~深呼吸して全てを忘れよう。
菫乃は常に私はあんたの事なら何でもお見通しだよ、って態度を取ってくる。
まじで超能力者かメンタリストかよってくらい俺の考えていることや秘密なんかは全部見透かされてしまうのだ。菫乃にとってこの世の知らないことなんて一つもないんじゃないかとすら最近は思う。
「あれ、私がメンタル削ぎすぎて、いつの間にか記憶を消す能力身に着けた?」
「ん? 菫乃どうかしたのか? そろそろホームルーム始まるから席戻った方がいいぞ?」
「まあ、仕方ないから今日はこの辺にしてあげるよ」
菫乃は拗ねたようにため息をつくと、自分の席の方へと歩いて行った。
ふぅ……。
――ギッ! ガラガラッ。
俺が一息ついたタイミングで、立て付けの悪い前の扉が耳障りな音を立てて開いた。
「ああ、この扉開けちゃダメだったっけか。おーい、いいから席着け~、ほら後ろの男子たち座れ~」
ぼさぼさ髪のうちのクラスの担任である山崎先生が、絶対に半分しか開かない扉を苦しそうにすり抜けて、顎髭をぼりぼり掻きながら教室へ入ってきた。
昨日はちゃんと後ろの扉から入ってきたのにな。
「教師なら髭ぐらい剃って来いよな」
「自分で前の扉使用禁止だって決めてたのに早速破ったよあの人」
「生理的に無理」
と、クラスから早々に担任の愚痴が飛び交う。
「山崎先生って仕方ないけど、全然好かれてないよね……」
遥香が半身だけこちらに体を向けた状態でぼそっと呟く。
「まあな。山崎先生側からしたら全く気にしてないだろうけど」
担任の山崎先生は古文の教科担当で、授業はそれなりに分かりやすいと評判だけど、俺たちのクラスの事はほとんどほったらかし。
職員の中でも彼氏にしたくないランキングがぶっちぎりの1位らしい。これは菫乃からの情報(盗み聞き)。
おめでとう山崎先生。
山崎先生は、委員会や係に関しても無頓着で、成績が良い遥香にクラス委員長を勝手に任命した後『後は任せた』と言って教室を出て行ったこともある。
断り切れなかった遥香は、人前に出るのは苦手でありながらも、なんだかんだ任された仕事を一生懸命頑張っているのだ。
俺は日々成長している遥香の姿が嬉しく、遥香の仕事を手伝いながらも幼馴染として後ろから見守っている。
「せんせー! 早く転校生紹介してください!」
涼太が立ち上がって、高く手を上げた。さすがトップクラスの陽キャだ。
俺がそんなことしたら次の日から不登校になるであろう行為を笑顔でやってのける。
「そうだな。遅刻者もいないみたいだし、早速紹介するか」
山崎先生は勿体ぶる素振りもせず、教室をさっと見回すとけだるそうに「入っていいぞー」と廊下に声をかけた。
クラス中がワクワクとドキドキの一瞬。
気持ちが高鳴る男女生徒。
席が隣になる俺も少なからず脈拍が上がる。
どんな子が来るか、友達同士、お隣同士のひそひそ話で盛り上がる声――
ギギギギギッッ‼
――をかき消すような耳障りな轟音。
山崎先生が半分しか開けなかった、いや、開けられなかった建て付けの悪い前の扉が、けたたましい音とともに開き――
バタンッ‼
――と音をたてて倒れた。
「あれ、これもしかして壊しちゃった?」
埃が立つ中、教室に現れたのは小柄な女の子。
転校生が女の子だと判明した。いや、そんなことより、だ……。
転校生の女の子は『開かずの扉』を開けきった。これには、クラス全員が目を疑わずにはいられなかった。俺も三度見した。
「いやぁ……すっごい煙……あ、埃か」
女の子の独り言はほとんどの生徒の耳に届いていない。
というのも、男子たちが力づくでも最後まで開けきることが出来なかった扉を、転校生の女の子はいとも簡単に開けてしまったのだ……。
俺も放課後にこっそりと試みたことがあるが、あの扉を最後まで開けきることは不可能だ。
この教室の前の扉はラグビー部五人掛りでも開けきれなかった『開かずの扉』。
修理されずあと二、三年もすれば学校の七不思議に登録されていたはずのあの扉が……。だが、驚くのはまだ早い。彼女は片手でその扉を開けていたのだ。
誰もがその光景に唖然としていると、転校生は全く気にしてもいない様子でぴょこんと教卓の前までやって来て口を開いた。
「おはようございます。今日からこの学校に通う闇路美月と言います! よろしくね!」
身長は割と小さ目で、細身の体型。とは言っても、つくべきところにはお肉もついているようで、制服のブラウス越しで見る限り胸は……うん、結構ある(俺って最低だな)。
それでいて顔はハンドボールくらい小さく、茶色のミディアムヘアが良く似合っていて、透き通るような白い肌にくりんと長いまつげ、ほんのり赤い唇が素敵な可愛い女の子。
あれ、どこかで見たことがあるような、無いような……気のせいか。
辺りを見渡せば、男共はさっきの呆気にとられた顔とは打って変わって、その可愛さに見とれて頬が緩んで目がとろんとしている。
まるで記憶の一部を消されたような対応力。
さすがとしか言いようがない。
目がハートマークになってるやつもいるぞ。
女子たちも男子たちの反応をみて、先ほど女の子が一人で『開かずの扉』を開けたという驚くべき出来事が実は起きていなかったという解釈を頭の中で進めているらしい。
目の前には倒れたままの扉があるというのに、もう誰もそれも見ないようにしている。
なんだこのクラス連中の対応力のすごさは!
「え~と、どこにいるかな?」
転校生――闇路さんが何かを探すように教室中をぐるっと一望する。
「ん?」
目が合った。闇路さんの表情がまるで開花の瞬間のようにぱーっと明るくなる。
「あ、見~つけた!」
「えっ?」
ばっと指をさされた。
闇路さんは微笑みながら、歩きというよりはスキップに近いかたちで向かってくる。
一歩。二歩。三歩。距離がどんどん縮まる。
「え、なになに? 俺⁉」
「やっとまた会えたねっ、輝彦師匠」
闇路さんが俺の机の横に来て理解できないことを言った。
やっと会えた?
また会えた?
どこで会った……?
しかも、名前を知っている……?
てか、師匠って何⁉
「え、えといつ会いましたっけ……?」
遥香は振り返って俺と闇路さんの顔を交互に見ている。その様子は明らかに動揺していて、あわあわと口を動かしている。
そんなことにお構いがない闇路さんは俺の顔を見つめ、数秒目が合うと顔を赤らめた。
そして、右手で左肩を、左手で右肩を、胸の前で掴んで体をゆっくりと揺らし、到底理解が及ばない言葉を発した。
「もう、私をあんなに舐めまわすように触っておいて、あの日の朝を忘れたの? 美月ショック、ぐすっ……うぅ」
転校生の突然放ったその言葉にクラスの時が止まった。
――え?
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 君とそんな行為に陥った記憶はないぞ!」
俺は席を飛び上がった。
それはもうものすんごい凄い表情で皆の視線が俺に集まる。
視線の隅では頭を掻きながら山崎先生が無言で教室から出ていくのが見えた。
あの人!
こんな状況なのによく普通に出ていけたな!
「輝彦師匠は私を忘れちゃったの……? そんな、ひどいよ……」
「え……えっと……」
マテマテマテ。頭をフル回転させても何も思い出せない。
何だこの急展開はっ!
視線の端で、菫乃がにやにやと口元に手を当てながらこちらを見て笑っている。
何が起こっているか全くわからないが、今は誰でもいいし、何でもいいから俺に助け舟を出してほしいっ!
「ちょっと菫乃、助けてくれ!」
「えー、忘れちゃったテルくんが悪いんじゃないの?」
「なっ!」
次だ次!
「おい涼太! これは何かの誤解なんだ、一回仲裁に入ってくれ!」
「おいおい、そんな可愛い子泣かせちゃダメだろ輝彦」
涼太はというと、近くにやって来て救済をしてくれるわけでもなく、その場を楽しそうに俯瞰していた。いつも女の子泣かせまくってるお前が言うな!
菫乃と涼太、どうしてお前らそんな普通でいられるんだよ。俺がこんな可愛い子と関りが無いのはお前ら知ってるだろ⁉
「な、なあ、遥香悪いんだけど、何とかしてくれないか……?」
「ぐすっんっ…………輝彦ぉ…………ぐすっ」
「お、おい、待て、泣くな遥香! 全部誤解なんだって! なんかの間違いなんだって!」
「本当に忘れたなら美月も泣いちゃうよ……?」
「忘れるも何も俺は君と何もしてないだろ⁉」
「ひどいよぉ。行為後の私の処理もちゃんとしてくれたのに……」
「はぁっ⁉ こ、こここ行為後っ⁉ 何言ってんだ! 俺はまだチューだって……て」
皆からの氷のように冷たい視線の矢が突き刺さる。瞳の光を失っている者と、瞳に闇を宿している者……教室では色んな感情がひしめき合っている。頭がパンクしそうだ。
「しょうがないなぁ輝彦師匠は。これだったら思い出すかな?」
闇路さんはさっきまでの小芝居じみた話し方をやめて、背負っていたカバンから黒いパーカーを取り出しそれを制服の上から着て、フードを被った。
その黒パーカーは闇路さんには大きめで、制服の上からでも余裕で着られる。
「よし、これでどう?」
闇路さんはフードの下から俺を見上げた。そして手の甲が半分隠れるほどの萌え袖を口元に持ってきて、小悪魔的にクスッと笑った。
「あ、」
――その瞬間だった、俺の記憶が繊細に鮮やかに高画質映像で蘇る。
『そ、その女……ば、バケモンだ……気をつけた方がいい…………』
『逃げるんだ……その方が身のためだ……』
『その女……とにかく力が……半端じゃな……い』
『ねぇ、なにしてたの?』
『もしかして……これ拭いてくれた?』
一学期の終業式の日の朝。
俺が公園で余計なことをしてしまった、
あの時の眠れる獅子――血だらけの少女。
「あ、思い出してくれたんだ?」
「お、思い出しました……」
その言葉を聞いて、黒い影をまとったクラスの連中(男子だけでなく女子も)がゴゴゴゴゴ……という効果音とともに立ち上がる。
「つーか! 体を拭いただけで体を舐めまわすようになんて触ってないし、行為後の処理ってあんたが不良をボコボコにした後の返り血を拭いただけだろ!」
「えー? なんのこと? 美月、喧嘩なんて物騒なことしたことないから分かんないよ」
フードを被ったまま闇路さんはわざとらしく人差し指を唇に当て視線をそらす。めちゃくちゃあざとくて可愛い……って今そんなこと言ってられる状況じゃねぇ!
「おい! 嘘つくな! やられた不良が君のことを力が半端じゃないって言ってたぞ!」
「さぁ、何のことでしょうか?」
闇路さんは首を傾げてそ知らぬふりを続ける。闇路さんの背後、俺の目線の先で闇堕ちしたクラスの連中が何やら準備が整ったようで、のそのそとこちらに向かって来ている。
「夏目ぇ。お前、遥香姫というものがありながら……」
「俺たちを差し置いてそんな可愛い子と付き合いもせず卒業したんだなぁ?」
「おいおい、そんなこと許されたら警察いらねーよな?」
「夏目最っっ低! 遥香姫を泣かすなんてありえないんだけど」
「ナツメコロス」
クラスメイトがハサミやほうき、ホッチキス、カッターを各々持ってゆっくりと迫ってくる。
この場合には、文房具も掃除用具もただの凶器。中には金属バットを握り締めた野球部まで……。
おい!
金属バットは禁止だろ!
本気で殺す気じゃん!
「まて! 話せばわかる! 俺はクラスメイトから人殺しは出したくない!」
俺の額に冷たい汗が流れる。きっと今、俺の顔は真っ青だろう。
迫りくる殺人鬼たちに震えていると、闇路さんとフードの陰から目が合った。
――よく見えなかったけど、闇路さんは一瞬笑った気がした。
「皆さん落ち着いて。今までのはあくまでも冗談です! 私たちはそういう関係にありません!」
闇路さんはフードを脱ぐと、振り返りざまに俺に背を向けてばっと手を広げた。
ああ、ここにいたのですね、俺を殺人鬼たちから守ってくれる救世主ぁ!
ん? 待てよ。……ちげぇ! 元凶はこいつだ!
「え? そうなの……?」
「ごめんなさい。そうなんです。冗談言っちゃいました」
闇路さんがてへっと可愛らしく謝る。
すると、連中はなんだなんだ~と言って凶器――改め文房具を手から捨て始めた。
「輝彦ほんとう?」
遥香も涙を拭きながら、俺を上目遣いで見る。
「あ、当たり前だろ? 俺がそんなことするわけないだろ?」
「だよね。良かった……」
遥香もようやく落ち着きを取り戻したようだ。よかった……俺が闇路さんといかがわしい行為に及んだというやばすぎる誤解は解けた。
「みんな騙しちゃってごめんね……あ、でも――」
よかった、なんか今頭がごっちゃごちゃだけど、俺も一旦冷静になろう。
「――私、夏目輝彦くんのこと愛してるの」
「…………」
もう教室にいる誰も話に付いて行けず、ただぽかーんとしている。
俺もこの状況、この話、全てに付いて行けていない。
しかし、ここで置いて行かれては俺の学校生活がとんでもないことになるかもしれないという予感、いや悪寒がする!
「おい、初対面でなんてこと言ってんだよ! 絶対ありえないだろ!」
辛うじて俺がツッコミを入れた瞬間、もう一度闇路さんはこちらに振り返った。そして一歩俺の方へ踏み出し、かかとを上げると、その小さく整った顔がすーっと俺の耳元に近づく。
「美月ね、このパーカーまだ洗ってないの。きっと指紋とか繊維痕とか残ってるんだろうなぁ。あ、警察に届け出、出してもいいんだよ?」
言い終えると、闇路美月はかかとをすとんと地面に下し、満面の笑みを浮かべた。
こ、怖ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ。
俺はたじろいで、その場にあった机に倒れるように腰を掛けると、闇路美月という正体不明の転校生は片足を椅子に置き、俺の顎をくいっと持ち上げて、満足げな表情でにやっと笑う。
「もしそれが嫌なら、私に黙って従って?」
怖いのに、俺は不覚にもすこしドキリとしてしまった。
これが夏目輝彦の平和で平凡な学校生活の終わりの始まりだった。
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