第三章 曇天
第8話 悪感
その通りだよ、お嬢さん。さっきまではね、わたしと君は、きっと同じだと思ってたんだ。
亡霊だよ。
昔は、わたしは医者をしていた。いや、言い直そう。さっき君が言っていたような、カウンセラーみたいなものだ。精神的に参っている人と話して、少しでも楽にしてあげるのが主な仕事だった。といっても、こんな小さな町で病む人なんてそうそういないから、フランクフルトまでの通勤だった。
こちらではそんな遠距離を毎日通勤するというのは珍しいことだ。普通の人の通勤時間は三十分程度だ。わたしの場合は車で一時間弱だったから、ほとんど二倍だな。そんなことはあまり話に関係ないか。
わたしと妻は二十代の真ん中あたりで結婚して、子どもこそいなかったものの幸せに過ごしていた。週末は近場に小旅行に行ったり、そうだ、ブドウ畑散歩などよくしたものだ。とにかく仲良くやっていた。
そうして結婚してから十年が経とうとしていた頃だった。ちょうど仕事の依頼が多く舞い込んで、滅多にないことに忙しかった。だから家に帰らない日が何日か続いた。それでも、数日後に迫っていた結婚記念日は当然のことながら休みを取っていた。家に帰るのを楽しみにしながら仕事に打ち込んだ。
仕事がひと段落着き、帰宅できることになった。記念日の前日のことだ。明日のためにと思って、街の酒屋に地元のワインを買いに行った。
レーマー広場から北のほう、エッシェンハイマ―を少し過ぎたところに何度か行ったことがあるワインの店がある。その店の店主がとても気さくで、普段は酒をあまり飲まないわたしに色々と説明してくれるのだ。そう、わたしはワインの有名産地に住んでいるくせに飲まないんだよ。これも珍しいことにね。
その店の壁にはテレビが掛けてあって、他愛もないニュースが流れていた。以前に行った時もそうだった。政治の話、スキャンダル、天気予報。全く変わり映えのしない店内に落ち着いたとき、あるニュースが俺の耳についた。地方テレビの小さなニュースだった。リューデスハイムで、誰かが河に身を投げたのを地元の人が目撃したと。誰かは判明していないらしい。もう、ここからは、言わなくても分かるか。結論から言うと、その誰かは妻だった。
ニュースを聞いたとき、何となく嫌な感じはあった。さっさと決めていたワインを購入し、店主に一言急用ができたと言って外の公衆電話に走った。仕事で妻には碌に電話もしていなかった。そうだ、どんなワインがいいか聞いてみようと考えた。ワインだけじゃない、何かほかに欲しいものはないか。ネックレスでも指輪でも何でもいい。ほしくなさそうだったら来週オーストリアのインスブルックに旅行しよう。そこでハイキングでもして、山の上でサンドイッチでも食べよう。そう言おうと決めて走った。
残念ながら、もちろんのこと妻は電話に出なかった。ああ、今日俺が久しぶりに家に帰るから、豪勢な晩飯の用意で忙しいのだな。それか隣のベルグマンさんの奥さんと一緒にカフェにでも行っているんだろう。それだ、そうに違いない。今頃お互いの夫の不平不満を愚痴っているのだ。女性同士でしかできない話もあるのだろう。
あえて嫌なことは考えずに家に車を走らせた。エルバッハについたあたりでライン川が見えた。いつもの青緑色ではなく、雨が降った後の茶色く濁った色だった。ちょうど、今日みたいな色だ。そして、前方にはもう一雨降りそうな分厚い雲がある。自然とアクセルを踏む力が強くなる。とにかく今は妻の顔を一目見たかった。
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