第5話 呼吸

 やっぱり。万国共通なんですね。でもおじいさんは珍しいです。普通、この質問をするとたいていの人は「家族のために」とか「恋人のために」と答えるんです。「幸せになるために」、これも多いですね。

 私だって恋人がいたことはあります。しかしその時でも、「彼に出会うために生まれてきたんだ」などとは微塵も思いませんでしたし、家族に対してもそうです。親がいて、そこにたまたま私が授けられた、こう考えればたちまち運命的な響きを持ちますが、もし親に授けられたのが私ではなかったとしても、両親は私に注いだ愛情と何ら変わりないものをイフの子供にも与えるでしょう。

 家族のため、親のため、と答える人は、よくこう言います。生んでもらったことに感謝と。こんなこと、私は素直にそう思えません。親にとっては、私という子宝ができたことは人生において幸福なことだったでしょう。しかし当の私にしてみれば、人生という苦行の始まりです。勘違いしてほしくないのですが、私は両親のことが嫌いというわけではありません。でも、したくもない勉強をして、他人に媚び諂って、努力したって報われない、否応にも他人との才能の違いを見せつけられる。生まれなければこんな苦しみはなかったのです。

 つまり何が言いたいかというと、この問いには一般化できる答えが無いということです。あなたにとっての生きる意味はそうかもしれないけど、私にとってのそれは全く意味を持たない。逆もしかりです。

 ごめんなさい、脱線しすぎましたね。話を戻しましょう。


 私はカラオケボックスの室内で、彼と私の価値観の一致に一通り驚いた後、さっそく練習を始めました。スマホの音量を最大にして彼がギターを弾いている動画を流し、それに私が合わせて歌うのです。

 一時間くらいそうして練習しました。そこで私はあることに気づきました。うまく歌えている気がしないのです。好きな曲を歌うときはスッと、自然に音が出せるのですが、彼の詩を歌うときは何か喉につっかえているような感覚なのです。たった一時間しか練習していないから、というわけではないような気がしました。


 それから二日ほど空いた夜、彼からメッセージが届きました。今晩は三条大橋でやるので今から来てほしいと。電車に乗っていかなければなりませんでしたが、迷うことなく「了解」と送りました。

 三条大橋東詰のバス停付近に彼はいました。開口一番、私は素直に、練習したが難しくて、上手く歌えないかもしれないことを告げました。いいよ、と軽い笑みを浮かべながら返してくれました。

 私はそれでも一生懸命歌いました。彼は前と同じ調子でギターを弾きました。でも立ち止まって聞いてくれる人はいませんでした。時折ギターケースに小銭を入れていってくれる人はいましたが。

 最後の曲を歌い終わって投げ銭を数えてみると、わずか三百円ほどしかありませんでした。寒い冬の夜に一時間立ちっぱなしで、下手なりにも本気で歌った結果がこれです。私は愕然としました。だれしも最初はこんなものなのでしょうが、こういう経験をしたことが無かった私にとってはそのショックは結構なものでした。

 彼はそのお金を私にくれると言いましたが、とても貰えるわけがありません。少額といえどもお金に関しては彼のほうが困っているだろうし、私の歌は下手だったし、無論これは私が勝手に彼についていかせてもらって歌っているだけだからです。

 そう言うと諦めて受け取ってくれました。これして私たちの初めてのセッションが終了しました。

 彼はその後、三日に一回ほどのペースで路上ライブをしました。それでも私はうまく声を出せませんでした。投げ銭も最初とほとんど変わらない程度しかもらえませんでした。それでも私だけは彼の音楽以上のものはないと思っていたので、どれだけ売れまいとついて行きました。

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