眠れぬ夜に

 風が吹く。

 冷たくもどこか生温い余韻を孕んだ初夏の夜風が、日中のけぶるような雨の残滓をさらってゆく。

 僕は湿った空気を大きく吸い込んで、溜息を吐いた。……雨は嫌いだ。肌に纏わりつく湿気は不愉快だし、ひどく憂鬱な気分になる。


 本当はこんな、いつまた雨が降り出すとも知れない夜に外に出るつもりなんてなかった。にも関わらずこうして一人で出歩いているのには、勿論れっきとした理由があるのだ。

 でもその理由は他人に話して理解してもらえるような類のものではないので、いきおい僕の深夜徘徊は、人目を避けるようなかたちになる。

 足音を殺して塀の隙間をすり抜ける。息を潜める。空き家の庭先を通って、細い細い裏道をゆく。

 何度経験しても、こればかりは慣れない。人に出くわさない為とはいえ、もし見つかりでもしたら一発でアウトだ。


(──ああ、頭が痛い。早く終わらせて、帰って寝たい)


 耳鳴りがするような静寂の中、雲の切れ間からかすかに覗く青白い月を見上げながら、僕はぼんやりとそんなことを考えた。


 そうこうしている内に、目的地が近づいていた。そこは閑静な住宅街の中にぽつんと佇む、なんの変哲もない小さな公園である。

 その入口、切れかけの街灯がちかちかと瞬きながら照らす真下に、僕の目当てのものがあった。


 ──半ばからへし折れ、捻じ曲がった小さな手足。あらぬ方向を向いた首。背負ったピンク色のランドセルから飛び散った教科書やノートは、赤黒い血溜まりに浸っている。


 それは、見間違いようもなく死んでいた。


 まだ年端も行かない幼子の惨状に、僕は思わず顔を顰めてしまう。しかし、どうあれ目的は果たさなければならないのだ。後込みしている暇はない。

 意を決して一歩一歩足を進めると、死骸を跨ぐようにして公園に足を踏み入れる。

 確かに血溜まりを踏んだはずの靴に、汚れはない。胸いっぱいに吸い込んだ空気に、匂いはない。あれは確かに死体だ。しかし、この世のものではない。

 あれは──僕の目に見えるものは、厳密に言えば、地縛霊だとか浮遊霊だとかの類のものではない。

 だから怖がる必要はないのだと知ってはいても、背筋が粟立つのを抑えられない。振り返りたい気持ちをぐっと堪えて、公園の中に目を向けた。


(そうだ。……僕には、やるべき事がある)


 デストルドー、という言葉がある。精神分析学の用語で、人の持つ死に向かおうとする衝動のことだ。僕の目には、それが見える。


 『生霊とか、地縛霊とか、浮遊霊とか──そういうのって、ざっくり言えば人の情念の残り香じゃない?』

 『そういうものが人に障るんだから、うん。君の言うように、不特定多数の死にたいという欲求の残り滓が一つの場所に凝ったのなら、それが人を死に誘う事だってあるんじゃないかな』


 かつて知り合いから掛けられた言葉を心の中で反芻しながら、右手に握り込んだ鉄釘を弄ぶ。

 先程僕が目の当たりにした──そして今もなお、僕のすぐ後ろに横たわっている──死骸。あれは、結果だ。

 ここにある、死へと向かう方向性の吹き溜まりが遠からぬ未来に飲み込むであろう、犠牲者の幻像だ。


 幻像から、大元へ。ぼんやりとした靄のような繋がりを辿って、対処すべき標的を直視する。

 砂場を横切って、ブランコの根本まで。弾かれたように駆け出すと、その場に屈み、地面に鉄釘を突き立てて。

 左手に持った金槌を大きく振り上げると、そのまま力いっぱい振り下ろした。

 瞬間。ぱちん、と、何か目に見えない泡のようなものが弾けた感覚があったかと思うと、俄かに一陣の風が吹き抜けて、澱んだ空気をさらってゆく。


 一息ついて、振り返る。先程まで確かにそこにあったはずの死骸はもう、影も形もなかった。

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ワンドロ乗っけるとこ ぼんやりとしたななし @RGB_4u

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